西芳寺に現在も息づく夢窓疎石の禅宗観

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西芳寺というより「苔寺」といった方が、イメージを浮かべやすいかもしれません。それくらい「苔寺」として日本だけでなく、世界にも名を知られた寺院です。
以前は誰でもその有名な庭園を見ることが可能でしたが、現在は限られた人数にのみ門戸を開いています。そこには中興開山の役割を果たした、夢窓疎石の願いが息づいているのかもしれません。

二つの庭が対照的な西芳寺

西芳寺は京都の西京区にある寺院。山号は「洪隠山」、阿弥陀如来を本尊とする臨済宗の禅寺です。苔寺と呼ばれるほど苔の美しい庭園を持ち、その庭園は世界中に知られています。一面に広がる苔むした境内の中にある本殿や茶室は、長い歴史を思い起こさせますが、そのほとんどは明治時代に再建されたものです。最も古い建物は16世紀末に建てられた湘南亭。本家と待合及び廊下を含めた2棟が、国指定の重要文化財に指定されています。

庭が有名な西芳寺の敷地内には、禅の世界を具現化していると言われる枯山水庭園と、黄金池を巡る池泉回遊式庭園の2つ。影向石の周辺に作られた石庭は、夢窓疎石の作った当初の庭の姿をとどめていると言われ、夢窓の庭に対する姿勢が表れていると言われています。放生会も行われる黄金池のある庭園は、その後の日本庭園の見本ともなった石組みが有名です。

西方寺から西芳寺へ

西芳寺を開山したのは夢窓疎石ですが、それ以前にも約600~700年以上にわたる歴史があります。もともとは用明天皇の皇子である聖徳太子が建てた別荘が、現在の西芳寺の始まりと言われています。太子の別荘にあったとされる「朝日のしみづ」と「夕日のしみづ」は、現在でも枯れることのない天然の湧水です。おそらく別荘の敷地内に、太子自作の阿弥陀如来像を祀った仏堂があったのではないかと考えられています。

太子の時代から隔たること百数十年。聖武天皇は行基に命じて畿内に49の寺院を建立しました。その中の一つ「西方寺」を、太子の別荘跡地に建てたのが、寺院としての始まりと考えられています。その後は荒廃するにまかされ、長い時間が過ぎて行きました。実はこの間の西方寺については、あまり詳しいことがわかっていません。様々な説は伝えられるものの、確固とした証拠たるものが見つかっていないのです。

鎌倉時代に入ると、摂津守・中原師員(もろかず)が堂舎を再建し、西方寺と穢土寺に分割して、浄土宗の法然を迎えました。西芳寺の上と下の2つの庭園は、この時の西方寺と穢土寺の名残ではないかと考えられています。一時は活気を取り戻しましたが、師員の死後、再び荒廃し、あとは夢窓疎石の登場を待つこととなるのです。

西芳寺に中興開山と夢窓疎石

夢窓疎石の生家は、伊勢源氏の佐々木家。夢窓の生まれた前年には、蒙古襲来があるなど、世間は騒然としていた時代でした。甲斐(山梨県)で仏教に触れた夢窓は、空阿大徳に弟子入りし、東大寺戒壇院の慈観律師により受戒します。平塩山寺に戻った彼は、夢の中で禅僧に出会ったことがきっかけで、禅宗に進むことを決意します。

京都建仁寺をはじめ、鎌倉の東勝寺・建長寺・円覚寺を転々とし、法諱を「疎石」道号を「夢窓」としたのは、受戒から2年後の20歳の時でした。その後も中国から高僧が来たと耳にすれば、京都の建仁寺から鎌倉の建長寺まで馳せ参じ、熾烈な選抜試験をくぐり抜け入門を許されたり、陸奥や常陸(茨城県)を経て3度目の鎌倉、さらに故郷の甲斐に戻り遠江(静岡県)・美濃(岐阜県)を渡り歩いたりと、禅宗の中で上位の格を追い求めることをせず、ただひたすら修行し続ける日々を送りました。彼の評判は日増しに高くなっていきます。

夢窓疎石が西芳寺を開山するきっかけとなったのは、後醍醐天皇から京都の南禅寺の住持を依頼されたことでした。鎌倉幕府の執権・北条高時からの後押しもあり、断れなかった無双は、1年ほどですが住持を引き受けることになります。その後、亡き世良(ときなが)親王の菩提を弔うため、臨川寺の開山の勅命を受け、夢窓国師の号を賜り、後醍醐天皇の宗教政策の先頭に立つことになったのです。

