仏像

お堂の中のガーディアン、四天王とその覚え方、そして上司と部下

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東西南北という方角、方位。それはナビやGPS、ネオンサインやどえらく高い建造物がなかった頃の指針でした。
切り株の年輪、太陽や月の動きでおおよその方角も識別可能。夜ともなれば北極星が北を示すシンボルです。そんな大事な指針たる方角のこと、超常的な存在に守られている、と見るようになるのも自然なことでしょう。

四方と法の守護者

仏教では四天王が四方を守る存在とされています。
須弥山という世界の中心にある山を守り、同時に仏法も守護する護法神とされます。とくに有名、或いは有力な四名を四天王と呼びますが、語源は彼らです。
住居は須弥山の四天王宮。シェアハウスしているわけではなく、各守護方角に個人個人のお住まいが存在。
結構高待遇です。お堂の中は須弥山を模した須弥壇と呼ばれる空間で、四天王像も各々の守護方角に基づいた方位に安置されるので、似通った外見でも場所さえ覚えておけば「あ、持国天だな」「広目天か」とすぐ分かります。
ただ、寺や本尊の向きなどにもよるなど諸説あり。本尊の全面向かって右が持国天(東)、左が増長天(南)。後方右が多聞天(北)、左が広目天(西)、とする場合も多いようです。「東西南北じゃない」と思いでしょうが、仏教では中国由来の「東南西北(トウナンシャーペイ)」が当たり前、とのこと。つまり時計回りに並んでいるわけですね。

像容

甲冑を着て、怒ったような忿怒相。時代ごとに像容の違いを見るのもまた一興です。
飛鳥時代は、堂々たる立ち姿ですが見ようによっては棒立ち。奈良時代に入ると動きが見られるようになり、平安時代はぽっちゃり体型が主流。鎌倉時代になると身が引き締まり、袖が翻るなど躍動感が出るようになります。

実は中間管理職

上司は如来ではなく、天。つまり四天王同様、インドから入って来た神。
インドラが仏教入りした帝釈天です。四天王のお仕事ですが、ただ上司帝釈天様の命令に従って方角を守り仏教を守る、という単純なお仕事じゃないんですね。
仏敵との戦い以外に、部下の統率もあります。構図だけだと中間管理職状態です。しかもその部下が八部鬼衆という鬼集団。中にはインド時代に悪者扱いだった猛者もいます。詳しくは後述。

多聞天

守護方角:北。
堂内の定位置:東北。
基本像容:宝塔を持つのが一般的。ただこれは日本での話で、中国ではネズミ、チベットではマングースを持っています。
動物好きというわけではなく、ネズミに関しては守護方角の北、子(ね)の方角を表すため。マングースは、仏教入りする前の、財宝の神としての性格が関係しています。
チベットのマングースは財宝を吐くんです。チベットに行く予定の方はマングースを見かけても、やたら捕まえないように。宝塔の中身はお釈迦様の遺骨とされる舎利弗。
何でそんな大事なものを、と言えばリーダーだから。何でリーダーかと言えば、北は仏教的に鬼門だから、との説があります。お釈迦様の説法を多く聞くという意味もあるので、リーダーになったのも納得?単独で祀られる時は毘沙門天と名乗ります。

広目天

守護方角:西。
堂内の定位置:西北
基本像容:筆を持っています。仲間同様武装しているのが一般的ですし、像によっては槍も持っていますが、記録係といった所。
「ハイ、この人間こんなことしました」との報告もするようです。一人でやってるとなると、過労が心配です。
仏教界に労働基準法的な物はないんでしょうか。インド時代より、名前は「広く物事を見る」という意味。だから記録係をしているわけですね。過労の心配はなさそうです。
広目天は筆が目印。もう片方の手には巻物を持っていることもありますし、密教版では戟と羂索を持っていることもあります。

持国天

守護方角:東。
堂内の定位置:東南。
基本像容:これと言って「おお、持国天様!」という特徴はないようです。最も有名とされる東大寺戒壇堂の物は戟(げき)を持っています。名前は国を、仏法を護るという意味。

増長天

守護方角:南。
堂内の定位置:西南。
基本像容:持国天同様これと言った特徴ナシ。東大寺戒壇堂の物は兜を着け、剣を持っています。「どこで持国天と見分けるんだ」と言ったら、定位置くらいしかありません。名前は成長を助けるという意味です。

武勇伝持ちもいる眷属、八部鬼集

さて、四天王と言えば足元の鬼。懲らしめている、お二が自ら踏まれているとの説がありますが、この邪鬼以外にも結構鬼と関係があったりするんです。先に述べた八部鬼衆が、彼らの部下。仏教用語で眷属です。

