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八坂神社、祀られている多くの神々と祇園祭の山鉾の秘密

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祇園祭で有名な京都・八坂神社。
大きな山鉾が京都の街を練り歩く姿は圧巻です。そして、祭を見守るように鎮座している八坂神社。通称・祇園さん。その歴史は古く、諸説ありますが、656年に新羅国の牛頭山にいた素戔嗚尊(すさのおのみこと)を奉斎したのが始まりだと言われています。

実は全国の八坂神社の総本社である当社は摂社や末社が多く、たくさんの神様が祀られているのです。今回は八坂神社のルーツを探りながら、その魅力を奥深く知っていきましょう!

八坂神社のご祭神・素戔嗚尊は暴れん坊のマザコン!?

八坂神社のご祭神は素戔嗚尊とその妻・櫛稲田姫命(くしいなだひめのみこと)、そして、間に産まれた8人の子供たち(八柱御子神(やはしらみこかみ))です。その他にも、素戔嗚尊のもう一人の妻・神大市比売命神(かむおおいちひめのみこと)と、佐美良比売命(さみらひめのみこと)、櫛稲田姫命の両親である足名椎命(あしなづちのみこと)・手名椎命(てなづちのこと)も祀られています。家族で祀られているため、八坂神社は縁結びや家内安全の神様でもあります。しかし、素戔嗚尊は櫛稲田姫命と結ばれるまでとっても荒々しい神様だったのです……。

素戔嗚尊は日本の最高神・天照大御神(あまてらすおおみかみ)の弟です。
そして、2柱の両親は日本で初めての夫婦神・伊邪那岐大神(いざなぎのおおかみ)と伊邪那美大神(いざなみのおおかみ)で、日本列島や800万もの神様を作りました。しかし、火の神を産んだためにヤケドで死んでしまった伊邪那美大神。
妻を忘れられない伊邪那岐大神は黄泉の国(死者の国)まで会いにいきました。ところが、変わり果てた姿の妻を見て驚いた伊邪那岐大神は、すぐに地上に帰ります。そこで禊(みそ)ぎ(穢(けが)れをはらうこと)をし、鼻を洗っていると産まれてきた男の子が素戔嗚尊でした。ちなみに、左目を洗うと天照大御神、右目を洗うと月読命(つくよみのみこと)が産まれました。
伊邪那岐大神は素戔嗚尊に、海原を統治するよう命じます。しかし、幼い素戔嗚尊は泣きじゃくり、「お母さんに会いたい!!」と駄々をこね始めたのです。気性の荒い素戔嗚尊が泣くことで暴風雨が吹き荒れ、地上は大災害が起きてしまいました。堪忍袋の緒が切れた伊邪那岐大神は、ついに素戔嗚尊を追い出してしまったのです。素戔嗚尊は神様なのになんとも人間くさい方だったのです……。

そして、出て行く前に天照大御神に挨拶をしにきた素戔嗚尊。
しかし、天照大御神は警戒し、武装をして素戔嗚尊を追い払おうとしました。
すると、何もたくらんでいないと証明するために、素戔嗚尊はある提案を持ち出しました。
「俺と姉さんが誓約(占い)して、俺に邪心がなければ清らかな女神が産まれるはずだ」と言って、自分が持っていた剣を渡したのです。そして、天照大御神が剣を噛み砕いて息を吹きかけると、それはそれは美しい3柱の女神が産まれたのです。
しかし、身の潔白を証明できた素戔嗚尊は調子に乗ってまた大暴れ。
心を痛めた天照大御神は天岩屋に隠れてしまいました。
それからたくさんの神様により、隠れてしまった天照大御神は出されたのですが、素戔嗚尊は爪をはがされ、髭をそられ、追放されてしまいました。

美少女のために、一気にヒーローへ!

これまでの素戔嗚尊は暴れん坊の泣き虫で、ちっとも神様らしくありませんでした。しかし、追い出された後、出雲に降り立った素戔嗚尊は泣いている老夫婦を見つけました。話を聞くと、8つの頭と尾を持つ巨大な蛇・ヤマタノオロチに毎年、娘を生け贄にされ、今まで7人の娘が食べられてしまったというのです。ついに今年は末娘・櫛稲田姫命が食べられてしまうかもしれない、と怯えていたのでした。櫛稲田姫命の美しさに惚れた素戔嗚尊は、ヤマタノオロチを倒す代わりに結婚の許可を得ます。そして、素戔嗚尊は櫛稲田姫命を櫛に変え、自分の髪の毛に挿し、闘いに挑んだのです。
彼は作戦を練り、ヤマタノオロチを酒で酔わせ寝かせました。グースカ眠っている隙を見て、素戔嗚尊はヤマタノオロチを切り刻んで、勝利したのでした。

暴れん坊で泣き虫だった神様は、好きになった女性のために戦うヒーローへと成長したのでした。素戔嗚尊は神様の中でも一番人間らしいのかもしれませんね。

八坂神社には素戔嗚尊ゆかりの神社がいっぱい!