ところが足利尊氏が後醍醐天皇に叛旗を翻したことで、事態は急変してゆきます。鎌倉幕府を倒した足利尊氏は、光明天皇を擁立し征夷大将軍になり、室町幕府を開きました。南北朝の対立の始まりです。後醍醐天皇とも足利尊氏・直義兄弟とも親交のあった夢窓は、どちらに加担することもなく、閉じこもって表舞台に出ることはありませんでした。

夢窓が動き出したのは、足利尊氏の重臣・中原親秀から、臨川寺対岸にある西方寺の住持の依頼を受けてでした。この時、彼は西方寺を「西芳寺」に名を改め、禅寺として修復作業に取り掛かるのです。事態を静観していた無双が動き出したことは、事実上の南北朝の決着を意味していました。その4ヶ月後、後醍醐天皇の崩御の報を受けた無双は、尊氏に天皇の菩提を弔う禅寺「天龍寺」の建立を進言するのでした。

地蔵が作った浄穢の区別のない名園

さて、西方寺にあった上下二段の庭園。浄土と穢土(穢=けがれ)を具現していたと考えられていますが、夢窓はその構成を継承しなかったとみられています。というのは、縁起にも記載のあるこんな伝説が残っているからです。

夢窓の造営作業が進行している間、毎日巨石を運んだり、巨木を植え替えたりする僧がやってきていました。ようやく造営が終わったその日、その僧は「あなたの徳を慕うゆえ、作業を手伝いました。のちの印に拙僧の錫杖(シャクジョウ)を受け取ってください」と、錫杖を夢窓に手渡し、代わりに夢窓の袈裟を受け取って帰って行きました。その後、四条の「染殿(ソメドノ)地蔵」の手にあるはずの錫杖が見当たらず、代わりに見慣れない袈裟をまとっているのが発見されます。染殿地蔵は浄穢の差別をしない象徴と言われており、西芳寺の上下の庭も、この区別を取り払ったと考えられているのです。

夢窓は1351年(観応2年)に亡くなりますが、彼の死後も上皇や公卿、将軍たちが西芳寺を訪れました。彼らの多くは天龍寺の御幸を終えた後、西芳寺へ疲れを癒しに訪れたようです。天皇の菩提を弔う天龍寺と、禅寺の西芳寺とでは、肩の荷が違ったのかもしれません。何よりも美しい庭園は、眺めているだけで心が洗われるようだったのでしょう。三代将軍・足利義満だけは、自らを禅僧の境地に置き、お供とは別行動をとって、指東庵にこもりひたすら座禅を組んでいました。他の人たちのように春の桜や、秋の紅葉を楽しむことなく、修行の場として西芳寺を訪れていたのです。

復興、そして観光の寺から宗教の寺へ

室町幕府の歴代将軍の中では、8代将軍の足利義政が最も多く西芳寺を訪れた将軍でした。毎年のように春と秋の2回、西芳寺を訪れその季節の庭園の木々を愛でていたようです。ところが応仁の乱の戦火を逃れることは叶わず、西芳寺も全焼を免れませんでした。幸か不幸か、戦乱が広がることで、争いの中心から遠ざかった義政は、東山山荘の造営に着手します。最初に取り掛かったのは、西芳寺の指東庵の再興でした。

指東庵は再興されたものの、応仁の乱の後の西芳寺の復興はままなりませんでした。低湿地に位置する西芳寺は、戦火以外にも度重なる洪水の被害に見舞われます。辛うじて存続することはできましたが、伽藍の復興が叶ったのは明治時代に入ってからでした。現在の伽藍のほとんどは、この明治時代の復興期に再建されたものです。

戦後になって西芳寺は庭園の苔の美しさから、「苔寺」として注目を集めるようなります。国内だけでなく、国外からも多くの観光客の訪れる、京都の観光スポットとして人気の寺院になりました。その人気ぶりは、京都の観光施設のトップと言っても過言ではないほどの賑わいでした。多くの人が訪れるようにはなったものの、そのほとんどは庭園の苔だけを見て去ってしまいます。

そのことに疑問を感じた西芳寺は、ついに大きな決断を下すことになりました。それが現在行われている「予約制の拝観」です。西芳寺は写経などの宗教行事に参加する、限られた人数にのみ境内を解放することにしたのでした。おそらくそれまで通り拝観料を納める見学者を受け入れた方が、はるかに経営も楽だったに違いありません。それでも西芳寺は、夢窓疎石の目指した禅の世界を守り抜くべく、門戸を閉ざす方を選んだのです。

