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乃木神社の祭神「乃木希典」の人柄に迫る

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赤坂にある乃木神社は、神話の神や怨霊を鎮めるために祀った他の神社と違い、英雄を讃えるために建てられた数少ない神社のひとつです。祀られているのは、明治期の英雄として誉れ高い乃木希典です。

東京の一等地に立つ乃木神社

乃木神社は東京都港区赤坂にあります。元は乃木希典の終の住処となった場所にあり、ご祭神も乃木希典とその妻の静子。境内には乃木が設計したと言われる邸宅も残されています。乃木神社を設計したのは大江新太郎。日光東照宮の修復などを手がけた建築家です。残念ながら彼の設計した建物は東京大空襲で焼失してしまいますが、息子の大江宏が現在の社殿を復興、孫の新と昭が宝物殿を手がけており、焼失を免れた新太郎設計の手水舎と合わせて、親子三代にわたる建築物を見られます。

最寄り駅は東京メトロ千代田線の乃木坂駅。他にも日比谷線・大江戸線の六本木駅や、半蔵門線・銀座線・大江戸線の青山一丁目駅が近くにあります。かなりの好立地にありますが、そこに祀られている乃木希典とは一体どんな人物なのでしょう。なぜ祀られることになったのでしょう。

文武両道の家柄に生まれた乃木希典

乃木希典は長府藩(長州藩の支藩)の江戸上屋敷で生まれました。もともと乃木家は藩医を務める家柄でしたが、当時の長州藩は医者を重要視していなかったため、父の希次が登用試験を無事に合格し、士分に取り立てられたという経緯があります。

子供のころの名は無人(なきと)という変わった名ですが、これは上の兄が2人とも早逝だったために、「元から居ない人だから居なくならない」という逆説の願いを込められているようです。当時はこういった逆の意味で災いを退けるような名前は、それほど珍しくなかったようで「捨」の入った名前など割と多く見うけられます。その後15歳で「源三」に18歳の時に「文蔵」と改名しました。父の希次から一字をもらいうけ、希典と名乗るようになったのは23歳になった頃。その頃にはまだできて間もない、陸軍の少佐に任ぜられていました。

10代の頃は学問に傾倒していたようで、乃木家の親戚にあたる玉木文之進が開いた萩の松下村塾で遊学します。武事に重きを置く父と対立してまで萩へ向かい、奉公人として農業に従事しながら松下村塾で学んだ経験は、のちの希典の人格形成の一因となったようです。乃木希典の経歴は、文献やネットなどで詳細に知ることができますが、ポイントとなる出来事は、大きく分けて以下の3つと言っても良いでしょう。

のちに大きく影響を及ぼした西南戦争とドイツ留学

まずは西南戦争。希典の率いる第14連隊は、激戦の中で大切な「軍旗」を奪われてしまいます。軍旗は命をかけても守るべき大切なもので、それを失うということは極刑にも値するほどの失態でした。軍旗を奪われた報を受けた希典も、自ら命を絶とうとしますが押しとどめられます。厳罰を覚悟で鎮圧後に軍旗喪失の報告をしますが、西南戦争での奮闘を評価され処罰は見送りになりました。むしろその奮闘を認められ中佐に昇進しますが、軍旗喪失の自責の念はのちの希典の人生に後々まで尾をひくことになります。

1886年(明治19年)にドイツ留学を命じられた希典は、そこでこれまでとは性格も行動もガラリと変わってしまいます。酒や女に溺れる弱い一面を持ち、人付き合いも良い人物だった希典は、ストイックで厳格な「軍人・乃木」になってしまったのです。ドイツの陸軍の制度や訓練方法・戦術思想などを学んだことだけでなく、ドイツ帝国の社会制度や豪奢で華美なドイツ将校の有様などを目の当たりにし、希典の中に眠っていた「武士道」が目覚めたと言っても良いでしょう。帰国後は一切平服や和服を着ることもなく終始軍服を着用し、階級を傘に権力を行使して贅沢することを嫌悪する、清廉潔白な乃木希典がここに誕生しました。