神話の中でも異色を放つ素戔嗚尊は、たくさんのお話に登場します。
摂社・末社には、神話の中で素戔嗚尊に関わりを持った神様が祀られています。今回は特に関わりのある神様をご紹介します!

○美御前社
この美御前社は舞妓さんも通うという美容の神社。
ご祭神は素戔嗚尊と天照大御神が誓約したときに産まれた、3柱の女神様(市杵島比売命(いちきしまひめのみこと)・多岐理毘売命(たぎりびめのみこと)・多岐津比売命(たぎつひめのみこと))です。女神様たちは大変美しいと言われており、その力にあやかろうと女性の参拝者が絶えません。美容関係者が奉納するほど、信仰の厚い神社なのです。特に有名なのが、鳥居の前にある美容水。流れる水を顔にぴしゃぴしゃつけて、女神様から美肌になる力をいただきましょう!
○大国主社
この大国主社のご祭神は大国主命(おおくにぬしのみこと)・事代主命(ことしろしゅみこと)・少彦名命(すくなびこなみこと)です。 大国主命は縁結びで有名な出雲大社のご祭神です。実は、日本最古の歴史書「古事記」では、大国主命は素戔嗚尊の娘・須勢理毘売命(すせりびめのみこと)と恋に落ちたと書かれています。舅と婿の関係になるのです。しかも、素戔嗚尊は娘にふさわしい神様か、数々の試練を与えました。蛇が大量にいる部屋で眠らせたり、ムカデとハチがたくさん群がる部屋で眠らせたり。しかし、恋人の須勢理毘売命からヒレをもらって試練を難なく乗り越え、無事に結婚できた大国主命。ここに参拝すれば、困難を乗り越え、恋を勝ち取る力をもらえるかもしれませんね。

ちなみに事代主命は大国主命の息子です。
少彦名命は、大国主命が人間の住む地上世界を治めるのを手伝いにやってきた小人の神様です。
○疫神社
疫神社のご祭神は蘇民将来命(そみんしょうらいのみこと)です。
「蘇民将来なんて神様の名前、聞いたことない」という人も多いと思います。
しかし、この方がいたからこそ、祇園祭が始まったと言っても過言ではないのです。

6世紀。日本に仏教が入ってきた頃、牛の頭を持つといわれる仏様・牛頭天王は素戔嗚尊と同一神だとされました。
神様が持つ性質と仏様が持つ性質が同じだと同一神だと考えたり、神様は仏様を守る存在だと教えたりして、仏教を広めていったのでした。牛頭天王もまた、素戔嗚尊のように荒々しい仏様だったのです。

ある日、牛頭天王は妻を探すため旅に出ました。 その途中、金持ちの蘇民巨旦という男性に泊まらせてくれるよう頼みましが、冷たくあしらわれてしまいます。しかし、その兄・蘇民将来は貧乏ながらも手厚く牛頭天王をもてなし、宿も貸しました。蘇民将来の親切を気に入った牛頭天王は自分の正体を明かし、願い事がすべて叶うという牛玉を授けました。すると、蘇民将来はみるみる内に富を得ることができたのです。

再び、この地を訪れた牛頭天王は自分を追い払った蘇民巨旦に復讐を企てます。そして、巨旦の妻になっていた蘇民将来の娘だけに「茅の輪」を授け、目印にして娘以外の一族を滅ぼしたのです。それから人々は、茅の輪をつくり「蘇民将来之子孫也」と書かれた護符をつければ、災難を逃れられると信じられてきました。6月30日の「夏越しの大祓え」で茅の輪をくぐって穢れを払うのはここからきているのです。

そして、869年。京都で疫病が流行した際、牛頭天王の祟りだとされ、そのご機嫌をとって疫病を鎮めるために始まったのが祇園祭です。今でも人々はこの祭で病魔退散・無病息災を祈願しているのです。

