春日大社を語る3つのキーワード「式年造替・祭・宝物」
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奈良県奈良市にある春日大社は、平安時代に隆盛を極めた藤原氏の氏神を祀る神社でした。
藤原氏の栄華を垣間見れる宝物や、毎日境内のどこかで行われている数多くの祭礼など、古い伝統を今に受け継ぐ歴史を感じる古社です。
歴史ある古社ですがその社殿は、式年造替で20年ごとに新しくなり、いつまでも変わらぬ若々しい姿を保っています。
藤原氏の栄華を垣間見れる宝物や、毎日境内のどこかで行われている数多くの祭礼など、古い伝統を今に受け継ぐ歴史を感じる古社です。
歴史ある古社ですがその社殿は、式年造替で20年ごとに新しくなり、いつまでも変わらぬ若々しい姿を保っています。
藤原氏の氏神を祀る春日大社
春日大社は奈良県奈良市にある、全国の春日神社を束ねる総本社。
768年(神護景雲2年)に祭神を祀る4つの社殿を建立したのを創建としていますが、それよりも以前から春日の御蓋山(みかさやま)を御神体として中臣氏によって祀られていたようです。中臣氏(のちに藤原氏)の氏神を祀ったことが起源ですが、藤原氏の隆盛とともに朝廷の重要な祭礼も行われる神社として、重要視されてきました。
768年(神護景雲2年)に祭神を祀る4つの社殿を建立したのを創建としていますが、それよりも以前から春日の御蓋山(みかさやま)を御神体として中臣氏によって祀られていたようです。中臣氏(のちに藤原氏)の氏神を祀ったことが起源ですが、藤原氏の隆盛とともに朝廷の重要な祭礼も行われる神社として、重要視されてきました。
ご祭神は中臣氏の守護神である建甕槌命(タケミカヅチノミコト)と経津主命(フツヌシノミコト)に、中臣氏の祖神の天児屋根命(アメノコヤネノミコト)とその妻の比売神(ヒメガミ)の4柱の神様が祀られています。建甕槌命は常陸国鹿島神宮から、経津主命は下総国香取神宮から遷されました。この2柱の神様に、大阪府東大阪市の枚岡神社から遷した、天児屋根命と比売神を合わせてご祭神としたのが春日大社の創祀です。
中臣氏の祖神の天児屋根命は「祝詞の神様」で、朝廷の祭祀・神事を司っていた中臣氏ならではと言えます。その妻の比売神は、特定の神様の名前ではなく、主祭神の妻や娘、ゆかりの深い女神のことを指した名称です。この2柱の神様は、もともと奈良に近い恩智神社(大阪府八尾市)に祀られていたようですが、天皇を追いかけて神社も京都寄りへ動かしたかのようにも見えます。
中臣氏の祖神の天児屋根命は「祝詞の神様」で、朝廷の祭祀・神事を司っていた中臣氏ならではと言えます。その妻の比売神は、特定の神様の名前ではなく、主祭神の妻や娘、ゆかりの深い女神のことを指した名称です。この2柱の神様は、もともと奈良に近い恩智神社(大阪府八尾市)に祀られていたようですが、天皇を追いかけて神社も京都寄りへ動かしたかのようにも見えます。
中臣氏の守護神とされる建甕槌命と経津主命は、ともに遠く関東の神社から遷された神様です。どちらも武神として名高い神様で、当時の朝廷の勢力範囲の最東端の守護として、常陸国と下総国に祀られたと言われていますが、あまりにも強い神様だったために、守護を名目に会えて中央から離れた場所に追いやったという説もあります。どちらも刀剣で切る音「フツ」を名前に持つ(建甕槌命の別称「建布都神(タケフツノカミ)」など)ことから、対で扱われることが多く、同一神とする説もあるようです。朝廷からも恐れられる武神として、多くの武将からも崇敬されてきました。
春日大社の本殿は、第一から第四まで4つの本殿が並んでおり、建御雷命、経津主命、天児屋根命、比売神の順で祀られています。天児屋根命と比売神はもともと第三殿に一緒に祀られていましたが、のちに第四殿を作り比売神を遷されたようです。本殿は春日造と呼ばれる建築様式で、一間社切妻妻入り式の建物に、向拝(こうはい)と呼ばれる庇が正面にあります。大社造に似ていますが、曲線と彩色が施されているのが特徴です。春日大社の本殿はその「小ささ」も特徴のひとつ。社殿の中は大人が立ち上がれないほど狭く、祝詞は正面の桟敷から捧げます。
春日大社の本殿は、第一から第四まで4つの本殿が並んでおり、建御雷命、経津主命、天児屋根命、比売神の順で祀られています。天児屋根命と比売神はもともと第三殿に一緒に祀られていましたが、のちに第四殿を作り比売神を遷されたようです。本殿は春日造と呼ばれる建築様式で、一間社切妻妻入り式の建物に、向拝(こうはい)と呼ばれる庇が正面にあります。大社造に似ていますが、曲線と彩色が施されているのが特徴です。春日大社の本殿はその「小ささ」も特徴のひとつ。社殿の中は大人が立ち上がれないほど狭く、祝詞は正面の桟敷から捧げます。