乾闥婆:元は音楽集団。比較的まともです。女好きな一方、清い女性を守る紳士的一面も。持国天の眷属。

毘舎遮:別名グール。人肉を食らいます。持国天の眷属。

鳩槃荼:これも実はグループ名。インド時代は精気を吸い取る、安眠妨害するなど嫌がらせ役。一方、シヴァ神と同一視されるルドラ神(暴風の神様)に従ってもいました。増長天の眷属です。

薜?多:餓鬼です。増長天の眷属。

那伽:別名ナーガ。元は蛇の神様だったのですが、龍に昇格。天候を操れる能力の主。ただ感情に左右されるところもあって、怒らせると日照りを起こし、「まあまあ」と宥められると今度は雨を降らせます。自覚はあるので、なるべく怒らないようにしている辺り、いじらしいです。広目天の眷属。

富單那:病気をもたらす、神というか悪霊の類です。仏教では薜?多と同じく餓鬼と目されることもあります。広目天の眷属。

夜叉:鬼神の総称です。地面を走る地行夜叉、空を掛ける天空夜叉など種類は豊富。元々は万物に宿る精霊だったのですが、信仰の変化で悪役にされた時期もありました。多聞天の眷属です。

羅刹:またの名も速疾鬼というグループ。インドでは人間を食らう魔物、怖いと言うイメージが、中国などのアジアで広まったため地獄で亡者を苛むお仕事もしています。舎利弗を巡って韋駄天様と超高速チェイスを繰り広げた羅刹もいました。全ての夜叉、羅刹は多聞天の眷属。

こうして見ると、不良学生の更生学園物語のように見えますね。もっとも、四天王の上司帝釈天もインド時代は友達殺したり、人の車を壊したりと悪役張った時期もあったんですよ。上も下もヤンチャ上がりで結構苦労人です、四天王。

ちょっとは自慢できる?トリビア

東南西北の並び通り、四天王メンバーを覚える方法があります。
その覚え方は、「地蔵買うた(じ・ぞう・こう・た)」。受験にも日常生活にも役立ちませんが、少しは自慢できるかもしれない覚え方です。

まとめ

上司は最強武神で部下は鬼。だからこそ護法神として実戦に強く頼もしいイメージ。
十二天や十六善神という別グループに出張することもありますが、助っ人としての頼もしさあればこそ。お堂の中でご本尊をお守りするため作られ続けたのも納得です。

四天王リーダーで毘沙門天と同一人物、多聞天

宗教や信仰というもの、時に他の思想と混じり合い、結果新たな信仰の対象が生まれることもあります。仏教も例外ではなく、他の宗教から取り入れられた神々が「天部」と呼ばれる「位」で知られています。いわゆる「~天」と呼ばれる面々ですね。吉祥天、閻魔天(あの有名な閻魔様の、密教での呼び名です)などなど。その中から今回は「多聞天(たもんてん)」を取り上げます。

元ネタはインドの神様

「いや、誰だよ」と思う方もいるでしょう。あまり馴染みのない名前かもしれませんが、「四天王のひとり」と言えば、多少分かっていただけるかと。現在でこそ比喩的に使われる「四天王」とは本来仏教の守護神たる神々の名前。多聞天はそのリーダー、というより最重要の「天部」なのです。何せ単体で祀られることもあるくらいですし、中国においては様々な名前で有名な書物で登場もします。元はインドのヴァイシュラヴァナという神様。本名(?)はクベーラといい、富や財宝を司っていました。シヴァ神と仲がいいなど逸話があるようですが、このクベーラの、北方を守護するという性格がそのまま多聞天にも受け継がれた模様。

何故に四天王リーダー?

「何でリーダーなの?」とお思いでしょうが、それは守護位置が関係していました。仏教の考えでは北側はいわば鬼門。よくない方角なので、そこを守護する多聞天がリーダーとされるのは、ある意味で必然。しかも、単なるリーダーじゃないんです。「宝塔」が多聞天を見分けるポイント。仏像によっては剣、鉾、宝棒などを所有しています。どちらかの手に宝塔を持っていて北側に安置されていれば多聞天。ちなみにこちらは東大寺大仏殿のもの。もっとも、北側という「定位置」があるので、方角さえ分かれば「多聞天だな」と分かりますけどね。で、何で「宝塔」を持っているかと言えば、この宝塔、実はお釈迦様の遺骨すなわち仏舎利(ぶっしゃり)の入った、言わば聖なる容器(実際には建物で、人が入れる大きさの宝塔もあります)。そんな大事なものを持たされるのも、四天王を率いる者の証なのかもしれません。仏敵を退ける役目の四天王、そのリーダーが仏舎利を持つというのは象徴的ですね。