日清戦争後の台湾総督時代

日清戦争後、割譲された台湾の統治のため、乃木は台湾総督になるよう懇願され、これを引き受けることになります。下関条約批准後も、台湾南部で掃討戦を指揮した経験から、台湾の地理や文化に心得がある点を評価されたのもありますが、実際は権力に執着した桂小五郎が、中央から離れることを拒んだためというのが真相のようです。

台湾総督に就任した乃木は、道路の整備から着手し、義務教育のための学校を建て、皇化政策を進めます。当時の統計によると、台湾のアジア内の就学率は、日本に次ぐ高い水準をマークしており、実務者の養成にも力を入れ、日本への台湾留学生も多かったようです。当時工業化を推し進めていた日本に対し、台湾では農業振興を推し進め、農地の開発や農業技術の支援を行いました。歴史的にも台湾に開発の手が入るのはこれが初めてのこと。当時作られた道路や建造物は、現在でも台湾の街に残されています。日本による台湾統治は、第二次世界大戦終結まで続きますが、この統治時代は台湾がアジアの優等生と言われるほど、目覚ましい発展を遂げる一因となりました。

学習院院長と明治天皇崩御

日露戦争で功績を挙げたことで、英雄としてますます名が知れ渡った乃木。その名は世界の知るところとなります。特に彼の名を世界に広めた要因は、日露戦争後の敗戦国に対する紳士的な振る舞いでした。過去の数々の武功を評価され、乃木は山県有朋から参謀総長に推薦されますが、明治天皇はこれを退けました。高潔で潔癖な乃木は保身や財産に固執する、腐敗した政治的なやりとりの横行する軍や政府を嫌悪しており、過去何度か休職しています。武士道の手本ともいうべき乃木を高く評価していた明治天皇は、こういった乃木の心情も汲み取り、3人の孫が就学することもあり、学習院の院長に任命したのです。

学習院院長に就任した乃木は、平日は学校に寄宿し、休日もほとんど家に帰らず、生徒たちの指導にあたりました。ただ教壇に立って教えるだけではなく、自らの身をもって範を示す姿勢が、乃木の教育方針でした。日露戦争で2人の息子を亡くした乃木にとって、改めて父になった感覚もあったのでしょう。厳しくも誠実で真摯な乃木の姿勢は、生徒にも受け入れられ、偉大な英雄から次第に親しみのある院長へと、生徒たちに与える印象も変わっていったようです。当初、御用車で通学していたのちの昭和天皇も、院長から「歩いて登校するように」と言われ、素直に従ったというエピソードも残っており、誰からも尊敬される乃木の人柄が偲ばれます。

1912年(明治45年)明治天皇が崩御されました。先立って重病の発表がされてから、乃木は毎日朝・昼・晩とご容体を伺いに参内しました。乃木は酒を断ち食も節制して、髭も剃らずに願をかけた様子が、写真でも残されています。天皇が崩御された後、乃木は殯宮(もがりのみや)での通夜の当番や、大喪の礼に来日する英国コンノート殿下の接伴役などが、日頃の学習院長の職務に加わり、かなり多忙だったようです。その合間を縫って身辺の整理を進め、大葬当日、妻の静子とともに自刃しました。乃木がどんな思いを抱いて命を絶ったのかは明らかになっていませんが、西南戦争で失った軍旗の責任を取ったという説や、英雄譚の裏に数多くの部下の命を失ったことへの謝罪だったという説など、様々な説が唱えられています。

ボーイスカウトを紹介した人物

乃木希典については英雄としての側面の他に、ボーイスカウトを初めて日本に紹介した人物だということは、あまり知られていないかもしれません。
英国国王ジョージ5世の戴冠式に、明治天皇両陛下の名代として出席した後、ロンドン滞在中にボーイスカウトの創始者バーデンパウエルに紹介され、ボーイスカウトを見学した時に、深い感銘を受け日本での普及に尽力しました。すでに学習院の院長に就任し、皇孫をはじめとする生徒たちの教育に従事していた乃木には、青少年の心身の健全な発達に、ボーイスカウトの活動は新鮮に映ったのかもしれません。数々の英雄譚はありますが、乃木希典という人物を表す時に、このエピソードが一番しっくりくるように感じます。

忠誠の神様・乃木神社は愛国を象徴する神社!!