八坂神社は広くて、たくさんの神様がいて、とってもにぎやかな神社です。観光客であふれかえる京都を見守るように、その地に立っています。今回ご紹介した神様以外にもたくさんの神様がいますので、ぜひ参拝して確かめてみてくださいね。

■所在地
〒605‐0073 京都府京都市東山区祇園町北側625

八坂神社の祇園祭に見る素戔嗚尊と牛頭天王の関係

京都の祇園にある八坂神社。毎年7月に行われる祇園祭で有名な神社です。
八坂神社のご祭神は素戔嗚尊ですが、明治に入るまでは牛頭天王という神様が祀られていました。この素戔嗚尊と牛頭天王の関係が、実は祇園祭にも隠されているのはあまり知られていません。

祇園さんと呼ばれ親しまれる八坂神社

八坂神社は京都市東山区にある神社。最寄り駅の「京阪祇園四条」駅から徒歩5分、「阪急河原町」駅からも徒歩で8分と、アクセスの良い場所にある古社です。JR京都駅からは市バス206番を利用し、「祇園」で下車するとすぐ目の前に到着します。八坂神社と聞いてピンとこない人でも、祇園祭と聞けば知らない人はいないでしょう。祇園祭はこの八坂神社で毎年7月に行われる行事です。明治の神仏分離でそれまでの「祇園神社」から八坂神社へと名を改めましたが、現在でも「祇園さん」と呼ばれ親しまれています。

京都の夏の風物詩である祇園祭は、京都三大祭りや日本三大祭りなどに数えられる、全国的にも有名な祭りで、日本を代表する祭りとして海外にもその名を知られる祭礼です。祭りのハイライトの「山鉾行事」は、重要無形民俗文化財に指定されており、宵山には多くの人で賑わいます。

八坂神社の主祭神は素戔嗚尊・櫛稲田姫命・八柱御子神の三座。櫛稲田姫は素戔嗚尊の妃、八柱御子神は素戔嗚尊の子供たちです。八坂神社と名を変える以前は、仏教色の強い牛頭天王・八王子・頗梨采女(はりさいにょ)が祀られており、神仏習合の色濃い神社でした。八坂神社の境内にある末社に祀られている神々をみると、事代主神や宗像三女神、大国主命など、全国の怨霊神たちが祀られていることに気づきます。これは八坂神社の成り立ちと深い関わりがあるようです。

牛頭天王と素戔嗚尊

明治に入って神仏分離が行われるまでは、祇園神社と呼ばれていた八坂神社。その主祭神も素戔嗚尊ではなく牛頭天王でした。牛頭天王は仏教の開祖・釈迦の生まれた場所と言われる祇園精舎の守護神です。書物にも記録が残っている当時の祇園神社は、牛頭天王を祀っていたことからも、寺としての特徴を同時に持つ、神仏習合の神社の性格が顕著に見られます。

この牛頭天王は仏教由来のように思われますが、中国やインドを見ても牛頭天王を信仰していた気配は見られません。どうやら日本独自に生まれた信仰のようで、八坂郷に定住した新羅からの渡来人の神様が元ではないかと考えられます。渡来人の故郷・新羅にある牛頭山には、熱病に効果のあるビャクダンを産出することから、自然と疫病神の性格を持つようになったようです。名前も牛頭山からつけられたと考えられています。

当時の京都は最先端の都市ではありましたが、下水道に関してはそれほど発達していなかったことが近年解明されてきています。処理能力の低い下水道の許容をはるかに上回る人口に、都はそこら中が汚物にあふれ悪臭が充満していたようです。そのため疫病の蔓延にことあるごとに見舞われていました。とはいえ、当時の人々には不衛生な環境が疫病を引き起こしているとは、考えにも及びません。人々が頼るのは神様でした。疫病神の牛頭天王への信仰が受け入れられるようになるまで、さほど時間はかからなかったことでしょう。

怨霊と御霊信仰

度重なる疫病の蔓延に、まだ不衛生と病気を結びつける知識のなかった人々は、疫病の原因を他のものに求めていきます。それが「怨霊」でした。もともと自然が祟ることを恐れる信仰を持っていた人々は、都市部の中で自然災害とは別の災害「疫病」に対し、その原因が政治の闇の部分で悲運に見舞われた人たちの霊が祟っていると考えたのです。