毘沙門天として。上杉謙信と関わり

先にも述べた通り、「あの」神様と同一視されてるんです。その「神様」とは、誰あろう七福神の一員でもある毘沙門天。唐の時代にやって来た神様ですが、インドでの別名と響きが似ていますね。ある番組で「戦いの神」と紹介されていました。確かに七福神の中で唯一武装していますし、「武」を司る神です。が、同時に財宝を守る神でもあるわけです。よく見たら手に「宝塔」を持っており、守るのは北方。「同一視」というわけでわなく、同一人物。名前が変わるだけで、四天王の時は多聞天、独尊で祀られる時は毘沙門天、となるわけです。単体の時は毘沙門天です。七福神と四天王、二つのグループに所属する忙しい神様なんです。でもちゃんと役目果たせてるから神様というのを抜きにしても頭下がりますね。その毘沙門天とかかわりの深い人物が戦国時代にいました。数十回にわたる戦を経験しながら2度しか負けたことのない武将、上杉謙信です。一部女性説もある謙信ですが、自身を毘沙門天の生まれ変わりと称し、その像を熱心に拝んでいたそうです。 ちなみに謙信は、他の武将と違って余計な殺生を含む「庶民に対する無駄な乱暴狼藉」を働かなかった模様。「戦が終わったら、即帰る」というスタイル。なので庶民からは慕われていた模様。そんな謙信の夢に、毘沙門天は現れました。「多く、広く聞く」ことから「多聞天」と称される毘沙門天のこと。謙信のことも、自身にささげられる祈りのことも全て聞いていたんでしょう、「苦しめられている人々を救いなさい」と力強く命じたそうです。まさに神のお告げ。謙信はガバと跳ね起き、出陣したそうな。武勇神としての面が出たようですが、元々北方の「守護神」。困っている人々を救いたい気持ちもあったのかもしれませんね。

泥足毘沙門天

こんな説もあります。宝塔を持たない珍しい毘沙門天像を祀っていた謙信。長きにわたる戦から帰ると、大事な毘沙門様のお堂に泥のついた足跡が。ここで「どこの罰当たりだゴルァ!」とならなかったのは、その泥が行きつく先に毘沙門天の像があったため。「一緒に戦ってくれたんですね」と大いに喜んだそうです。以降その像は「泥足毘沙門天」と名付けられたそうな。『まんが日本昔話』にありそうな話ですね。

兜跋毘沙門天

毘沙門天の話ばっかりになっちゃいますが、最後にもう一つ。平安時代から変わった毘沙門天像が現れました。その名は「兜跋(とばつ)毘沙門天」。時代とともに形式が変容するのは芸術界の常ですが、何がそれまでと違っているか。多聞天を含め毘沙門天像は邪鬼と呼ばれる小さな鬼に載っているのが基本的なスタイル。ですがこちらは毘藍婆、尼藍婆(びらんば、にらんば。邪鬼ではないようです)という鬼を従えて、かつ天女に支えられているという、見ようによってはシュールな像。鬼を踏んでいるというより、捧げられているように見えますね。東寺の国宝です。ホントは宝塔があった、はずでした。でも宝塔が失われても、役目に対する気構え、仏像の美は変わりません。何だってこんな姿になったのかといえば、どうもこの兜跋毘沙門天、密教系の仏像らしいのです。というのも、支えている天女、通称地天女が密教の天。二十八部衆(千手観音の眷属。眷属とは従者のようなもの)のひとり。ちょっと違った経緯で入ってきたためか様相も違うんです。「兜跋」というのは地名(トゥルファン)から来ています。何でその地名なのかって?そこに現れたから、だそうです。このシュール極まりない様相で。

中国では結構色々名前変わります

仏教は日本に入る前中国を経ていますが、クベーラ神もその間に大分変容を遂げたようです。ある時は托塔李天王(たくとうりてんのう)という神に変化。托塔とは「宝塔を釈迦如来から託された」という意味。かの『西遊記』、『封神演義』、道教でも登場、崇拝されている様子。といっても、托塔李天王は多聞天とは別人ならぬ別神扱い、むしろ多聞天や四天王など、神々の軍隊のリーダーなわけですが。ちなみに『西遊記』では人間界に降りて李靖(りせい)と名乗り人間と結婚、『封神演義』でもこの名で知られますが、どうやら実在の武将のようです。

まとめ

別の神様の話ばかりになってしまいましたが、兎に角「宝塔」(仏舎利)を持ち北方という仏教での危険個所を守護する多聞天はともすると「守護神」の鑑といえるかもしれませんね。毘沙門天になったり、中国の奇書に別名で登場したりと、意外と親しみやすい神様なのかもしれません。それこそ、上杉謙信が他の武将よりも慕われていたように。毘沙門天の生まれ変わりというのも、あながち間違いじゃないのかも?何にせよ、多聞天を見習って、多くを聞く、そして見ることで視野を広げるのもいいでしょう。仏法守護だけでなく色々考えさせてもくれる多聞天像、一度生で拝観されてみませんか?