東京都港区に「乃木神社」があります。
アイドルグループの乃木坂46が毎年、成人式を行う神社としても有名です。
乃木神社に祀られているご祭神・乃木希典の最期は衝撃的で、彼の人物像もふくめ語り継がれています。
歴史はまだ新しい神社ですが、たくさんの人々が信仰を寄せています。
そこで今回は、乃木神社の魅力について迫ります!!

ご祭神・乃木希典とはどういう人物なのか?

乃木神社のご祭神は明治時代の陸軍軍人・乃木希典とその妻・静子です。
乃木は誰よりも明治天皇への忠誠心があり、生涯をかけて国家のために尽くしてきました。

乃木は嘉永2年(1849年)11月11日、長府藩で生まれました。
幼名は「無人」といい、上の兄2人が若くして亡くなってしまったので、強くたくましい人に育ってほしいと名付けられました。

15歳で元服した乃木は名前を「源三」と改めました。
父は武士になってほしいと願っていましたが、乃木は学問の道を諦めきれませんでした。 父の反対を押しきり、吉田松陰の叔父・玉木文之進の元へ行ったのでした。

ところが、玉木は父の許しを得なかった乃木を追い返そうとしました。
玉木の妻が引き止め、乃木は玉木のもとで勉強することが許され、励む日々。 その後、名前を「文蔵」と改め、18歳のときに長府藩報国隊に入りました。 第二次長州征伐ではじめて戦場にでて、幕府軍に勝利することができたのです。 文武ともに名声を得た乃木は、明治維新後の明治4年(1871年)に明治政府の陸軍少佐になり、名前も「希典」と変えました。
萩の乱では弟と敵対したり、西南戦争では明治天皇から賜った軍旗を奪われたりと、戦場ではさまざまな苦難が襲いました。 軍旗を奪われた乃木は落ち込んだり、気を紛らわすために大酒を飲んで豪遊。やけになっていたのです。
そんな乃木を心配した人々は、結婚を勧めました。
そして、明治11年(1878年)に薩摩藩士・湯地定之の四女の静子と結婚。このとき、乃木は30歳、静子は20歳でした。

生涯の伴侶を得た乃木は、陸軍制度の研究視察のためにドイツへと留学しました。
ドイツの騎士道精神の影響を受け、日本も軍人精神を高めるべきだと強く思うようになったのです。 ところが、軍の幹部たちからはこれを否定されてしまいます。
乃木は軍隊を一時的に抜け、栃木県那須野でひっそりと暮らしました。 このとき、明治天皇は乃木の考えを深く理解し、彼を迎え入れることを決めました。
明治27年(1894年)の日清戦争で、歩兵第一旅団長として軍に復帰しました。
乃木の部隊はあらゆる場所で勝利したり、ほかの部隊を救うなどして「名称乃木」の勇名を馳せたのです。
そして、中将に昇進し、軍旗を奪われた雪辱を果たすことができたのです。
その後、乃木は日本の領土になった台湾の総督とり、励みました。ところが、台湾の総督は思った成果が出せず、悔しい思いをしていた乃木。 みかねた明治天皇から、香川県の善通寺に新設された第11師団の師団長に任命されました。乃木は明治天皇の心遣いに深く感激したといわれています。 乃木はのちに起こる日露戦争にそなえ、部隊を作り上げました。

乃木が持つ数々の功績の中で一番有名なのは、日露戦争で事前に得ていた情報の3倍もの兵力と火砲をもつロシアの旅順要塞を攻略したことです。 しかし、ここで長男が戦死してしまいます。乃木は冷静を貫き、要塞へと向かいました。
3回の攻撃でも要塞を落とせず、両軍ともにたくさんの命を亡くしました。
決戦では次男も戦死してしまい、乃木の心は深く傷つきました。それでもひるむことなく、敵に突進していったのです。 そして、ついに旅順要塞を陥落することができました。日本とロシアは互いを称え合い、労い合いました。

