奇抜な築城術!松山城と岡山城

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1、四国の名城・松山城

勝山と呼ばれていたこの地には戦国時代にも城がありました。関が原の戦いの戦功で伊予十万石に加封された加藤嘉明は伊予正木城を廃してここに築城を開始しました。加藤嘉明は豊臣秀吉配下で「賤ヶ岳七本槍」と謳われた武将で、知勇兼備であったとされています。その工事は非常に難航し、石材は正木城や道後の湯築城からも運びましたが、そのさい「おたたさん」と呼ばれた城下で小魚の魚行商の女たちが頭上に載せる行商用の魚桶「ゴロビツ」に築城に欠かせない砂や小石を入れて運び、城下を何往復もしたという話も残っています。

着工の翌1603年、嘉明は新城に移り、松山城と称しました。しかし工事はなお続き、結局、嘉明は城が未完成のまま会津若松に転封されていきました。あとへは蒲生氏、ついで松平氏が入ります。城郭が完成したのは1627年になってからでした。築城されて以来、松山城は一度も戦火を浴びることなく明治の開城の日を迎えています。

城は松山平野の中央、標高132メートルの城山に築かれました。姫路城や和歌山城と並び称される連立式の平山城です。天守から市街地を望むと城の北側は硬い花崗岩の地質で、傾斜も急で険しい天然の防御線になっています。また、南の防衛には川の水を引き込んで堀をめぐらせています。縄張は渦郭式と梯郭式の複合で、まず山頂の本丸を石垣で囲みます。石垣は高く、要所は急勾配の「武者返し」になっています。
さらに防備のため、石垣を幾重にも屈曲させた「屏風折れ」を多用しています。石垣の角は長方形の石を一段ごとに長い辺、短い辺を互い違いに積んで強度を高める「算木積」であり、他は花崗岩の表面を平たく加工して積む「打込接」です。
そこから下って南西の中腹に二の丸、下の平地に三の丸をおき、ここにも堀をめぐらし、外郭に城下町を建設しています。
らに北麓に北郭、東麓にも東郭がおかれ、総面積は67ヘクタールにもなります。

松山城は櫓や門の数が他の城と比べて非常に多くなっています。専門的には「側防」といいますが、道を攻めあがってきた敵の側面に櫓の上から攻撃をしかける。そうした戦略が可能な設計なのです。たとえば「隠門」があります。松山城の大手門内部の固めをする筒井門の脇にひっそり設けられた極めて戦略的な門です。これは外からは門があるようには見えません。敵が大手門から侵入したときには、この隠門から出撃して挟み撃ちにするのです。筒井門は本丸大手の正面を固める重要な門です。敵が攻めてきたときには、この門と隠門から出撃するのです。他には「戸無門」があります。これは門限に遅れ、帰城を拒まれて自殺した腰元の幽霊が毎夜「門を開けて」と泣くために戸を無くしたという伝説が残っています。

本丸には大天守・小天守と二つの隅櫓を連結した天守曲輪が形成されており、天守は初めは五層でしたが、松平氏の寛永年間に三層四階に改築されました。これは松平定行が城主になって間もない1642年に改築をしたものです。理由としては地震や台風が多く、五層の天守は傷みやすいこと、また15万石の領主には立派過ぎるので三層にした、などが言われています。しかし、その三層の天守も落雷で焼失しました。

現存天守は1852年再建のもので、下二階の外壁は下見板張りであり古式なつくりです。
重要文化財の乾櫓の壁は弾が当たりやすい位置を厚く膨らませています。太鼓のように膨らんでいることから太鼓壁の名前で呼ばれています。

2、築城術の極み

松山城を築いた加藤嘉明は関ケ原では徳川方につぎましたが、元々は秀吉麾下の武将です。
時代は合戦の直後とあって天下の行方も流動的でした。そのため嘉明は攻守に優れた城づくりに腐心したのです。例えば、城が火炎に包まれるような事態に陥ったとき、その壁はすべて外側に倒れて、内側には火災が及ばないように設計されています。土塀も同じで必ず外の敵に向かって倒れ落ちる構造になっているのです。国宝に指定されていた小天守と南隅櫓は昭和8年に内側から放火にあって焼けてしまいました。現在の建物は再建されたものですが、その放火騒ぎのとき、小天守と南隅櫓の壁は中には倒れずにすべて外に向かって焼け落ちたのです。放火は松山城にとって不幸な事件ですが、今も健在なのは戦国武将の類まれな築城技術によるものなのです。

松山城を造営した加藤嘉明は築城の名手と謳われましたが、それは家臣に優れた技能者を抱えていたということも重要です。実際に普請奉行として築城の指揮をとったのは足立重信です。彼は若くして嘉明に仕え、その信任が厚かった土木工事の専門家です。

例えば、大量の瓦を勝山の頂に運び上げる。その際、重信は近在の農民を大動員し、彼らを麓から山頂まで一列に並ばせて手渡しのリレー方式で瓦を運ばせました。それも3方向から同時に行ったので、作業はわずか1日で完了しました。これには嘉明もいたく感嘆したようです。  

3、後楽園が美しい、岡山城

岡山の地には岡山・石山・天神山の3つの丘陵があり、南北朝時代には名和氏の石山城がありました。

戦国時代に宇喜多氏がこの城を奪い、二代目の秀家が城地を東の岡山に移し、平山城を平城に改めました。完成は1597年で8年かかったことになります。その後、宇喜多家は重臣の多くが出奔することになる宇喜多騒動や天下分け目の関ケ原の合戦を経ていきます。そして当主の宇喜多秀家は八丈島に流罪となり、城主は小早川氏、ついで池田氏へと移っていくことになります。どちらもこの城に修築を加えています。

旭川を背にして本丸を置き、南西へ二の丸・三の丸・西の丸と張り出す梯廓式縄張で築かれています。本丸部分は内堀で囲んだ中にさらに殿守丸と本丸とを石垣で囲んでいます。天守は殿守丸北端にあり、塩蔵と一体になった独立式です。
底面不整形の下層大屋根の上に方形の二層の楼閣をのせた望楼型天守で、三層六階、外壁は黒塗り下見板で、烏城の名前はここからおこっています。三層といっても一見したところでは五層に見え、そのうえ金箔で飾られていたことや、内部は畳敷きで最上階には火灯窓があったことなど極めて特徴的ですが、それらの華やかさは安土城天守を模したという伝えを聞くと納得です。

また、本丸南西隅の二層二階の月見櫓は松本城のそれとともに極めて貴重な建物です。
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