【茶禅一味】「会席」ではない「懐石」の本来の意味と成り立ちをご紹介!質素を楽しみましょう!

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炉を切った専用の茶室で、茶釜や茶碗、茶筅などの高価なお茶道具を用いて、華やかな着物姿でお点前を楽しむ茶の湯。

現代の生活からは遠く、優雅でぜいたくな趣味に見えます。まして懐石といえば、茶の湯の席で出される料理、当然高級和食料理というイメージが強いのではないでしょうか。しかし、茶の湯も懐石も本質は質素なものでした。茶の湯は、禅文化と密接な関係があります。なにより、懐石ということばそのものが、日々、座禅を組み生活禅の修行を積む雲水の暮らしから生まれたものなのです。懐石が伝える禅と茶の湯との関係をまとめてみました。  

懐石とは温めて懐に入れた石のこと

懐石とは、茶の湯の正式な茶事の際に、亭主が客をもてなすために出す食事のことをいいます。
会席料理と混同されがちですが、会席料理が日本料理で酒を楽しむ料理であるのに対して、懐石は薄茶や濃茶を楽しむための食事としてつくられていいます。室町時代から、茶会でもてなし料理が出されることはありましたが、茶事の料理として特別な形式はなく、豪華な本膳料理であったようです。千利休が「侘び茶」を完成させていく中で、狭い茶室で供するのにふさわしい一汁二菜、一汁三菜など簡素なスタイルで趣向を凝らした茶事のための食事が考えられていきました。懐石のスタイルは千利休がほぼ完成させたもので、それが後年になって「会席」の字を「懐石」と置き換えて呼ぶようになったといわれています。「侘び」という美意識によってつくられた茶事料理が懐石なのです。

懐石の語源は禅宗の修行僧の暮らしの中にあります。昔、僧侶は午前中に托鉢を行って食事をとり、午後は食べないという決まりがありました。そのため、午後になると空腹と体温低下に耐えかねて、温めた石(温石)、またはこんにゃくを懐に入れて餓えと寒さをしのいだといわれています。ちなみに、病人に対しては午後も薬としての食事が与えられていました。現在も禅寺では「夕食」にあたる食事はありません。「薬石」と呼ばれていて、飢えをしのいで活動するための薬であり、食べものをむだにしないためにいただく残り物とされています。千利休の考案した茶事の食事は「飢えをしのぎ体を温める簡素な食事」であるべきというメッセージ性もこめて「懐石」と呼ばれるようになったものと思われます。

「懐石」の基本は一汁三菜

懐石はどんな料理なのでしょうか。
最大の特徴は、茶室で亭主自らが饗応するものとして考えられているところにありのます。一汁一菜が基本で、最初に「飯」「汁」「向付け」を載せた折敷(脚のない膳のこと)が亭主の手で出されます。一汁三菜のうち、一汁が味噌汁、三菜の一品目が「向付け」で刺身やなますが盛られています。まず少量の味噌汁を吸いきり、ごはんをほんのひと口残して食べた後、亭主によって酒が供されます。それから向付けに箸をつけるのが作法です。

この折敷は、禅僧が托鉢で食事を取るときに使う固い油紙の鉢単(はったん)を模したものです。懐石で使われる食器も、禅僧が使う応量器(臨済宗では持鉢)と呼ばれる食器を参考にしています。応量器は5個の容器が入れ子になった漆器の食器で、ごはん、汁、香菜と入れるものが決まっており、禅の修行のひとつとして厳格な作法が定められています。茶の湯も茶事の食事も、その心構えは僧堂で座禅を組む禅の修業と同じであるということを示したものと思われます。後になって陶磁器やガラス器も用いられるようになりました。

つぎに三菜のうちの二品目「煮物」椀が運ばれます。煮物は懐石のメインで、しんじょ、麩、湯葉、野菜などを色取りよく盛り、すまし汁仕立てにしてあります。三菜の三品目は魚などの「焼き物」で人数分が盛られた鉢を取り回し、取り箸を使って各自が取り分けます。現代では、さらに預け鉢または強肴と呼ばれる炊き合わせの料理がでてきて、客で取分けます。吸い物が出されて食事のコースは終わりとなります。

亭主は酒を注ぎ、珍味が盛りつけられた八寸と呼ばれる角盆から、各自の吸い物椀のふたに肴を取り分けます。亭主は正客から順にお流れをもらって客と杯を交わし合います。湯と香の物が出され、ひと口残していたごはんに湯をかけて食べ終わります。汁椀と茶碗に湯をいれて飲み干し、器を懐紙で清めるのは禅寺の作法によるものです。それから縁高という重箱に入れられた菓子が供されて、お茶をいただきます。

懐石の特徴として、温かいものは温かいまま、冷たいものは冷たく供する。食べにくいものには隠し包丁を入れて食べやすい工夫をする、無駄な飾りや食べきれないほどの量は作らず、食材は使いきる、客は最後まできれいに食べるなどがあげられます。亭主自らが間を大事に運ぶもてなしは、日本のおもてなしの心の原点であるともいえるでしょう。懐石には、随所に禅寺の食事の流儀、命を大事にして食材をむだにしない禅の心が生かされています。

茶の湯と禅宗との深い関係

「茶禅一味」ということばがあります。これは「茶道は禅から起こったものであるから、求めることは禅と同じ」という意味です。東山文化の影響下で村田珠光、武野紹?らによって形成された茶の湯は千利休が茶道として完成させました。

禅宗と茶の湯との関係は深く、鎌倉時代にさかのぼります。お茶が中国から伝来したのは奈良時代のことですが、一部のみにとどまりお茶を飲む習慣は根付いてはいませんでした。栄西禅師は宋より茶種を日本にもたらし、1214年「喫茶養生記」を著しました。この本は、二日酔いに苦しんでいた源実朝に茶とともに献上したものといわれています。日本最古の茶園は、華厳宗の髙山寺につくられました。それ以降、寺院を中心に広がった喫茶は禅宗の支持者であった武士階級にも広まって、茶会が社交の場ともなっていきました。派手な茶会の席で、高価な茶道具や舶来の飾り物自慢が行われていた中、茶人の村田珠光は質素な書院造の四畳半の茶室で茶会を行い、侘び茶を創出しました。侘び茶には、珠光が大徳寺で一休宗純に参禅し印可を受けた体験や能阿弥の影響が大きかったといわれています。武野紹鴎は珠光の直接の弟子ではありませんが、その影響を受け、自身の和歌の素養を活かしてさらに侘び茶を深めました。大徳寺の末寺南宋寺に参禅して大林宗套より嗣法し、大黒庵主となっています。その直接の弟子にあたるのが千利休であり、やはり南宋寺に参禅。大徳寺とも親交があったそうです。千利休という名前を誰がつけたのかは諸説がありますが、大徳寺の住持のいずれかではないかとされています。

日本の伝統でもある茶の湯の文化。三人の参禅体験がなければ、生まれていなかったかもしれません。
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