西芳寺の苔に小欲知足の心を知る

釈迦の教えの中に「小欲知足」という言葉があるそうです。難しい事は省きますが、簡単に言うと「分相応」といったところでしょうか。
欲のない人は満足を知っている、といった意味になります。大量消費によるエネルギーや環境問題に、実は西芳寺も大いに影響を受けています。近年の二酸化炭素放出量の増加による温暖化の影響で、境内の苔の分布が変化してきているというのです。
それに伴い、他の野生動物や昆虫たちにも変化が生じているといいます。私たちはそろそろ「十分に足りている」ということを、自覚して次の行動を起こさなければならないのかもしれません。

事前申し込みが必要で高い拝観料、それでも行きたい西芳寺

「古都京都の文化財」17か所の一つである西芳寺。別名である苔寺の方が世間では名が通っているかもしれません。
西芳寺は、桂離宮や修学院離宮、京都御所などと同様に事前申し込みが必要です。拝観料も破格の3000円です。それでもファンは「ここは別格」と言います。西芳寺の魅力に迫ります。

「古都京都の文化財」17か所とは

1994年に世界文化遺産として登録された「古都京都の文化財」17か所について、おさらいしてみましょう。

1972年のユネスコ総会で採択された「世界の文化遺産及び自然遺産の保護に関する条約」で定義された世界遺産とは、文化遺産、自然遺産、複合遺産の3つがあり有形の不動産が対象となっています。「古都京都の文化財」は、京都が平安時代から江戸時代まで政治経済の中心地として各時代の文化を牽引して全国の建築、造園などの発展に大きく寄与したことなどが評価されて、文化遺産として登録されました。日本では5番目に登録された世界遺産です。
構成する資産は、京都市にある二条城、賀茂別雷神社((かもわけいかづちじんじゃ)上賀茂神社)、賀茂御祖神社((かもみおやじんじゃ)下鴨神社)の2つの神社、鹿苑寺(金閣寺)、慈照寺(銀閣寺)清水寺など11のお寺と、宇治市にある宇治上神社、平等院と、大津市にある比叡山延暦寺です。二条城の他は由緒ある寺社仏閣などが並びますが、どうしてこの17か所が選ばれたのかご存じでしょうか。
教王護国寺(東寺)をはじめとして醍醐寺、仁和寺、高山寺、西本願寺など13か所に国宝建造物があります。
このうち、西本願寺、二条城の庭園が特別名勝、醍醐寺(塔頭寺院の三宝院)と慈照寺(銀閣寺)の庭園は特別名勝と特別史跡に指定されています。鹿苑寺(金閣寺)の庭園も特別名勝と特別史跡に指定された庭園です。

ここ西芳寺はどうかと言いますと、石庭で有名な龍安寺、天龍寺と同じくそれぞれの庭園が特別名勝なのです。世界遺産の仲間入りができた資産は国宝建造物があること、なくても庭園が特別史跡あるいは特別名勝に指定されているなど、芸術的価値が評価されているところです。興味深いのは、ここ西芳寺と天龍寺の庭園は、同じ人物によって作られていることです。

西芳寺の魅力~天才庭園家夢窓疎石によって作られた西芳寺庭園

室町時代、松尾大社の宮司であった藤原親秀(ちかひで)に当時荒廃していた西芳寺(当時の名称は「西方寺」)の再興を依頼されたのが夢窓疎石です。

この夢窓疎石という人物は、77歳で入寂するまで室町時代に大活躍した臨済宗の高僧です。育てた門弟は1万人以上いたと言われています。後醍醐天皇から「夢窓国師」の号を賜ったほか、生前と没後あわせて七人の天皇から国師の号を授けられ「七朝帝師((しちちょうていし)」と称されました。
庭園家としての才能もずば抜けています。手がけた庭園は世界遺産のここ西芳寺と天龍寺だけでなく、鎌倉市の瑞泉寺、多治見市の永保寺、甲州市の恵林寺などいずれも名勝に指定されています。目を見張る業績の数々です。再興するにあたって、夢窓疎石は鎌倉時代に法然によって浄土宗に改宗されていた西芳寺(創建当時は法相宗(ほっそうしゅう))を臨済宗の禅寺とします。寺の名前も「西方寺」から「西芳寺」へと改め、夢窓門派の修道のための寺としたとされています。
庭園の改修にも大がかりに取り組みます。それまでの浄土風の池泉庭園から上下二段からなる庭園を作り上げます。この趣が異なった二つの庭園があるのが西芳寺の魅力です。
上段は山の斜面に三段組みの枯滝石組を配した枯山水(かれさんすい)庭園であり、下段は黄金池(おうごんち)と呼ばれる池泉を中心とする池泉回遊式庭園となっています。
黄金池は、心という字をかたどった池泉であるところから心字池とも称されています。苔によって庭園が造られた当時の面影は残っていないとされる西芳寺で、黄金池の東側に浮かぶ鶴島の石組はあまり苔におおわれていないため比較的当時の趣が残っていると言われています。

