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日本一の金属の神様がいる南宮大社

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日本一の金属の神様がいる南宮大社

南宮大社があるのは岐阜県不破郡垂井(たるい)町。
かつては美濃国の国府が置かれた場所で、美濃国の中心部として栄えてきました。
南宮大社へはJR東海道線の「垂井」駅から歩いても18分と、散歩する気持ちで立ち寄れる便利な立地にあります。国道21号線も近くに通っているので、思いついて立ち寄ることも可能な神社です。

伝説に語られる南宮大社の成り立ち

南宮大社の創建には、いまだ不明なことが多く、確実なことはほとんど分かっていません。社伝によると、神武天皇の東征に金鵄(きんし)を助けた功を認められた金山彦命が、この地に祀られるようになったと記されています。その後、崇神天皇の御代になって、現在の地に奉還されたのが南宮大社のはじまりです。

創建された当初は「仲山金山彦神社」と称していましたが、国府の南にあることを理由に「南宮」と呼ばれるようになったと伝えられているそうです。平安中期に記された「延喜式神名帳」にも、仲山金山彦神社の名が名神大社として記載され、美濃国一宮とされているので、仲山金山彦神社が南宮大社の前身であることと、少なくとも平安時代にはすでに大きな神社になっていたことは間違いがないありません。

金属加工が得意な金山彦命

南宮大社のご祭神である「金山彦神(かなやまひこのかみ)」は、天照大神の兄神にあたる神様。神産みでイザナミが火の神カグツチを産んで苦しんだ時に、吐き出した嘔吐物から化生した神様です。名前の通り「金山=鉱山」を司る神様で、工業や鍛冶、金属を加工する技巧を守護するとして広く信仰され、全国の金山神社で祀られています。古事記では「金山毘売神(かなやまびめのかみ)」とともに生まれたとあることから、通常は金山毘売命とともに祀られる神様です。

また、三野(=美濃)の本巣国造(もとすのくにのみやつこ)の長幡部(ながはたべ)氏の祖とされる、八瓜入日子王(ヤツリイリヒコノオウ)の祖父神「天御影之神」が鍛冶を司る神様で、天御影之神の父神・天津彦根命(アマツヒコネノミコト)」も、「火」や「日」に関わりが深く、鍛冶や金属加工を連想させることから、金山彦命と習合していったとも考えられています。

神武天皇その人と言われる彦火火出見命

主神の金山彦命とともに配祀される彦火火出見命(ヒコホホデミノミコト)は、火遠理命(ホオリノミコト)の別称で、有名な海幸山幸の説話に登場する山佐知毘古といえば知ってる人も多いでしょう。天照大神の系譜につながる瓊瓊杵命(ニニギノミコト)と木花佐久夜毘売(コノハナサクヤビメ)の間に生まれた子で、神武天皇の父とも神武天皇その人とも言われています。社伝に記された伝説にも登場しているので、神武天皇その人を祀っていると考えるのが妥当なようです。

謎に包まれた見野命

見野尊については、謎に包まれ詳細は不明です。おそらくは美濃国造の祖神、もしくは地元の神様の可能性がもっとも高いと考えられています。天地開闢の後、日本書紀では国常立尊(クニノトコタチノミコト)・国狭槌尊(クニノサツチノミコト)についで、3番目に生まれた神様、豊斟渟尊(トヨクムヌノミコト)の別称として記載があります。

古事記では5柱の「別天津神」につづく、神代七代の2番目に生まれたのが豊斟渟尊(トヨクムヌノミコト)と記されていますが、見野尊の記載は見当たりません。見野尊以外の豊斟渟尊の別称に、すべて「豊」の文字が見られることから、生命力あふれる「大地」を神格化した神様と考えられます。大地に注目してみると、見野命はもともと地元で祀られていた、豊穣の神様が習合したと考えられそうです。

関ヶ原の戦いと春日局の願い

有名な関ヶ原の戦いのあった関ヶ原は同じ不破郡の関ヶ原町、距離にして約6キロメートル車で約10分のところにあります。合戦の時には南宮山を中心に、多くの武将たちが陣を構えた場所でした。豊臣秀吉の軍師・竹中半兵衛はこの地にゆかりのある人物で、竹中氏の陣屋や菩提山城跡などの史跡が残っています。

戦場からこれだけ近くにあったため、南宮大社も社殿を焼失してしまいます。社殿の復興が叶ったのは、関ヶ原の戦いから42年後の1642年(寛永19)に成ってから。春日局の強い願いによって、三代将軍徳川家光によって再興されました。春日局の父の斎藤利三が、美濃の曽根城の主だったことが理由ではないかと言われています。諸説あり詳細は不明ですが、斎藤利三が美濃斎藤氏の系譜だという説もあるようです。

江戸時代の神社建築が見られる貴重な社殿

この再建にあたって家光が寄付した金額は約7000両。現在の価値に直すと約21億円という巨額が投じられ、往時に負けない立派な伽藍が整えられました。主に彩られた華麗な姿は、美しいだけではなく、江戸時代の神社建築の様式が、まとまって見られる点で貴重な存在です。
幸か不幸か戦火で焼失したことが、同時代の建築様式をまとまって生み出す要因の一つとなっています。
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