春日大社を若返らせる式年造替
春日大社では20年ごとに本殿を建て替える、式年造替(ぞうたい)が創祀以来1000年以上続いています。春日大社が「常若の社」と呼ばれる所以で、鮮やかな朱塗りの社殿は、その華やかさを引き立てる要因のひとつです。式年造替は外遷宮と正遷宮の2つの儀式から成り立っています。造替に先駆けて4柱の神を移殿へ遷すのが外遷宮。新しくできた本殿へ戻すのが正遷宮です。
外遷宮は「木作始式(こづくりはじめしき)」から始まります。午前中に末社の石荒神社(いしこうじんじゃ)での「荒神祓之儀(こうじんばらいのぎ)」で工事の安泰を祈り、午後に行われる本殿前の幣殿で「釿始之儀(ちょうはじめのぎ)」は、用意された4本の料木(さめぎ)に工匠が古式にのっとって釿を当てる所作をする儀式です。「密記拝見」で遷宮秘事の式次第の確認をし、「移殿御装束並清祓之儀(うつしどのごしょうぞくならびにきよはらい)」で移殿の内陣・外陣を整え、本殿に掲げられている六面之御正体を「六面神鏡奉遷之儀」で、移殿へ移し替えます。「具足洗之儀」で当日使用する衣装の笏(しゃく)・冠・浅沓を香で洗い清めたら、いよいよ「仮殿遷座祭(外遷宮)」で4柱の御祭神を移殿へお遷しする儀式です。無事に遷御が済んだことをお祝いして「御慶之舞楽」が奉納され、社殿の建て替えが開始されます。
社殿の建て替えが完了すると、今度は移殿から正殿へ御神体を戻す儀式が行われます。
正遷宮は約2週間かけて執り行われる一連の儀式です。「本殿立柱上棟祭」は本殿の完成祝。ついで「神宝検知之儀」で新調した神宝の点検を行います。「御殿奉磨之儀」は新しくできた本殿へ、御祭神を迎える為に床を磨いて清める儀式です。「御神宝清祓之儀」で奉納する御神宝を清め本殿へ納めたら、いよいよ「本殿遷座祭」で天皇からの勅使を迎え、御本殿に4柱の神様がお遷しされます。「奉幣祭」は天皇からの御幣物を奉献し、遷宮をお祝いする儀式。その後「後宴之舞楽」が奉納され、春日大社の式年造替は完了です。一連の儀式が終了した後も、境内では「奉祝祭」や「奉祝行事」が行われ、約一ヶ月間様々な芸能奉納などが続きます。
外遷宮は「木作始式(こづくりはじめしき)」から始まります。午前中に末社の石荒神社(いしこうじんじゃ)での「荒神祓之儀(こうじんばらいのぎ)」で工事の安泰を祈り、午後に行われる本殿前の幣殿で「釿始之儀(ちょうはじめのぎ)」は、用意された4本の料木(さめぎ)に工匠が古式にのっとって釿を当てる所作をする儀式です。「密記拝見」で遷宮秘事の式次第の確認をし、「移殿御装束並清祓之儀(うつしどのごしょうぞくならびにきよはらい)」で移殿の内陣・外陣を整え、本殿に掲げられている六面之御正体を「六面神鏡奉遷之儀」で、移殿へ移し替えます。「具足洗之儀」で当日使用する衣装の笏(しゃく)・冠・浅沓を香で洗い清めたら、いよいよ「仮殿遷座祭(外遷宮)」で4柱の御祭神を移殿へお遷しする儀式です。無事に遷御が済んだことをお祝いして「御慶之舞楽」が奉納され、社殿の建て替えが開始されます。
社殿の建て替えが完了すると、今度は移殿から正殿へ御神体を戻す儀式が行われます。
正遷宮は約2週間かけて執り行われる一連の儀式です。「本殿立柱上棟祭」は本殿の完成祝。ついで「神宝検知之儀」で新調した神宝の点検を行います。「御殿奉磨之儀」は新しくできた本殿へ、御祭神を迎える為に床を磨いて清める儀式です。「御神宝清祓之儀」で奉納する御神宝を清め本殿へ納めたら、いよいよ「本殿遷座祭」で天皇からの勅使を迎え、御本殿に4柱の神様がお遷しされます。「奉幣祭」は天皇からの御幣物を奉献し、遷宮をお祝いする儀式。その後「後宴之舞楽」が奉納され、春日大社の式年造替は完了です。一連の儀式が終了した後も、境内では「奉祝祭」や「奉祝行事」が行われ、約一ヶ月間様々な芸能奉納などが続きます。
春日大社は一年中祭でいっぱい
春日大社では有名な春日祭以外にも、境内のそこかしこで毎日何かしらの祭礼が行われています。年間に執り行われる祭礼の数は、何と2200回。