帰国すると、国民は乃木を「英雄」や「凱旋将軍」と称賛し、2人の息子が戦死したことに対しても哀悼の意を表しました。
国民の気持ちが嬉しかった乃木ですが、多くの兵士を亡くしてしまったことを後悔していました。 明治天皇の御前で復命書を奉読した乃木は、陛下に「割腹して詫びたい」と申し出ます。
しかし、これを聞いた明治天皇は引きとめ、「いまは死ぬべきではない。どうしても死のうというのならば、私が世を去ったのちにせよ」とおっしゃったのです。 乃木は明治天皇のお言葉を受け止め、兵士の遺族やけがをした兵士たちのお見舞いに回りました。
兵士たちは乃木の誠実さに涙したといわれています。
さらに、明治天皇は2人の息子を亡くした乃木のために、「たくさんの子供を預けよう」といって、学習院長に任命しました。 乃木は子供たちと真摯に向き合ってきました。生徒たちの顔と名前をすべて覚え、一緒に朝食をとっていたといいます。
生徒の中には昭和天皇をはじめとする皇族の方々が在学し、特に昭和天皇は乃木のことを「院長閣下」と呼び、尊敬していたといわれています。 5年半という短い在籍期間でしたが、生徒たちとともに過ごした乃木は彼らから大変敬愛されていました。

そして、乃木は衝撃的な最期を遂げるのでした。

乃木夫妻の殉死……明治天皇の御跡を追って

明治45年(1912年)、乃木が忠誠を誓っていた明治天皇が崩御しました。61歳でした。
明治天皇御大葬の日、乃木は静子とともに明治天皇の御跡を追って自刃を遂げたのです。
当時、新聞の号外が出され、人々は衝撃を受けました。
また、日露戦争での戦いぶりで世界から称賛を受けていた乃木の死には世界中も驚き、報道されました。 乃木を検視すると、明治天皇の御真影の下に正座し、割腹していたというのです。
それほどにも明治天皇を尊崇していた乃木と静子。
国民は乃木夫妻の死を深く悲しみ、明治天皇への忠誠心に感動しました。 次第に自刃をした邸宅へ訪れ、哀悼の意を表する国民の数が増えていきました。 乃木夫妻の葬儀時には、近辺にある「幽霊坂」と呼ばれていた坂は「乃木坂」と改められ、乃木夫妻の名声は高まっていったのです。 そして、東京市市長・阪谷芳郎は「中央乃木会」を設立し、邸宅の中に乃木夫妻の御霊を祀る小社を建てました。
大正8年(1919年)には、「乃木神社」創立の許可が下り、邸宅の隣に鎮座されました。 以来、乃木の功績を伝え続け、たくさんの人々に愛されています。

乃木神社のお守りをご紹介!

乃木神社にはたくさんのお守りがあります!
今回はその一部をご紹介します!

「勉学修徳守」
学問に優れ、学習院長も務めた乃木のご神徳にあやかった学業のお守りです。

「勝守」
日清戦争や日露戦争に立ち向かい、勝ち取った乃木の神徳にあやかったお守りです。 勝負事だけではなく、病気などや自分の弱さに勝つためのお守りでもあります。

「攘災開運守」
このお守りは災いを払い、開運してくれるお守りです。
中には本殿の左側にある楠の木片が納められています。 昭和47年(1972年)の大祭前夜に落雷があり、社殿に落ちたと思われていました。
ところが、楠の木が身代わりになって落雷から守ったのです。 そのことから「攘災開運守」に楠の木片が納められるようになったのです。
「つれそひ守・よりそひ守」
つれそひ守は鮮やかな着物をかたどっています。
結婚してこれからも長くつれそっていけることを祈願したお守りです。
よしそひ守は新郎の紋服と新婦の白無垢をかたどっています。 こちらは結婚した夫婦が末永くよりそえるように祈願したお守りです。

このようにご祭神にまつわるお守りがたくさんあります!
ぜひ、乃木神社のお守りをいただいてくださいね。

いかがでしたか。
乃木神社は都会の中にありますが、静かな雰囲気の神社です。
アクセスも大変便利なため、初詣や結婚式などで訪れる人も多く、普段でもたくさんの人々が参拝しています。 ぜひ、都会の喧噪を忘れ、厳かで静かな雰囲気に癒されてみてください!

■所在地
〒107ー0052
東京都港区赤坂8丁目11ー27
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