興福寺に佇む兄弟高僧像、そして四天王比較

藤原冬嗣が父である内間路を追善するために建立したのが始まり。やはり八角形のお堂ですが、北円堂より比較的日本的な造り。四度の火災に遭いながらも、その度に復活を遂げてきました。本尊は不空羂索観音です。

中金堂

平常遷都の年、藤原不比等が「新たな仏教文化の拠点にする」為に建立。お堂自体は一見地味に見えますが、興福寺で最初のお堂でもあるんですよ。ただそれだけに七度の火災に遭ってもいます。本尊は釈迦三尊像。現存しているのは江戸時代に作られたもの。といっても、厳密にはお釈迦様の方は首から下が後時代のもので、頭部は運慶が作ったとの説が濃厚なようです。両脇にいるのは薬王菩薩と薬上菩薩。「どちら様?」と言われれば、薬で人々を癒した兄妹菩薩です。あまりメジャーじゃないですけど、重要な方々と言えます(実は南円堂にあったものだそうです)。

旧食堂

これは厳密にはお坊さんたちの食堂。何度も焼かれたり壊されたりの憂き目に遭ってきた興福寺。廃仏毀釈の際このお堂も取り壊されましたが、現在は国宝館として機能しています。「ちょっと置き場所がない」仏像達が納められている模様です。その一つが千手観音像。鎌倉時代の作とされます。5メートルを超えるこちらの像には様々なものが納められていたとか。頭部内側の五輪塔以外は皆別の場所に安置されているそうです。

旧食堂千手観音像に「入っていたもの」

【木製の五輪塔】
五輪塔とは、風、水、火、地、空という、宇宙を形作る五大要素。それを灯篭のごとく積み上げたのが五輪塔です。

【般若心経】
全三巻。

【毘沙門天院仏】
これらはほんの一部です。機会があったら実際にご覧になるのも、いいかもしれません。

作者変われば・・・四天王比較

数あるお堂に必ずいる、四天王。四方を守護するのが役目だから当たり前と言えば当たり前なんですが、こう沢山いるとやってみたくなるのが「比較」。制作者や年代によって微妙に異なるその点をまとめてみました。ちなみに四天王の基本は以下の通り。

【多聞天】
片手に宝塔という建物を持つリーダー。北方守護で、北が定位置です。

【持国天】
基本的には剣を持ちます。増によっては宝珠という、先のとがった球を持つものも。東方守護担当で、東におわします。

【広目天】
筆を持っているのが基本ですが、像によっては持っていない(失われた?)ことも。守護方角は西で、安置されるのも西方向です。

【増長天】
南方守護なので、堂内でも南に置かれています。大概武器持ちです。

作者変われば・・・四天王比較2

【東金堂】
8世紀から9世紀頃の作とされています。治承四年の焼き討ちの際救出されて難を逃れたわけですが、こちらは何だかカラフルです。今尚金色を保ち、炎を配する法輪を頭部に背負い、持国天以外は皆青い戟(槍)を持た武装姿。やや骨太な印象です。

【北円堂】
791年ころの作。弥勒菩薩ならぬ弥勒如来をお守りする像です。喪失したのか、武器こそ見受けられませんが、こぼれ出しそうなほどに見開かれた目が、何だか却ってキュートです。

【南円堂】
鎌倉時代制作。コワモテ気味ですが、堀の深いお顔立ちになっています。何だか引き締まった細マッチョ感。800年も前の作ですが、時代を先取りした感があります。服のしわや鎧などが「どうだ!」とばかりに主張しており、存在感はかなりのもの。仏法守護目的で作られた像としては結構効果的なんじゃないでしょうか。
【中金堂】
鎌倉時代の作。東金堂同様、頭部に円形の後光と炎が配されていますが、こっちの炎は何だか揺れています。像自体は派手なポージングではないものの、この炎と袖の翻り具合が動きを感じさせ、妙な現実感を醸し出しています。
持国天ばかりになっちゃいましたね。

まとめ

七転び八起き、とは言いますが1300年ほど経って単体で東京進出しちゃう阿修羅から、お寺をに興味を移せば。そこには歴史に翻弄された部分も見受けられます。時の権力者の都合に振り回されながらも、それでも守ってくださっているんだと、改めて感謝ですね。
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