日本史

親鸞の教えになぜ人々は熱狂した?悪人正機説とは

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社会的にそれまで見向きもされなかった自分たちの近くにまで、「あなたがどのような立場や職業で毎日を過ごしていようと、仏様に祈れば極楽往生できますよ」と勇気付けてくれる教えが、鎌倉時代に誕生しました。

「浄土宗」と、そのカスタムアップ版である「浄土真宗」です。

「養和の飢饉」に襲われ、都はおろか国中に餓死者が山積した平安末期は、日本史きっての政変である源平合戦前後に頻発した名家の没落や新興勢力の隆盛など、社会情勢が混乱の一途をたどっていた救いの見えない時代でした。

「末法」という言葉がもてはやされ、それまで磐石だと思っていたものがグラグラと崩壊していく時代を生きるしかない人々の心を支える仏教もまた、苦しい次代に合わせて変わることが求められていました。

しかし、人心の荒廃は仏教を司る僧たちまでにも及び、私利私欲と勢力同士の抗争に明け暮れている仏教旧勢力に、多くの人は諦めを感じていました。

そんなおり、比叡山にて天台教学を学んだ法然は、「南無阿弥陀仏」と唱えれば死後は平等に極楽浄土に往生できるという、シンプルな教えを説きました。
「専修念仏(せんじゅねんぶつ)」です。

身分も学問の習熟度も環境も関係なく、「南無阿弥陀仏」とさえ唱えればよいと教える法然の起こした「浄土宗」は、「自分たち民衆のための仏教」ともいうべき教えとして地方武士や農民たちに広く受け入れられ、一大ブームに成長します。そして政権の旧主であった貴族たちの間にも広がりをみせ、朝廷に煌く後法性寺関白・九条兼実もまた帰依し、彼の願いで「選択本願念仏集」が法然によって書き残されました。

そんな法然のもとに親鸞が訪れたのは、法然が69歳、親鸞が29歳の時でした。

親鸞(幼名:松若麿)の母は、吉光女と伝わっています。彼女の祖父はかの有名な源義家でした。源氏による武家政権の礎を築いた巨大な人物です。
由緒正しい源家の血を引く松若麿は、後に天台座主となる慈円の弟子として9歳で出家し、その後29歳になるまでの20年間を天台宗の総本山である比叡山で修行して過ごしたエリートでした。

しかし20年間の修行を経て、親鸞の胸に巣食っていたのは、迷いと限界でした。
比叡山を下り、京都の六角堂に百日参籠を行い、親鸞は夢の中で聖徳太子に導かれます。
そのお告げに従い、親鸞は法然が暮らす草庵に足を運び、彼の弟子となりました。

法然と親鸞が後鳥羽上皇を怒らせた理由

みるみる増える浄土宗の信徒に、旧仏教側は戦慄します。

彼らの独壇場だった貴族たちが暮らす宮中深くまで、浄土宗の信徒が瞬く間に増加する情勢に、自分たちの既存権力が脅かされると次第に強い危機感を抱いていたおり、その宮中にて事件が起こりました。

1205年の「承元の法難」です。

後鳥羽上皇が不在のときに、かねてより浄土宗の信徒が増加していた院にて、女房たちが法然門下の僧によって尼僧になってしまったのです。

自らの院にて勝手な振る舞いをされた後鳥羽上皇の不興を買った法然は、即座に「念仏停止の断」が言い渡されます。

法然とともに親鸞ら弟子たちも連座で都を追われました。

流罪の先である越後にて、1207年に僧籍すらも剥奪された結果、「親鸞」と名乗るようになりました。

数年後の1211年、親鸞は朝廷から都へ戻ることを許されたものの、すぐに都へは戻らず、東国にて新たな教義を開拓することを選びました。

東国で広がる浄土真宗の波

荒廃する東国の武士や民衆の間で、もともとシンプルな法然の教義を親鸞は人々に噛み砕いて伝えていきました。
寺をつくるよりも、多くの人々に伝えるための集会所が数多く設けられ、そこで「南無阿弥陀仏」と唱和することを教えるうちに、法然の「浄土宗」の教えをカスタマイズして、不安に迷う人々の心をより掬い取れるスタイルを確立していきます。

そのひとつが、「悪人正機説」でした。

悪人正機説はなぜセンセーショナルだった?

「南無阿弥陀仏と唱えれば、死後は誰でも極楽往生できる」と教えた法然の弟子である親鸞の教えは、そこからワンステップ進んだところにありました。

自分の無力を自覚し、全力で阿弥陀仏にすがることが大事とされました。

「他力本願」を極め、陰陽師や占い師、祈祷師なども「迷信」としてすっぱり頼ることをやめ、阿弥陀仏の救いを信じることに一本化します。

煩悩が深い悪人すらも、そのように自分の無力さを知って阿弥陀仏にすがりさえすれば、阿弥陀仏は救いの手を差し伸べると教えたのが、「悪人正機説」でした。

「善人なをもて往生をとぐ。いはんや悪人をや」という「悪人正機説」を表現したことばは、弟子の唯円が親鸞の教えをまとめた『歎異抄』に記載されています。

生存することすら大変な、日々殺生と向き合っている武士や農民、下層民は、救いを求めて仏教を修めたいと思っても、貴族や豊かな都人とは違い、実際には修行するチャンスすらなかなかめぐってこないのが現状でした。

そんな彼ら民衆の間で、親鸞のこの教えは大きな救いとなりました。

親鸞の死後、「浄土真宗(一向宗)」は、そうして東国の民衆の間で爆発的ブームを起こし、その強固な結束力を育てて行ったのです。
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