凡夫から抜け出す方法は?

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判を押したような日常の繰り返しに嫌気がさしたり、「もっと違う道があるのではないか」と思い、空を見上げる時もあるでしょう。
時には「このままでいいのだろうか」と考える人もいることと思われます。
中には思い切って子供時代に想い柄型夢の世界に身を投じる人もいるでしょうが、底前踏み切れる人はそうそういないでしょう。

凡夫とは

サンスクリット名はプリタクジャナ。異生(いしょう)と称されることもあります。意味は凡人といったところです。
「何の才能もない」という意味ではありません。仏教の理(ことわり)を何も理解していない、迷いや煩悩に生きる一般人、それが「凡夫(ぼんぷ)」なのです。

十七条の憲法にも「凡夫」の文字

聖徳太子が発布した十七条の憲法にも凡夫の文字がありました。
仏教に精通していた太子は、この日本初の憲法の中に仏教の教えを取り入れています。内容はと言えば、「色んな人がいて、色んな考えがあるよね。
二人の人間がいたらもう違う考えがあるわけ。片方が正しければ、もう片方は正しくない。でも、だからと言って正しい方が偉い、正しくなかった方が愚か者ってわけじゃないよ。
どっちも凡夫(ただの人間)なの。じゃあ、どうやっていいか悪いか判断したらいいと思う?どっちが偉いか、なんてことはどうでもいいんだ。誰かに文句を言われたからってすぐに怒らないで、まずは自分を顧みよう。
そうすれば自分が間違っていることに気付くかもしれない。何かいい考えが浮かんでも、大概は他の人と一緒にした方がいいよ」と砕けて訳せばこんな感じです。「自分の方が偉いんだ!」と頑なにならず、謙虚になりなさいと言うことですね。

煩悩まみれが人間の正体

除夜の鐘の回数が108回なのは、煩悩の数が108個だから。
よく言われるように、人間は煩悩の塊です。「煩悩はアカン!」「煩悩は滅しろ!」といったイメージがありますし、事実煩悩を消し去ることが仏道修行の目的と言えます。
しかし、108もある煩悩は皆人として当然持っているものです。
だからといって開き直らないように。煩悩の正体を探っていけば、いずれはそれから解放されます。それが仏道修行の目的なのです。

凡夫から抜け出すには

煩悩にまみれてすぐ「自分の方が優れている」などと考えたりする凡夫ですが、そんな状況から抜け出したい、との気持ちも煩悩だと言われます。
抜け出したいなら抜け出したっていいんです。むしろ、抜け出そうとの気持ちが解脱という真の悟りの一歩となります。その為には、まず現実を見据えましょう。仏道に限らず、何かの第一歩は現実を見ることから始まります。
仏道における現実は「この世は煩悩だらけ」ということです。「三毒」と呼ばれる要素が煩悩を生み出します。それ即ち、自己中心的な怒り(瞋恚)、足ることを知らない、尽きない欲(貪欲)、仏道を知らないこと(愚痴)です。これがあらゆる煩悩を生み出します。
そして煩悩が苦しみの元となるのです。「あいつムカつく」「もっとお金が欲しい」「あいつにだけは負けたくない」そんな気持ちのせいで苦しんではいませんか?こうした煩悩の元は執着です。これに気付いて執着が消えるように努力をすれば凡夫ではなくなります。「この世界は苦しみで満ちている、じゃあ苦しみをなくそうという」という一連の心の動きを四諦(したい)と呼びます。
四諦の最後は八正道と呼ばれる八つの正しい行い、修行です。
オール・オア・ナッシングとう言葉がありますが、「白か黒か、全てか無か」と言った考えは仏教にはありません。偏ることなく程よいバランスに身を置いた上で正しく物事を見ることから始まるのが八正道の修行です。

まとめ

「皆煩悩にまみれている、それで当たり前」と聞くと少しは安心しませんか。
凡夫でいたって一向にかまわないと言う人もいるでしょう。とは言え、いかなる快楽も一時の物に過ぎません。今なら気軽にお寺などで有難い説法を聞くことができます。
少しでも心の安らぎを得る為に、凡夫から抜け出す方法を試してみるのもいいでしょう。
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