日本史

坂本龍馬 世の中を自由に泳ぐその気質はいがみ合う者たちをも団結させた!

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坂本龍馬という人物を知らない人はまずいませんよね。

坂本龍馬で真っ先に思いつくのは海援隊と最期の暗殺のことでしょうか。

ここでは坂本龍馬の前半生や、なぜ海援隊を創設するに至り、どうやって最期を迎えたのかをご紹介して行きたいと思います。

土佐の下級藩士として

坂本龍馬は天保6年(1836年)11月15日に土佐国(現高知県全域)土佐郡にて土佐藩郷士・坂本八平と幸の次男として誕生しました。

龍馬は末っ子で長兄・権平とは20歳以上離れており、他にも3人の姉がいました。

土佐藩は身分が厳しく、上士と下士に分かれており、郷士は下士と同じで、昔からの土豪の身分をいい、現藩主・山内家の直臣が上士と呼ばれていました。下士とは上士にとって小間使い程度の扱いだったのです。

坂本家の郷士という身分は実は買ったものであり、本来は商人の分家であったため生活は豊かだったといいますが、龍馬10歳の時に母・幸が亡くなると、代わって三人の姉の中で一番年下の乙女が龍馬を厳しく教育することになるのでした。

坂本龍馬 江戸へ行く

そんな龍馬も剣の腕は確かだったため藩に願い出て、嘉永6年(1853年)に江戸に1年間の剣術修行に行くことを許可されました。

江戸に着いた龍馬は、北辰一刀流創始者である千葉周作の弟である千葉定吉の下で学び、最終的には北辰一刀流の免許皆伝を与えられることになります。

また、定吉の娘である美貌で知られた「千葉の鬼小町」こと千葉さな子とは恋仲になり、一時は婚約まで行ったようですが、結婚するまでには至らなかったようです。

坂本龍馬 脱藩する

剣術修行を終えて土佐に帰った竜馬ですが、藩内では上士と下士との対立が激化していました。

その中で下士のまとめ役となっている武市半平太が江戸で尊王攘夷思想を土佐でも根付かせるために「土佐勤王党」を結成すると龍馬もこれに参加することになりましたが、当時の土佐は公武合体思想が主流であったため中々尊王攘夷思想が認められませんでした。

そうこうしているうちに京都では薩摩の島津久光が朝廷を助けるために上洛してきたという噂が土佐にも伝わり、薩摩に加勢するために仲間が次から次へと脱藩すると龍馬も脱藩を決意したのでした。

坂本龍馬 勝海舟と出会う

久光が実は公武合体思想の持ち主であると知ると急激に尊王攘夷派への風当たりが強くなり、龍馬も姿を隠さざるを得なくなりました。

大坂や江戸に潜伏していた龍馬ですが、前福井藩主・松平春嶽に会った際に幕臣である勝海舟を紹介された龍馬は開国論者である勝を斬るために会うことを承知します。

ですが話してみた勝の思想と見識は龍馬の斜め上を行き、勝にすっかり心酔した龍馬はその場で勝海舟に弟子入りしてしまいました。

勝の海軍操練所設立のために奔走し、勝の私塾である神戸海軍塾が発足した際は塾頭に任じられています。

そして元治元年(1864年)5月、勝海舟が幕府の軍艦奉行に昇進すると、竜馬の働きもあり、神戸海軍操練所が発足したのです。

坂本龍馬 商人となる

神戸海軍操練所を発足させたのも束の間、幕府からの不興を買った勝が江戸に召還されるとまもなく操練所が閉鎖されてしまいました。

行く宛ての無くなった龍馬たちは勝の計らいによって薩摩藩を頼ることになります。

龍馬たち勝の弟子たちの航海術の専門知識を重視した薩摩藩は龍馬たちに出資しました。

出資を受けた龍馬たちが立ち上げた会社は「亀山社中」といい、今で言う商社の先駆けでした。

元が商人の家系である龍馬もまた、商人としての道を歩むことになったのです。

坂本龍馬 薩長同盟を締結させる

龍馬たちが神戸海軍操練所を立ち上げていたころ、尊王攘夷思想を掲げた長州藩が京都に進軍するも幕府軍に阻まれ、天下の賊軍となっていました。

幕府軍として長州藩を迎え撃った薩摩藩も今の幕府には疑問を持っているものの対立した両藩のすれ違いは続くばかりでした。

何とかこの両藩を結びつけたいと思っていた矢先に再び驚愕するニュースが飛び込んできました。

それは幕府が一度は叩いた長州藩に再度攻め上り天下への見せしめにしようというものでした。

幕府のこの行いにはさすがに正義がないとみた薩摩藩はこれに従わず、逆に龍馬率いる亀山社中に長州の米を薩摩に流し、代わりに薩摩が買い付けた最新式の銃や弾薬を秘密裏に長州藩に引き渡すように依頼しました。

これに応えた龍馬は見事役目を果たし、急速に和解した両藩は龍馬立会いの下同盟を結びました。この同盟は後に「薩長同盟」と呼ばれ、ともに倒幕のために手を取り合うことになるのです。

坂本龍馬 海援隊を結成する

幕府軍が再度長州藩に攻め上ったものの、薩摩藩から買い付けた最新式の銃火気の力によって幕府軍は敗走してしまいました。

その戦いに龍馬ら亀山社中の面々も協力していましたが、借りていた船を戦時下にある長州藩に返したために船がなくなり商いができなくなってしまいました。

そこで手を差し伸べたのが土佐藩の家老である後藤象二郎です。

天下の乱れをみた土佐藩は軍備増強に励んでおり、龍馬の実績に目を付けました。

そこで土佐藩は薩摩藩に代わり亀山社中のスポンサーとなることを提案し、龍馬はこれを受け入れました。

ここで亀山社中から新規一転、「海援隊」と改めることになったのです。

坂本龍馬 暗殺

亀山社中から海援隊と改めてからは土佐藩との連携が増え、めまぐるしく情勢が動いていました。

そして今回も土佐藩家老・後藤象二郎の依頼により各地を渡り歩き、常宿としている京の近江屋に戻ってきました。

そして慶應3年(1867年)11月15日の夜、同士である中岡慎太郎と二階で語らっているところに突如見知らぬ男達が乱入し、龍馬も拳銃で抵抗しようとするも中岡ともども瞬く間に惨殺されてしまいました。
享年33歳。

賊は逃げたものの、戊辰戦争最後の戦いである函館戦争で幕府軍として戦った元京都見廻組の今井信郎という男が捕虜となった際に自分達が坂本龍馬を暗殺したと供述したという記録が残っています。
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