日本史

信長の侍従 森蘭丸 その聡明さは本能寺すら予言した!?

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皆さんは森蘭丸と聞くとどのような人物を想像するでしょうか?かっこいい美男子?本能寺の変で信長と一緒に死んだ人?それとも信長の愛人!?恐らく日本史に興味はなくとも森蘭丸を知らないという人はいないと思います。

蘭丸は18歳の若さで亡くなることになりますが、その短い生涯の中でもたくさんの逸話が残されているのはやはり蘭丸が信長の侍従であり、聡明であったがゆえではないでしょうか。ここでは蘭丸の逸話や、はたまた本能寺の変に蘭丸も影響を及ぼしていたかもなど、森蘭丸の人物像を見ていきたいと思います。

森蘭丸とは?

森蘭丸とは幼名であり、本来の諱は成利(なりとし)といいます。信長の父、織田信秀の代からの家臣である森可成(よしなり)の三男として永禄8年(1565年)に誕生しました。

兄弟はたくさんおり、兄に初陣で討死した長男の可隆(よしたか)と、家康と秀吉が覇権を争った際に起こった小牧・長久手の戦で討死した次男森長可(ながよし)。弟には本能寺の変の際に一緒に討死することになる坊丸、力丸がおり、一番下には後に森家を継ぐことになる森忠政がいます。

蘭丸はじめ、森一族の討死率は半端なく兄弟たちのみならず、父である可成も元亀元年(1570年)、蘭丸が6歳の時に、信長が石山本願寺と摂津国で対峙していた際に、姉川の戦いで破ったはずの浅井・朝倉連合軍に背後を攻められ、信長の盾として近江坂本の地にある宇佐山城を守って討死してしまいました。

蘭丸の転機は天正5年(1577年)、蘭丸13歳の時に弟の坊丸、力丸と共に兄弟揃って信長の小姓に取り立てられ、持ち前の才覚で徐々に頭角を現した蘭丸は信長の侍従として側に控える様になり出世していきます。

天正9年(1581年)近江の地に500石の知行を賜ったのを皮切りに、翌天正10年(1582年)には、次兄の長可と共に武田征伐に従軍して功を上げ、その恩賞として、長可の旧領である美濃金山城(岩村城とも)5万石を与えられました。

ですが本拠地に行くことなく同年に本能寺の変が勃発。明智光秀軍1万3000に囲まれながらも本能寺にて信長を守るため死力を尽くすも多勢に無勢、弟の坊丸、力丸と共に討死してしまいます。命がけで守ろうとした信長も本能寺と運命を共にするというのはあまりに有名なエピソードです。

蘭丸の聡明さあれこれ

蘭丸が信長の小姓として寵愛されたのは、その見た目だけではなく聡明だったからに他なりません。ここでは蘭丸の聡明さを称える逸話を何点かご紹介します。

信長と障子の話
ある日、蘭丸が信長に障子を開けて来たから閉めて来いと命令された。命令通りに障子を閉めに行くと肝心の障子は閉まったまま…。しかし信長は障子が開いたままだと思っている。そこで蘭丸は、閉まっている障子を静かに開けるとそこから周りに聞こえるように音を立てて障子を閉めた。

復命した蘭丸が信長に問われると蘭丸は正直に話した。信長が是非を問うと蘭丸は、信長が言ったことが周りに聞かれていた場合に信長が嘘を言ったことになるので、その嘘を本当にしたのだと話し、それを聞いた信長は、蘭丸の機転を大いに褒めたという。

信長と刀
ある時、信長がトイレに行った際に蘭丸に刀を預けた。それからしばらく経ったある日、小姓たちを集めた信長がクイズを出した。その内容は、信長の刀の鍔(つば)の模様の花びらの数を当てるというもので、見事当てたものにはこの刀をくれるというものだった。

小姓たちは思い思いに数を答えたが、蘭丸だけはなぜか答えない。いぶかしげに感じた信長が問うと、蘭丸は、信長がトイレに行った際に刀を預かった件を話し、その際に花びらの数を数えてしまっていたことを明かした。結果その刀は蘭丸の所有となった。

信長とみかん
ある日、蘭丸が台の上にたくさんのみかんを乗せて、周りの面々に見せて回っていたところ、信長は蘭丸を心配し、蘭丸の力ではみかんを持ったまま転倒してしまうと注意した。すると信長の心配が的中したかのように蘭丸は派手に転んでしまい、運んでいたみかんも辺りに散らばってしまった。

そして後日…。蘭丸がミカンごと派手に転んだ件を家中の者に、信長の前で無様を演じてしまったことを恥ずかしくないのかと問われた蘭丸は一言、信長が注意したのにそのままでは信長の体面に傷が付くゆえに転んだのだと語った。問うた家中の者は何も言えなかった。

本能寺の変前夜

明智光秀が謀反を起こし本能寺にて信長を討つという話は誰もが知っていると思いますが、運命を共にした森蘭丸も実は本能寺の変に絡んでいたことは案外知られていないと思います。ここでは信長、蘭丸、光秀三人の関わりを見ていきます。

光秀が信長を恨むまで
ある日、信長が蘭丸に褒美を与えようとしましたが、蘭丸は提示されたものには興味を示しませんでした。それならと信長はお互いの手の平に蘭丸が欲しがっているものを書き一致したならそれを与えようと言い、その内容は見事に一致したのでした。

その内容は「近江坂本6万石」(8万石とも)。なぜ蘭丸が近江坂本の地を望むのかといえば、この地には宇佐山城があり、そこは亡き父、森可成の領地であり、可成の討死した森家の墓標でもありました。そして今は重臣、明智光秀の本拠地である坂本城があります。

その時、この話を襖越しに聞いていた者がありました。それが何と明智光秀本人だったのです。これを発端に光秀は信長に対し疑心暗鬼に駆られるようになりました。

光秀の謀反を予言した蘭丸
それからまた後日。信長より咎を受け面々の前で叩かれ罵倒された光秀は、信長に謀反など考えたこともないと訴えました。側に控えていた蘭丸は、信長の親愛ゆえの行動と場を繕いましたが、光秀が謀反など考えたこともないと発したこと事態が謀反を考えている証拠だと進言しましたが信長は取り合いません。

そうこうしているうちに光秀は、信長の命により大軍を与えられ羽柴秀吉の与力として毛利征伐に出陣してしまいました。その日の晩信長は夢を見ます。その夢とは、馬の腹や胸をネズミが食いちぎるというもの。その内容を蘭丸に話したところ、蘭丸は吉夢だと喜んで答えました。

しかし実情は違い、蘭丸は冷や汗が止まりませんでした。なぜならその夢の解釈は、信長の干支は午(馬)。対する光秀の干支は子(ねずみ)であり、信長が光秀に謀反を起こされ切腹に追い込まれるとの吉兆に他ならなかったのです。これが光秀出陣前に分かっていれば事前に討てたものの今や後の祭りと涙を流すしかありません。

堪りかねた蘭丸はこの件をある人に漏らしましたが一笑に付されてしまいました。そして…、蘭丸が予言した通りに光秀は謀反を起こし信長、蘭丸らは討たれ、後に史上最も有名な裏切り劇「本能寺の変」として語り継がれることになりました。

本能寺の変後の森一族

森蘭丸は18歳の若さで、弟の坊丸、力丸と共に本能寺で討死したため、子孫を残すことが出来ませんでした。兄の長可も2年後に討死し、末弟の森忠政が森家を継ぎ、明治維新まで続くことになるのです。
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