西芳寺の魅力~四季それぞれに美しい西芳寺庭園

作庭当初は苔など生えてなくて、苔におおわれるようになったのは江戸時代の末期と言われている西芳寺庭園ですが、その苔のおかげで神秘的な美しさを体験できるのです。苔が最も美しいといわれているのが梅雨時です。

衆妙門から中に入ると、新緑の木々が出迎えてくれます。上下二段の庭園は下段からスタートですがいきなりふわふわした苔の絨毯が目に入ります。もこもこした苔は木々にも登っています。
庭園の南側には当初、夢窓疎石の時代に建てられた湘南亭(しょうなんてい)と呼ばれる茶室があります。千利休の次男の千少庵によって再興されたと伝えられる茶室で、現在は重要文化財となっています。幕末の頃、岩倉具視が幕府から難を逃れるためにここに身を隠したとされます。湘南亭付近の苔はびっしりと生えています。庭園内の黄金池には長島、朝日ヶ島、夕日ヶ島と三つの中島がありますが、作庭当初は白い砂でおおわれていたようですが、今はすべて苔でおおわれています。島にかかる橋も苔でびっしりです。
このような幻想的な風景はほかでは味わえませんね。長島にかかる橋は、京都の世界遺産の切手が発行されたとき採用されています。
この島々の景色も紅葉の季節になると全然趣を変えてきます。違う季節の風景を見比べるのも西芳寺の魅力の一つです。

美しい苔寺の環境をまもるために、1977年7月から一般の拝観を中止し往復はがきによる事前申し込み制となっているようです。夢窓疎石が作庭した時代に思いをはせて西芳寺庭園をぜひお楽しみください。

スティーブ・ジョブズもよく訪れたという西芳寺の魅力

「古都京都の文化財」17か所の一つとして1994年に世界文化遺産として登録されている京都市西京区にある西芳寺はスティーブ・ジョブズが家族とよく訪れたお寺として有名です。アップルの共同創業者として知られる彼が愛した西芳寺の魅力をご紹介します。

スティーブ・ジョブズと禅と日本文化

病気のため2011年8月にアップルのCEOを退任するまで、スティーブ・ジョブズがipod、iphone、ipadなど革新的なものを世に送り出してきたことは皆さんご承知のとおりです。
テクノロジーを魔法に変えた人物と言われるジョブズが、どのようにして日本文化に傾倒していったのでしょうか。
ジョブズ本人が唯一公認した伝記『スティーブ・ジョブズ』によると、インド放浪を経て故郷のロサンゼルスに戻った20歳の頃ある一冊の禅の入門書に出会い夢中になります。それは、1959年に渡米しサンフランシスコ禅センターを設立するなどアメリカ仏教界へ大きな影響を与えた曹洞宗の僧侶である鈴木俊隆(すずきしゅんりゅう)が書いた『zen mind beginners mind』です。
1970年に米国で出版されて以来、世界中で読まれている禅のバイブルです。その後、鈴木俊隆がアメリカに招いた同じ曹洞宗の僧侶である乙川弘文(おとがわこうぶん)と1971年に出会い深い感動を覚え交流を深めます。30年に及ぶジョブズと乙川弘文との交流は、2012年2月に日本語版が発売されたマンガ『The Zen Of Steve Jobs』にも書かれているほどです。この本は現在、世界各国で翻訳出版されています。
乙川弘文は、ジョブズが興したNeXT社の宗教顧問に就き(1985年~1996年)、1991年にはジョブズとローリン・パウエルとの結婚式も執り行っています。その間日本文化をこよなく愛する彼は、家族を連れて京都にたびたび訪れます。
西芳寺もお気に入りのお寺でした。アップルのCEOを退任する前年の2010年5月にも京都を訪ねた彼は、西芳寺に足を運んだのでしょうか。