怨霊の仕業だという考えが広まると、今度は疫病を防ぐために怨霊を鎮めることが自然と行われるようになりました。新しく神社を作ったり、元からある神社に合祀したりして、怨霊たちを鎮めようとしたのです。怨霊を鎮めるだけでなく、手厚く祀ることによって、帰って人々を守ってくれるようになるとも考えるようになりました。怨霊を祀ることで御霊とする。これが御霊信仰と呼ばれるものです。

ところがこれでも疫病は収まりません。根本的な原因の不衛生が改善されていないのですから当然ですが、当時の人々は「怨霊の怒りが静まっていない」と考えました。そこで今度は怨霊を鎮めるために、大掛かりな「御霊会」が催されるようになりました。豊作祈願や戦勝祈願などのように、怨霊から御霊になった神たちに、疫病が蔓延しないよう、または早く治るようにと祈願したのです。祇園祭はこの御霊会がルーツとされています。

怨霊から被る災いは何も疫病に限らず、雷による火災や相次ぐ事故などの災厄も含まれていました。自然災害以外の災厄は、ことごとく怨霊のせいにされたということです。中でも疫病に関しては、「疫神信仰」と呼ばれる信仰が広まりました。疫病の神様を祀ることで、帰って疫病から身を守ろうとする信仰です。疫病神として名高い牛頭天王もその対象となりました。牛頭天王を祀った祇園神社を崇敬する信仰は、特に「祇園信仰」と呼ばれ全国にも広がる勢いを見せることになります。

素戔嗚尊と牛頭天王に隠されている意味

祇園神社に祀られていた牛頭天王は、すでに日本に存在していた素戔嗚尊と習合していったといわれています。素戔嗚尊も牛頭天王も、もともとは疫病を流行らせる「行疫神」だったからという理由が一般的ですが、実は両神の間には他にも共通点があるのです。

牛頭天王は新羅からの渡来人がもともと崇拝していた神であったと考えられます。渡来人はまだ日本にはなかった技術をもたらしますが、最も重要視されていたのが「製鉄技術」です。古くは紀元前5~3世紀の縄文時代~弥生時代ごろには、すでに大陸から製鉄技術が伝わっていたと考えられています。その後も数度にわたってより優れた技術が、その当時の日本にもたらされてきました。この八坂郷に入ってきた渡来人たちも、製鉄の技術を持って渡ってきたと考えられ、その人々が祀っていた神も鉄に関わりのある神様と言って差し支えないでしょう。

一方、素戔嗚尊はどうでしょう。わりとよく持ち出される理論に、素戔嗚尊の読み方が挙げられます。素戔嗚尊は通常「スサノヲノミコト」とカナで表記されます。この「スサ」は「朱砂」のことであり、砂鉄の意味だと言われています。スサノヲは古い製鉄技術を持った人々によって崇められていた神で、牛頭天王以前にはすでに信仰されていたという理論です。したがって、後から入ってきた牛頭天王は、すでにいた製鉄神のスサノヲと習合したと考えられます。

祇園祭の山鉾は天日槍の象徴

牛頭天王と素戔嗚尊が製鉄に関係していることを示唆する証拠がもう一つあります。「天日槍(あめのひぼこ)」という神様をご存知でしょうか。これは大陸から渡ってきた渡来神で、鉄器文化とともに渡ってきた神様です。日本各地にその伝承が残っており、伝承のある地には鉄器文化との関わりもみられ、鉄に関わりの深い神様であることは間違い無いようです。正確には大陸の朝鮮半島から渡ってきたと言われており、八坂郷に定住した渡来人たちも新羅から来たことを考えると、彼らも天日槍を知っていたと考えられます。

さて、祇園神社で盛大に行われる御霊会の祭礼、祇園祭には誰もが写真などで一度は見たであろう「山鉾」が祭りのハイライトです。きらびやかなタペストリーに飾られた、絢爛豪華な山車が街中を巡行する様子にばかり目を奪われますが、色とりどりのタペストリーから視線を上へ上げると、手をつく勢いで高く伸びた「鉾」が目に入ります。正確に言うと山鉾には「山」と「鉾」の2種類あり、鉾のてっぺんに飾られるのが鉾頭なのです。

祇園神社の牛頭天王を祀る人々は、その祭りにも牛頭天王=素戔嗚尊の威光が広く行き渡るように、同じ鉄に関わる天日槍の象徴として、鉾を飾るようになったと考えられるのではないでしょうか。渡来の神様と日本の神様をつないだ鉄器文化。それを示唆するように、毎年祇園祭の舞台で、天高く鉾がそびえているのです。
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