朝晩行われる「朝御饌祭(あさみけさい)」「夕御饌祭」は、皇室の安泰と国家国民の幸福を願い、神様に御饌(食事)を奉儀式。朝御饌祭は1183年から、夕御饌祭は1117年から、途切れることなく続けられています。このようにして、春日大社では大小様々な祭礼が、古くから伝えられるままに、変わることなく執り行われているのです。もしかすると、春日大社を訪れているその瞬間に、境内のどこかで何かの祭礼が行われている最中かもしれません。
年間に2200も撮り行われる祭礼の中でも、最も盛大に開催されるのが「春日祭」です。
賀茂祭・石清水祭と並び、三大勅祭に数えられる春日祭。現在は3月13日の春日祭当日を挟んで、10?14日の5日間開催されますが、明治維新以前は2月の11月の辰の日から申の日まで行われていたことから、「申祭」の別称も持っています。春日祭は天皇から勅使が遣わされる勅祭であるだけでなく、その一連の儀式が平安時代の延喜式にのっとった、古いしきたりを今でも忠実に守り続けているのも特徴のひとつです。朝廷の神事祭祀を司った藤原氏(中臣氏)の神社であったことも、古いしきたりが守られてきたひとつの要因なのかもしれません。官祭(朝廷の行う祭)というだけでなく、藤原氏の隆盛を祈願する氏神祭としての側面もあったようで、それがゆえに祭礼にも力を注いだとも考えられます。
朝晩行われる「朝御饌祭(あさみけさい)」「夕御饌祭」は、皇室の安泰と国家国民の幸福を願い、神様に御饌(食事)を奉儀式。朝御饌祭は1183年から、夕御饌祭は1117年から、途切れることなく続けられています。このようにして、春日大社では大小様々な祭礼が、古くから伝えられるままに、変わることなく執り行われているのです。もしかすると、春日大社を訪れているその瞬間に、境内のどこかで何かの祭礼が行われている最中かもしれません。
年間に2200も撮り行われる祭礼の中でも、最も盛大に開催されるのが「春日祭」です。
賀茂祭・石清水祭と並び、三大勅祭に数えられる春日祭。現在は3月13日の春日祭当日を挟んで、10?14日の5日間開催されますが、明治維新以前は2月の11月の辰の日から申の日まで行われていたことから、「申祭」の別称も持っています。春日祭は天皇から勅使が遣わされる勅祭であるだけでなく、その一連の儀式が平安時代の延喜式にのっとった、古いしきたりを今でも忠実に守り続けているのも特徴のひとつです。朝廷の神事祭祀を司った藤原氏(中臣氏)の神社であったことも、古いしきたりが守られてきたひとつの要因なのかもしれません。官祭(朝廷の行う祭)というだけでなく、藤原氏の隆盛を祈願する氏神祭としての側面もあったようで、それがゆえに祭礼にも力を注いだとも考えられます。
平安時代の正倉院と呼ばれる国宝殿
春日大社は藤原氏が隆盛を極めた時代に奉納された、王朝時代の華やかさを伝える神宝が数多く残されています。また、源義経や足利尊氏、豊臣秀吉などの武将らが、武運を祈願して刀剣や甲冑を奉納したことから、鎌倉時代・室町時代・安土桃山時代の見事な工芸品も多く納められてることでも有名です。平安の正倉院とも呼ばれるほど、国宝に指定されるものも多く、その数はなんと350点を超えています。
国宝殿に納められている宝物は多岐にわたりますが、その中心をとなるのは武家の時代の技術を伝える刀剣や甲冑、春日大社に奉納された神宝類、春日大社で行われる舞楽に使われた舞楽面や装束です。当時の技術の粋を集めて作られており、平成の正倉院と呼ばれるだけあって、保存状態も良好なものが多く、当時の文化を調べる上で貴重な研究材料にもなっています。
国宝殿に納められている宝物は多岐にわたりますが、その中心をとなるのは武家の時代の技術を伝える刀剣や甲冑、春日大社に奉納された神宝類、春日大社で行われる舞楽に使われた舞楽面や装束です。当時の技術の粋を集めて作られており、平成の正倉院と呼ばれるだけあって、保存状態も良好なものが多く、当時の文化を調べる上で貴重な研究材料にもなっています。
永遠に20歳を超えない奈良の古社
1000年以上も受け継いできた古式豊かな祭礼や、宝物殿に収められた数多くの国宝と国宝級の貴重な品々。
春日大社には「伝統」の文字にふさわしい、有形無形の歴史が詰まっています。長い歴史がありながら、その姿は20年ごとの式年造替のおかげで、常に若々しく色鮮やかに鎮座する社殿。春日大社は内面の豊かさと、外見の瑞々しさを併せ持つ神社です。
春日大社には「伝統」の文字にふさわしい、有形無形の歴史が詰まっています。長い歴史がありながら、その姿は20年ごとの式年造替のおかげで、常に若々しく色鮮やかに鎮座する社殿。春日大社は内面の豊かさと、外見の瑞々しさを併せ持つ神社です。