西芳寺の魅力

別名、苔寺と言われるくらい苔に覆われた風景は珍しく、四季折々の表情で私たちを楽しませてくれます。苔の種類はなんと約120種類にも及び、気候の変化によりさまざまなコントラストを生み出します。約3万平方メートル(約9千坪)にも及ぶ庭園は、年間を通じて美しい景色を見せてくれますが紅葉の季節は特に秀逸です。
立ち並んだ木々の間に苔がびっしりと敷き詰められ、その上には紅葉が加わって見事な風景を作り出してくれます。知らぬ間に時が経ってしまいます。雨の季節も堪能できますよ。生き生きとして濃い緑色をした苔たちが私たちを出迎えてくれます。
苔は地面だけでなく木のまわりにも生えていて、何とも神秘的です。この美しさは、スティーブ・ジョブズならずとも何度も足を運ばずにはいられませんね。

開山は行基、中興開山である夢窓疎石が「西芳寺」と改めました

臨済宗の古刹である西芳寺は、飛鳥時代には聖徳太子の別荘があった場所とされています。奈良時代に入り、聖武天皇の勅願を得た行基が別荘から寺へと改めたと伝えられています。開山当初は法相宗(ほっそうしゅう)で「西方寺」というお寺でした。
平安時代には空海も入山したとも伝えられています。鎌倉時代になると、法然により浄土宗に改宗されました。法然を師と仰ぐ親鸞も訪れています。仏教界の大物が次々と登場します。室町時代に入り荒廃したお寺を再興するために、1339年松尾大社の宮司であった藤原親秀(ちかひで)が招請したのが夢窓疎石という禅僧です。この夢窓疎石なくして今の西芳寺はないといっても過言ではありません。
夢窓疎石は夢窓国師、正覚(しょうがく)国師、心宗(しんしゅう)国師など七つの国師を天皇から賜った七朝帝師(しちちょうていし)と呼ばれた大物です。夢窓疎石が開山したお寺は、美濃の虎渓山永保寺、甲斐の恵林寺、同じ「古都京都の文化財」17か所の一つである嵯峨嵐山の天龍寺など数多く、西芳寺を模して創られたと言われる金閣寺、銀閣寺とも勧請開山(名目上の開山)は夢窓疎石です。
夢窓疎石は、西芳寺を臨済宗の禅寺として再興します。この時、お寺の名前も「西方寺」から「西芳寺」へと改めます。

天才造園家である夢窓疎石によって作られた西芳寺の庭園

西芳寺の一番の見どころは夢窓疎石によって作られた庭園でしょう。西芳寺の庭園を手がけた夢窓疎石は、室町時代の天才造園家です。その類まれな才能をいかんなく発揮して手がけた庭園は、天龍寺庭園(世界遺産、国の史跡及び特別名勝)、永保寺庭園(国の名勝)、瑞泉寺庭園(国の名勝)、恵林寺庭園(国の名勝)、覚林房庭園(町指定文化財)とそうそうたるものです。西芳寺庭園も例外ではありません。国の史跡および特別名勝に指定されています。
庭園は、上段の洪隠山(こういんざん)と呼ばれる枯山水庭園と下段の黄金池(文字通り「心」という字をかたどっているため心字池とも呼ばれる)と称される池泉を中心とする池泉回遊式庭園の二段から構成されています。
黄金池には長島、朝日ヶ島、夕日ヶ島と呼ばれる三つの小島があり、造られた当時は白い砂でおおわれていたようですが、今は苔でおおわれ当時の面影はありません。今は庭園全体が苔でおおわれて苔寺として有名な西芳寺ですが、作られた当初は苔など生えてなくて、苔におおわれるようになったのは、江戸末期と言われています。

今は苔でおおわれて苔寺として有名な西芳寺は、スティーブ・ジョブズだけでなく訪れる人を魅了するお寺です。あまりの人気のせいか、1977年7月からは一般の拝観を中止し往復はがきによる事前申し込み制となっています。手続きは面倒でも訪れる価値は十分ありますよ。

「モス・ガーデン」の名で海外にまで知られる「苔寺」こと西芳寺!

