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大石内蔵助率いる赤穂浪士が討ち入り失敗?! もし吉良邸に高齢者安否確認システムがあったなら

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「忠臣蔵」として多くの映画やドラマでも有名な、大石内蔵助をはじめとする赤穂浪士四十七士の吉良邸討ち入り事件。吉良上野介を主君の敵とし、浪士たちは2年近くをかけて準備をし、見事(?)吉良を討ち取りました。 しかし、もし吉良邸に「高齢者安否確認システム」が設置されていたとしたら、赤穂浪士たちの討ち入りはすんなり成功していなかったかもしれません。もちろん空想にすぎませんが、ちょっと考えてみたいと思います。

そもそも江戸時代の生活はどういったものだったのか

さて、討ち入りのときの吉良上野介は61歳でした。現代ではこの年齢はまだ高齢者にあたりませんが、平均寿命が30歳代から40歳代であったと考えられている江戸時代では、じゅうぶん長生きであったといえるでしょう。では、江戸時代は高齢者が暮らしていく上で、どのような環境だったのでしょうか?
実は、江戸時代は地球全体がミニ氷河期だったといわれており、そういえば忠臣蔵も雪とともに描かれていますね。加えて、当時の日本家屋はいまと比べると非常に断熱性や気密性が低く、その上、エアコンのように部屋全体を暖めるような暖房器具もありません。あっても、せいぜい火鉢や炭を入れる行火(あんか)くらい。江戸時代の冬は相当寒いものであったでしょう。
寒さの厳しい環境で、心配されるのが血圧の上昇です。日ごろから高血圧の人はもちろん、正常血圧の人でも寒くなると血圧が上がります。また、加齢とともに血圧は変動しやすくなり、特に、急激で大きな血圧変動は血圧サージと呼ばれますが、これが起こると血管のみならず内臓にもダメージを与えます。
厳しい寒さの江戸時代は、この血圧サージによる高齢者の突然死も多かったと考えられます。もしこの時代に高齢者安否確認システムがあれば、離れて暮らしている家族も安心できたかもしれません。
現代では、「いまイルモ」というセンサーを使った便利なシステムがあります。「いまイルモ」は、カメラによる見守りとは違い、対象者のプライバシーを保護しながら、離れて暮らす家族が安否確認できるようになっています。



高齢者安否確認システムが、赤穂浪士から吉良を救う?!

歌舞伎をはじめ、映画やドラマでも憎き敵役とされる吉良上野介ですが、その領地・西尾藩吉良荘(現在の愛知県西尾市)では、実は、名君として慕われていました。このことから、当時は(いまでも?)、惜しい人を亡くしたと嘆く領民も少なくなかったかもしれません。
そこで、事前に赤穂浪士の討ち入りの噂を聞き、また高齢の吉良の体調を心配した親族が、吉良邸に高齢者安否確認システムの設置を提案。プライバシーが保護されているので吉良も納得して設置したとすれば、どうなっていたでしょう?
赤穂浪士の吉良邸討ち入りの際、吉良上野介は炭小屋に隠れたとされています。しかしながら、「いまイルモ」があれば、夜中にも関わらず吉良の寝室の様子がいつもと違うことに親族がいち早く気づくことができます。そして、吉良邸を訪れて討ち入りに気づき、以前から討ち入りに備えて頼んでいた助っ人を招集。隠れている吉良を見つけるのに手間取っていた赤穂浪士が助っ人たちとの応戦に手いっぱいになる中、親族や家臣によって吉良はこっそりと安全な場所に逃されます。結局、吉良を見つけ出せなかった浪士たちは撤退を余儀なくされたことでしょう。

警備会社のホームセキュリティとは違う、IoT活用の見守りシステム「いまイルモ」

このように、離れていても安否を見守れるシステムといえば、ホームセキュリティを思い浮かべる人も多いかもしれません。さまざまな警備会社がホームセキュリティのサービスを提供していますが、その基本は端末を自宅に設置し、緊急時や災害時に緊急ボタンを押せば、警備会社につながりガードマンが駆けつけるというもの。最近は、カメラを設置し、離れていても自宅内や見守り対象者の様子をスマホなどで確認できるといったサービスもあります。
これに対し、「いまイルモ」はセンサーによって対象者を見守るシステムです。見守る側は、人の動きや温度、照度などセンサーのモニタリングデータをスマホやパソコンでリアルタイム、または過去にさかのぼって確認することが可能です。見守られる側にとっては、カメラの目を意識することなく、いつも通りの生活ができ、端末の操作などの必要もありません。これなら、ほどよくプライバシーが守られながらも、いつでも家族とつながっていることになりますね。



【<昼行灯>・・・明るい昼間に灯る照明のような、ぼんやりしている人や気が効かない人をあざけって言う語】

あの人は昼行灯だ、なんて言う使い方をしますが、大石内蔵助をかたる場合は、この後にもまだ続きの意味が続きそうです。「昼行灯だけど、何かトラブルが起きた時は頼もしい」といった感じでしょうか。

今回は年末年始定番の「忠臣蔵」の主人公、大石内蔵助のリーダーシップに惚れてみましょう。

大石内蔵助の運命を変えた「松の廊下の刃傷事件」

事の起こりは、元禄14年(1701年)3月14日、江戸城・松の廊下にて、赤穂藩主・浅野内匠頭が、幕臣で高家肝煎の吉良上野介に切りつけたできごとです。浅野内匠頭は、時の将軍・犬公方こと徳川綱吉に、即日切腹を命じられ果てます。

