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住吉大社に祀られる筒男三神の正体とは

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大阪市住吉区にある住吉大社は、伊勢神宮や出雲大社とともに、長い歴史を持つ古社として有名です。
ご祭神は住吉大神とも呼ばれる底筒男命・中筒男命・表筒男命の三神。和歌の神様としても仰がれるこの筒男三神が、実は素戔嗚尊ではないかという説があります。

日本三大住吉に数えられる摂津国一宮

住吉大社があるのは、大阪市住吉区。最寄り駅は路面電車の阪堺線「住吉鳥居前」駅ですが、南海本線「住吉大社」駅や、南海高野線「住吉東」駅からも徒歩3~5分圏内で、交通の便の良い場所にあります。摂津国一宮として栄え、下関と博多にある住吉神社とともに、「日本三大住吉」に列せられ、全国にある住吉社の総本社です。

住吉大社は日本書紀によれば、211年(神功皇后の摂政11年)に、神功皇后によって鎮斎されたとありますが、神功皇后の新羅征討が391年であることから、実際は5世紀初めごろと考えられています。御祭神は住吉大神と呼ばれる、底筒男命・中筒男命・表筒男命の筒男三神。筒男は「ツツノヲ」と読み、ツツはホシ(星)を意味していたことから、オリオン座のベルトに3つ並ぶ星とされることもあるようです。

和歌の神様としても有名な住吉大神

現在は街中にある住吉大社ですが、当初は海に面していたことがわかっています。住吉の「吉」は「え」と発音し、もともとは「すみのえ」と読まれ、「清江」や「澄江」とも書かれました。神様の鎮座するにふさわしい、澄んだ綺麗な水のある場所だったことが伺えます。また、付近から他の出土品に混じって、灯明皿が数多く見つかっていることから、夜通し明かりを灯していたことが分かっており、当時は灯台の役目も果たしていたと考えられています。

住吉大神は現実に姿を顕す「現人神」としても、信仰されています。長い白ひげを生やした老翁の姿で顕れ、和歌や俳句を嗜んだと言われています。和歌を用いて御神託を行ったことが、住吉大社の「神代記」や「伊勢物語」などに記されおり、歌の神様としても親しまれるようになりました。風光明媚な白砂青松の海岸が広がる澄江(住吉)が、多くの歌人からも愛されたことから、こういった住吉大神像が生まれたとも考えられます。美しい松の姿は歌まくらになるほどで、代表的な歌には「我見ても久しくなりぬすみのえの岸の姫松いくよへぬらん(古今和歌集)」や、「住吉の岸のひめまつ人ならばいく世かへしと問はましものを(古今和歌集)」などがあり、その美しさが褒め称えられてきました。

また、和歌だけではなく、物語の世界にも住吉大社は登場します。「源氏物語」では、明石の君にゆかりの深い地として、住吉が登場するシーンが描かれています。おとぎ話の「一寸法師」では、子供のいなかった老夫婦が住吉大神に祈願し、授かったのが一寸法師。成長した一寸法師が今日の京都へ向かう様子が描かれています。和歌や物語が多く生まれた平安時代は、住吉大社の神に対する信仰がより一層深まった時代でした。

住吉造は古式を残した神社様式

住吉大社の社殿はその名も「住吉造」と呼ばれる建築様式です。古式を忠実に守った、直線的な建築様式で、伊勢神宮の「唯一神明造」や出雲大社の「大社造」とともに、最古の神社様式とされています。いずれも稲の神を大切に祀っていた古代の信仰の名残を思わせる、稲倉の形をとどめていることが特徴です。住吉大社の特徴は直線的な屋根と、伊勢や出雲に比べて床が低いことが挙げられます。

国宝に指定されている現在の建物は、1810年(文化7年)の建築。以前は式年造替が行われていましたが、1810年以降は30年ごとに仮殿を建てて、本殿を修繕する遷宮が行われています。住吉造の本殿の前に平入りの拝殿を配置した社殿は、第一殿から第三殿までは直列に並び、第三殿と第四殿が並列に並んでおり、これも古い祭祀の系統を引くと考えられている配置です。他に比べて少し大きく作られた第一殿に「底筒男命」を、以降は順に第二殿に「中筒男命」・第三殿に「表筒男命」・第四殿に「神功皇后」が祀られています。

筒男三神は実は1柱の神様

住吉大神とも呼ばれる筒男三神が、3柱ではなく1柱の神様だという説があります。まず筒男三神に冠せられた「底・中・表(あるいは上)」という接頭語は、上から下へと降臨してくる「垂直性」を意味し、底筒男・中筒男・表筒男の3つで1つなので、筒男三神は3神ではなく1神だというのです。

次に名前になっている「筒」について。先にも書いたとおり、これは「星」と考えられ、オリオン座の腰ベルトの3つ星や金星に例えられます。この考え方から見ると、筒男三神は「自然神」となりますが、筒男三神は史実に基づいた「神格人」だと考える説です。その根拠は日本書紀の中にある、神功皇后摂政前記に登場する筒男三神と他の3柱の神様についての段にあるといいます。詳しい説明は省きますが、ここに登場する筒男三神以外の神様は、卑弥呼・卑弥呼の母・大己貴とすると、この筒男三神は大己貴の父であると考えられ、この大己貴の父が素戔嗚尊なのです。

筒男三神が素戔嗚尊だという考えに立つと、「筒」についても別の解釈を当てることができます。弥生時代にはすでに始まっていたと考えられる、「製鉄」に関する解釈です。初期の製鉄では、水溶性の鉄分が葦の根元に付着した、褐鉄鉱(水酸化鉄)の塊を利用していました。葦に付着した褐鉄鉱は、葦の根や茎が枯死すると、球状や多くは管状の塊になって残ります。この形状が「筒」であり、筒男三神は製鉄に関連する神様なのではないかという解釈です。素戔嗚尊も「スサ(朱沙)」すなわち製鉄に関連した神様で、その息子の大己貴は製鉄技術を掌握した一大国家を気づいていたと考えられ、初期の大和朝廷にも一目を置かれていました。

先の日本書紀に卑弥呼・卑弥呼の母・大己貴と考えられる神様に次いで登場した底筒男・中筒男・表筒男は、こうした背景からも素戔嗚尊と見てまちがいないようです。当時、鉄は武力とイコールであったことから、素戔嗚尊も数々の英雄譚を持つ武神の側面を持っています。神功皇后の新羅征討に際して、託宣を下した住吉大神が素戔嗚尊であっても不思議ではありません。神功皇后は託宣を下した素戔嗚尊を、尊敬の気持ちを込めて「底・中・表」と垂直性の崇高な意味を込めた接頭辞をつけ、筒男三神として祀ったのではないでしょうか。縦に並んだ第一から第三の社殿は、1柱の神の崇高な姿を表し、その横に神功皇后が寄り添って立っている、そんな印象が新たに湧いてくるようです。
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