「苔寺」との別名を持つ西芳寺、天龍寺の境外塔頭であり、山号は洪隠山、本尊は阿弥陀如来、開山は夢窓疎石と伝えられており、「古都京都の文化財」として世界遺産に登録されています。
苔に覆われた庭園は海外にまで知られており、年月を経て覆われる苔の衣の内側には今も夢窓国師の禅と作庭の精神が息づいています。参拝には往復はがきでの申し込みが必要であり、参拝料も3000円と少々お高いですが、一度は訪れてみる価値のあるお寺であると思います。
それでは、西芳寺の見どころを1つ1つご紹介していきたいと思います!

西芳寺の見どころ

主な参拝コースは、まずは衆妙門からお寺に入り、その後に本堂の西来堂で写経を行ってから庫裡横の玄関をくぐって庭園内を拝観するのが一般的です。
古寺道バス停から歩いてくると先に総門が目に入るのですが、総門からは入ることができず、総門から約100m西のところに衆妙門があり、ここから参拝者は境内に入ります。
見どころとしては、上段の枯山水庭園と、下段の黄金池をめぐる池泉回遊式庭園は全てが苔に覆われており、その光景は圧巻です。

・総門
こちらからは入ることができませんが、西芳寺川に架かる橋を渡ったところに見えるのが、東向きに位置する西芳寺の総門です。本瓦葺の門であり、高浜虚子の句碑が建っています。かつて多くの参拝者が出入りしたのがこの総門でした。

・高浜虚子句碑
総門の手前にある高浜虚子の句碑です。自然石に「禅寺の苔を啄む小鳥かな」の俳句が刻んであります。虚子は正岡子規と並ぶ近代俳句の巨匠として知られ、この句碑は昭和30年代に建てられたものです。

・参道
杉木立の緑と苔の緑に彩られた、何とも清々しい参道です。かつて拝観者はこの参道を通り、さらに奥にある山門をくぐって庭園を拝観しました。

・山門
総門の奥にあり、南向きに建つ門で、本瓦葺、1間1戸の薬医門があります。この門をくぐってまっすぐ進むと庫裡があります。
・参道と土塀
山門をくぐって石畳を手前にたどると、庫裡と庭園の入口に到着します。土塀の向こうには茶室少庵堂と西芳寺庭園があります。この土塀は非常に高く立派であり、参拝せずに外部から中の様子を覗くことは絶対にできないようになっています。

・観音堂
庭園西側に南向きに建つのが観音堂です。1969年に西来堂ができるまで、この観音堂が本堂の役目を果たしていました。内部仏間に聖観音菩薩立像を祀っています。
・黄金池(史跡・特別名勝)
こちらの石庭は中興開山の夢窓作庭当初の石組と言われています。西芳寺庭園は上段の枯山水庭園と、下段の黄金池をめぐる池泉回遊式庭園に大別できるのですが、こちらは下段の黄金池になります。

・少庵堂
観音堂の前方にあり、池から流れ出る小川のほとりに茶室小庵堂がたたずんでいます。内部に千利休の後妻宗恩の子で千家2代の少庵の像を安置していたことから、少庵堂と名づけられました。床の正面が躙り口(にじりぐち)とされ、躙り口の上には下地窓をつけ、入った右手に連子窓をつけています。茶室の手前には地面を少し掘り下げて4、5段の石積みの階段がありますが、いわゆる降りつくばいになっています。

・湘南亭
茶室である湘南亭は西芳寺庭園の最も南に位置し、「黄金池十境」の1つとして数えられています。千利休の後妻宗恩の子で千家2代の少庵が茶室として再建したと言われており、全体にL字形の平面をなし北へ伸びる主棟は入母屋造柿葺となっています。また、待合及び廊下の間からなる南側の棟は切妻造柿葺となって池に面した北端には庭園を見晴らす広縁があり、天井は一面を塗り上げた土天井となっています。

・枯山水庭園 洪隠山石組全景(史跡・特別名勝)
上段に位置する枯山水庭園は、上下二段構成になる豪快な枯山水石組の庭園です。上段の石組は洪隠山石組と呼ばれ、広々とした下段とは対照的で、さらに遠近感のある東西二段の構成になっています。この石組は夢窓疎石によって築造されたもので、わが国最古の禅宗庭園の石組と言われており、禅宗の自然観を見事に表現した西芳寺庭園の中でも最大の見どころと言えます。

・向上関
西芳寺の上下二段の庭園の間に位置し、下段庭園から上段の枯山水庭園へ登る入口にある門で向上関と呼ばれています。この門をくぐり、通宵路と呼ばれる石段の道を上ることで上段の枯山水庭園に向かうことができます。向上関や通宵路は洪隠山の十境の名所の1つとなっています。

以上、他にも多くの見どころが存在する苔寺ですが、主要な見どころを紹介してまいりました!春夏秋冬、どの季節に行っても趣深い光景を見ることができる、苔の寺こと西芳寺。
参拝するのには少しハードルの高いお寺ですが、是非とも往復はがきを送付し、その美しい世界へ訪れてみてはいかがでしょうか?