赤穂場に藩主が刃傷沙汰を起こしたと知らせが来たのは、その5日後。追うように第二信が届き浅野内匠頭の切腹が伝えられました。江戸城で刀を抜けば、切腹に処される決まりです。刃傷事件を起こした浅野内匠頭の取り調べをするでもなく、切腹を言い渡されたようで、何の遺恨があって吉良上野介に刃を向けたのかという理由は、はっきりと分かっていないそうです。

藩主が切腹となれば、浅野家は断絶の沙汰を受けることは必定、赤穂城の引き渡しが決定してしまいます。赤穂藩筆頭家老の大石内蔵助は、評定(会議)を持ち皆の意見を聞きます。斬りつけられた吉良上野介は生きており、吉良家はおとがめ無し、と聞いて藩士の中からは、今すぐ江戸に行って主君の無念を晴らそうと息巻くものもいました 普通であれば「喧嘩両成敗」と言って、ケンカしたのは双方に原因があるとするものでしたが、今回の件について幕府は「喧嘩」だと思っていなかったのか両成敗とはならなかったのです。

立ち上がるリーダー

大石内蔵助は、藩主亡き今藩士をまとめる役にあります。

幕府の出した結論を不服として、籠城して公儀と戦うべきか。しかし公儀と戦うなどして勝てるわけがない、となれば直接吉良を打ち取るべきか。それとも、浅野内匠頭の弟・浅野大学のお家再興に期待するべきか・・・。

行くも戻るもいばらの道。熟考した大石内蔵助は1つの解決策を出します『幕府の決定に不満があることを伝えるために、全員切腹する。ただし、浅野大学がお家を再考するなら、切腹しなくても良い』と決定します。大石内蔵助が出した案は、武士としての面子とお家再興の望みを天秤にかけたものでした。吉良を今すぐ討ってしまえば、お家再興は永遠になくなります。お家断絶の場合、数年のち許される可能性もないわけではありません。今は公儀に従い、その時が来るのをじっと待つのがいいと、大石内蔵助は考えました。

4月19日、赤穂城は明け渡され、藩士たちは家族とともにさまざまな場所へ移って行きました。

「その時」を待つ日々

各地に散った赤穂浪士たちの中でも、当然仇討に逸り大石内蔵助をせっつくものも出てきます。しかし、「それは己の面子のために仇討したいだけで、本当に主君のためを思うならば、お家再興を待とう」と、繰り返し諭します。いったんは引き下がるものの、そのうち時期を待つ穏健派と一刻も早く仇討したい急進派の中で対立が生まれてしまいました。それでも、大石内蔵助は閉門の沙汰はたいてい3年でお許しが出る。それでもはっきりしない時は、一気に事を起こそう」といって皆をなだめたと言います。

そんな中聞こえてきたのが、吉良上野介が屋敷替えをするという話。この機に乗じて吉良を打ち取ろう!と急進派は吉良邸の周辺を探り始めます。一方、大石内蔵助は夜な夜な酒宴を開き放蕩三昧。公儀の密偵を欺くための演技でしたが、それを知った藩士の中にも諦めモードが漂い始めた頃、公儀から書面が届きます。そこには、「浅野大学、広島藩浅野本家にお預け」とあり、それは、お家再興はもう叶わないということを意味していました。

ついに「その時」はやってきたのです。

ついに討ち入り

京都丸山にて、大石内蔵助は仇討のために集まった赤穂藩士と合流します。内蔵助に「仇討に参加し本懐を遂げた後は潔く切腹をする」、という起請文を提出したものは120名ほどいたものの、いざその時になると集まったのは50人足らずと脱盟者が多くいました。それでも、無念を飲み込み耐えてきた日々はもう終わり、吉良を討ち取ることができると、集まった藩士たちの士気は高まりました。

元禄15年(1702年)11月、江戸に入った赤穂浪士達は、討ち入りの準備を始めます。そしてついにチャンスがやってきます。決行の日は12月14日。その日未明に隠れ家を出た赤穂浪士たちは吉良邸へと向かいます。吉良邸の表門前に赤穂藩士四十七士が伝えおくべきことを書いた「浅野内匠頭家来口上」を立て、いざ討ち入りの開始です。 見事吉良の首を打ち取った赤穂四十七士たちは、主人である浅野内匠頭の墓前にその首級を備え、切腹の沙汰を待ちました。

そして物語は作られた

この、大石内蔵助率いる赤穂浪士四十七士の、命を懸けた仇討は、多くの人々にインスパイアを与えます。私たちが知る討ち入りの内容は、フィクションが混じっているので史実とは異なることも多いようですが、物語や脚本、画など赤穂ものと呼ばれる多くの作品が世に誕生しました。また、その忠誠心や義心にあやかろうと、新選組の羽織デザインの下となっているのは有名な話です。

大石内蔵助に見るリーダーの資質

赤穂藩の筆頭家老である大石内蔵助は、藩主浅野内匠頭が刃傷事件を起こすまでは、藩士たちに「昼行灯」などと呼ばれていましたが、温厚で誠実な性格であると評価をされてもいました。

しかし、赤穂藩士討ち入りのエピソードでは、「待つべき時と動く時を見極められる忍耐力と冷静さ」「責任から逃げない強さ」といった優れたリーダーの資質を持っていることがよく分かります。

斬った張ったのない平和な時代。でも、時代は変わっても、優れたリーダーは常に求められるもの。せっかく先人が残してくれていますので、できるところから真似してみてはいかがでしょうか。

最後に大石内蔵助の辞世の句をご紹介して今回のお話を終わりたいと思います。
『極楽の道はひとすぢ 阿弥陀をそえて四十八人』
主である浅野内匠頭と見事仇討をはたした四十七士を入れて四十八人、皆で極楽にのぼることを願ったのでしょうか。
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