西郷隆盛 犬とは無縁だった! 新時代を切り開いた漢の波乱の生涯
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誰もが知っている西郷隆盛といえば、上野公園にある犬の散歩をしている着流しを着てふっくらとした人のよさそうな西郷隆盛の銅像を思い浮かべるものと思います。
しかし何をした人かといえば案外分からない人も多いのではないでしょうか?
ここでは西郷隆盛の生涯をさっくりとご紹介していきます。
しかし何をした人かといえば案外分からない人も多いのではないでしょうか?
ここでは西郷隆盛の生涯をさっくりとご紹介していきます。
西郷隆盛とは
西郷隆盛は文政10年12月7日(1828年1月23日)、薩摩国(鹿児島県)鹿児島城下加治屋町で西郷吉兵衛の嫡男として誕生しました。
隆盛の父である吉兵衛は薩摩藩より47石を賜る御勘定方子頭で、藩では下から二番目の下級藩士の家柄でした。
「吉之助」と呼ばれていた隆盛は、身体も大きいことから腕っ節も強かったのですが、誰よりも他人を思いやる性格のため、喧嘩の仲裁に入った際に右腕の神経を切ってしまい刀を握れなくなってしまいました。
そのために刀で身を立てることは諦めざるをえませんでしたが、代わりに相撲を習うとともにその人柄によって次第に藩で有名になっていくのです。
隆盛の父である吉兵衛は薩摩藩より47石を賜る御勘定方子頭で、藩では下から二番目の下級藩士の家柄でした。
「吉之助」と呼ばれていた隆盛は、身体も大きいことから腕っ節も強かったのですが、誰よりも他人を思いやる性格のため、喧嘩の仲裁に入った際に右腕の神経を切ってしまい刀を握れなくなってしまいました。
そのために刀で身を立てることは諦めざるをえませんでしたが、代わりに相撲を習うとともにその人柄によって次第に藩で有名になっていくのです。
西郷隆盛と藩主・島津斉彬との出会い
嘉永4年(1851年)、島津斉興に代わって斉彬が藩主となると、隆盛の近辺では祖父や父母が次々に亡くなるなど不幸が続きました。
西郷家を継いだ隆盛でしたが、この頃から日本は騒がしくなります。
浦賀にはアメリカ合衆国のペリー提督が軍艦で乗り付け、鎖国を止めて開国を要求していました。
これに危惧を感じた隆盛は下級藩士にも関わらず、新藩主となった斉彬に対して上書を提出します。
身分を飛び越えた上書など普通なら打ち首ものですが斉彬は違いました。
「この若者は面白い!」と咎めるどころか隆盛を小姓として取立てて側に置くようになったのです。
こうして斉彬の側に仕えるようになった隆盛は斉彬の足として、各藩の要人と接触するとともに、藩でも一目置かれるようになったのです。
西郷家を継いだ隆盛でしたが、この頃から日本は騒がしくなります。
浦賀にはアメリカ合衆国のペリー提督が軍艦で乗り付け、鎖国を止めて開国を要求していました。
これに危惧を感じた隆盛は下級藩士にも関わらず、新藩主となった斉彬に対して上書を提出します。
身分を飛び越えた上書など普通なら打ち首ものですが斉彬は違いました。
「この若者は面白い!」と咎めるどころか隆盛を小姓として取立てて側に置くようになったのです。
こうして斉彬の側に仕えるようになった隆盛は斉彬の足として、各藩の要人と接触するとともに、藩でも一目置かれるようになったのです。
西郷隆盛 流刑となる
しかし斉彬の考えはあまりにも開明的で、保守派の多い薩摩藩では中々理解されませんでした。
そんな中、斉彬が安政5年(1858年)に急死すると、隆盛は手の平を返されたかのように冷遇されるようになります。
大老・井伊直弼の「安政の大獄」があったこともあり、藩の実権を握った斉彬の父・斉興によって危険視された隆盛を何とかしようと考えます。
ちょうどその頃失脚した隆盛が幕府に追われて薩摩まで落ち延びると、自害するために入水しますが、死に切れずに生き残ってしまい、そんな隆盛を隠すかのように奄美大島に島流しにしたのです。
島流しにされた隆盛でしたが、斉興が亡くなり、斉彬の弟である島津久光が実権を握ると、京都につてのある隆盛の力を見込んで、密かに隆盛を島から呼び戻しました。
しかしそんな久光に対して隆盛は久光が無官であり、外の世界を知らないことを理由に久光と京都とのパイプ役となることを拒みます。
メンツを汚された久光は激怒し、隆盛を奄美大島よりもさらに遠い沖永良部島に配流してしまいました。
ですが下級藩士とはいえ斉彬の足であった隆盛はやはり有名人であり、隆盛の持っている人脈はとても貴重でした。
隆盛の人脈を生かすことが重要と説き伏せられた久光は隆盛を正式に島から呼び戻し復職させただけではなく、薩摩軍の司令官に抜擢したのです。