<基本情報>
※西芳寺の参拝は本堂での写経などの宗教行事を中心としたもので、往復はがきによる予約参拝制をとっています。以下予約方法です。
1.往復はがきに参拝希望日、参拝者代表の住所・氏名・人数を明記し、希望日7日前までに「西芳寺参拝係」宛てに送付をする。希望日の二か月前より受付を開始。
2.参拝当日に返信はがきを持参する。
(電話、PCでの受付は一切しておりません)

・参拝時刻は西芳寺の指定時間になります。
・参拝料1名3000円。
・駐車場なし

<アクセス>
阪急電鉄嵐山線で上桂駅下車、北西へ徒歩15分
JR京都駅から京都バス73系統で約55分、「苔寺」バス停下車、徒歩3分
阪急電鉄四条河原町駅から京都バス63系統で55分、「苔寺」バス停下車、徒歩3分
阪急電鉄四条烏丸駅から京都市バス29系統で50分、「苔寺道」バス停下車、徒歩10分

臨済宗 一休さんの修行地、衣笠山寺院

臨済宗における寺院の中で、自然の美を堪能できる場所は他にもあります。衣笠山地蔵院もその一つです。この寺院は西芳寺と同じく、夢窓疎石により開山されました。元々は仏教と関係のある土地ではなく、衣笠内藤原家良という歌人が別荘を建てていた場所です。中々に歴史のある場所なのですね。
お寺としての出発は1367年。夢窓疎石の弟子、宗鏡和尚が室町幕府の菅僚だった細川頼之に請われて建てられました。この時、宗鏡和尚は師匠の夢窓疎石を開山として据え、自分は二代目を名乗っています。その後、細川氏の庇護のもと繁栄した地蔵院ですが、応仁の乱に端を発する戦乱に巻き込まれて、伽藍や末寺の大半は焼失してしまいました。
そんな地蔵院は、意外な有名人とも関わりがあります。
皆さんも幼少の頃に一度は目にした、耳にした『とんち話』で有名な一休さんこと、一休宗純です。長じて悟りを開いてからは破天荒な伝説を数多持つ一休さんですが、最初に修行をしたのがこの地蔵院でした。6歳の時に安国寺に移りますが、仏教の基礎は地蔵院で学んだようです。
一説には後小松天皇の御子だと言われる一休さんは母親共々、胎児の頃から命を狙われて、地蔵院の近辺に隠れ住んでいたという、やや昼ドラのような話まで存在します。子供時代から聞いたことのある有名人とも関係深いと聞くと、何だか興味がわきませんか?
現在の地蔵院は明治時代に二つの寺院を合併させたものです。ご本尊は地蔵菩薩。その他、夢窓疎石や実質の開山者宗鏡和尚、パトロンの細川頼之公の像などがあります。
夢窓疎石の弟子だけあって、宗鏡和尚もまた庭づくりに長けていました。師匠と同じく、苔を使ってあらゆるものを表現したのです。

【十六羅漢の庭】
十六羅漢の庭と呼ばれるこの庭園は、一度応仁の乱で焼けてしまったものを再構築したものと言われます。交配する度に復活を遂げており、重みのある情緒を醸し出す庭園です。「十六羅漢の庭」と呼ばれるのは、石で十六羅漢を表している為。羅漢とは上部は仏教における僧侶の最高位で、羅漢様と呼ばれます。ここで意思となっている羅漢様は現在修行中であり、もう少しで悟りに至れる、と言った興味深い伝承もあるのです。
こうした庭園は庭に降り立つことは許されておらず、地蔵院の庭園も例外ではありません。「近くで見たい」との気持ちもあるでしょうが、室内から眺める羅漢様に想いを馳せるのも、中々に情緒があるものです。

【総門から続く竹林と秋の紅葉】
地蔵院のもう一つの特徴は、竹林です。真夏に行っても量を感じるような竹林は鬱陶しさよりも爽快なものをもたらしてくれます。 秋には紅葉も楽しめますので、一度足を運ばれるのもいいでしょう。

観音霊場の一つ、葉室山浄往寺

黄檗宗(おうばくしゅう)と呼ばれる臨済宗の一派からは、葉室山浄往寺をご紹介します。 こちらは、京都の洛西観音霊場の一つです。開山したのは円仁和尚。嵯峨天皇による勅願でした。円仁和尚は天台宗の僧侶であり、当初は天台宗のお寺として出発しました。
しかし、例に漏れず度々兵火に遭い、全焼しては開山する宗派が変わるという波乱万丈なお寺人生の歩み手でもあります。
臨済宗、というか黄檗宗の寺院になったのは江戸時代になってからでした。藤原一族の流れをくむ葉室家当主、葉室頼孝の援助もあり、黄檗宗の僧侶鉄牛和尚が改めて開山、今に至ります。何故に葉室頼孝が開基(寺院を立てる時のパトロン)になったかというと、鎌倉時代から葉室家の菩提寺だった為です。自分のご先祖様のお墓を守る為とあったら、いくらでもお金を出すのも頷けます。

ご本尊はお釈迦様です。鉄牛和尚が「天竺っぽい仏様も置きたいな」ということで、如意輪観音像も存在します。

【穴場的な紅葉スポット】
そんな背景を持つ浄往寺の見どころは、やはりお庭です。京都にはいくらでも庭の美しいお寺がありますが、浄往寺は比較的マイナーらしく「穴場」的な紅葉スポットとされています。秋だけではなく、初夏の青紅葉もまた新緑の美という新鮮な紅葉の一面を見せてくれますので、訪れて損はありません。

【仏牙】
このお寺にはお釈迦様の歯まであります。お釈迦様の遺骨、通称仏舎利は弟子や葬儀を行ったマッラ族などにより分配されましたが、この時お釈迦様の遺骨の一部を盗んだ不届き者がいました。
捷疾鬼(しょうしつき)というやたら俊足の鬼です。この鬼を、同じく稲妻のごとき素早さを持った韋駄天という神様が捕らえたのは有名な話。
『太平記』では、この話に続きがありました。歯は奪い返された後、中国の僧侶を経て日本に渡り、嵯峨天皇の手に渡ったというのです。嵯峨天皇はこの歯を自分のものになどせず、浄往寺に寄進したとされます。
現在仏牙は、浄往寺の寿塔と呼ばれる所に安置されています。仏牙伝説に関しては鹿王院の方が有名ですが、浄往寺にも仏牙は存在しますので、機会があればご覧になってください。

鈴虫の鳴き声で悟った?華厳寺

華厳寺は岐阜県にも同じ名前のお寺がありますが、今回ご紹介する通称鈴虫寺の方は京都府京都市に存在する全く別のお寺です。ちなみに岐阜の華厳寺は天台宗になります。
西芳寺と隣り合うこの華厳寺は、元々鳳潭(ほうたん)という人物により建てられました。一応この人は天台宗に所属していますが、あらゆる宗派に通じており、各宗派の僧侶たちと議論を交わした一種の風雲児です。華厳寺自体は、慶厳という僧侶によって臨済宗の寺院になりました。

【鈴虫】
鈴虫寺と呼ばれる所以は、ずばり、1万匹にも及ぶ鈴虫を買っており、絶えずその音色を聞くことができる為です。それこそ、一年中鈴虫の鳴き声が聞けます。何故こんな事態になったかと言えば、八代目の住職が鈴虫の飼育研究に励んだとからです。「鈴虫の鳴き声に、禅の極意を見た!」として飼育、研究だと伝えられます。
真偽のほどはともかく、温度の環境調節を行えば一年中鈴虫を成虫の状態で飼えることが分かり、今に至ります。夏ともなれば鈴虫の音色が涼しさをもたらしてくれるのが、一つの魅力です。

【桜】
鈴虫だけが見どころではありません。総門付近には桜の木が立ち並んでおり、春にはそれらが一斉に咲くのです。
仏教寺院なので、4月8日の花まつり(お釈迦様の生誕祭)もより一層の華やぎが期待されます。

【幸福地蔵】
一つだけ、参拝者の願いを叶えてくれるお地蔵様が石段の上におわします。このお地蔵様は草鞋を履いているのが特徴です。これは「願いがあるの?じゃあ叶えてあげよう」と歩み寄ってくださるとの意味を持ちます。
自己中心的な願いよりも、他者の幸福も願うとよい、とのことです。「私も、みんなと同じように幸せな恋がしたい」「皆希望の会社に入れますように」と言った具合に、願いを工夫するといいでしょう。
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