そんな中、斉彬が安政5年(1858年)に急死すると、隆盛は手の平を返されたかのように冷遇されるようになります。
大老・井伊直弼の「安政の大獄」があったこともあり、藩の実権を握った斉彬の父・斉興によって危険視された隆盛を何とかしようと考えます。
ちょうどその頃失脚した隆盛が幕府に追われて薩摩まで落ち延びると、自害するために入水しますが、死に切れずに生き残ってしまい、そんな隆盛を隠すかのように奄美大島に島流しにしたのです。
島流しにされた隆盛でしたが、斉興が亡くなり、斉彬の弟である島津久光が実権を握ると、京都につてのある隆盛の力を見込んで、密かに隆盛を島から呼び戻しました。
しかしそんな久光に対して隆盛は久光が無官であり、外の世界を知らないことを理由に久光と京都とのパイプ役となることを拒みます。
メンツを汚された久光は激怒し、隆盛を奄美大島よりもさらに遠い沖永良部島に配流してしまいました。
ですが下級藩士とはいえ斉彬の足であった隆盛はやはり有名人であり、隆盛の持っている人脈はとても貴重でした。
隆盛の人脈を生かすことが重要と説き伏せられた久光は隆盛を正式に島から呼び戻し復職させただけではなく、薩摩軍の司令官に抜擢したのです。
西郷隆盛 薩長同盟を締結する
幕府をすでに見限っていた周防・長門国(山口県全域)を治める長州藩は天皇陛下を倒幕の盟主として担ぎ出そうと京に進軍を開始しました。
それを防ごうと隆盛の指揮する薩摩軍は皇居を護ろうと長州軍を迎え撃ち、これを返り討ちにしました。
賊軍となった長州藩を討つために幕府は長州に進軍し薩摩軍もこれに従軍しました。
禍根を残す長州藩と薩摩藩でしたが、失墜した幕府の権威を回復することに躍起な徳川慶喜は、協力した諸藩に対しても苛烈な要求を突きつけるとともに、降伏した長州藩を討とうと再度長州征伐を企てます。
これに疑問を感じた隆盛は大久保利通らとともに長州征伐に反対し、坂本竜馬の仲介で秘密裏に「薩長同盟」を結んでしまいました。
同盟の証として最新式の武器・弾薬を薩摩より買い付けた長州軍は幕府軍に再度征伐されるもこれを撃退することに成功したのです。
それを防ごうと隆盛の指揮する薩摩軍は皇居を護ろうと長州軍を迎え撃ち、これを返り討ちにしました。
賊軍となった長州藩を討つために幕府は長州に進軍し薩摩軍もこれに従軍しました。
禍根を残す長州藩と薩摩藩でしたが、失墜した幕府の権威を回復することに躍起な徳川慶喜は、協力した諸藩に対しても苛烈な要求を突きつけるとともに、降伏した長州藩を討とうと再度長州征伐を企てます。
これに疑問を感じた隆盛は大久保利通らとともに長州征伐に反対し、坂本竜馬の仲介で秘密裏に「薩長同盟」を結んでしまいました。
同盟の証として最新式の武器・弾薬を薩摩より買い付けた長州軍は幕府軍に再度征伐されるもこれを撃退することに成功したのです。
そして倒幕へ
家老に取り立てられた隆盛は、長州藩や土佐藩などとともに天皇と朝廷を主体とする新政府を樹立。
将軍に就任した徳川慶喜に対して、大政奉還を願い出て時流を悟った慶喜はこれを受け入れました。
権力を手放した幕府でしたがそれに全部の藩が納得したわけではありませんでした。
それが朝廷を護るために上京してきた新政府軍に対して攻撃を仕掛けてしまったのです。
旧幕府軍を止めることのできなかった慶喜は賊軍とされてしまい、隆盛は新政府軍の参謀として慶喜を追撃し、江戸城に入城しました。
本来なら灰燼に帰すはずだった江戸城ですが、幕府の重臣・勝海舟の頑張りと慶喜の降伏により、江戸城は無血開城され、ここに260年続いた徳川幕府は最期を迎えたのです。
将軍に就任した徳川慶喜に対して、大政奉還を願い出て時流を悟った慶喜はこれを受け入れました。
権力を手放した幕府でしたがそれに全部の藩が納得したわけではありませんでした。
それが朝廷を護るために上京してきた新政府軍に対して攻撃を仕掛けてしまったのです。
旧幕府軍を止めることのできなかった慶喜は賊軍とされてしまい、隆盛は新政府軍の参謀として慶喜を追撃し、江戸城に入城しました。
本来なら灰燼に帰すはずだった江戸城ですが、幕府の重臣・勝海舟の頑張りと慶喜の降伏により、江戸城は無血開城され、ここに260年続いた徳川幕府は最期を迎えたのです。
西郷隆盛のその後
幕府が滅亡した後も各地では火種が燻っており、新政府軍はこれを追討して鎮撫しました。
「戊辰戦争」と呼ばれたこの戦いが落ち着き、明治天皇を戴いた「明治政府」が正式に発足すると、桂小五郎改め「木戸孝允」や大久保利通とともに「維新三傑」の一人に数えられた隆盛は「陸軍大将」に任命されました。
ところが朝鮮問題でもめると、隆盛は陸軍大将の職を辞して鹿児島に戻って隠居してしまいます。
隆盛を慕った人たちも次々と政府の要職を蹴って鹿児島に馳せ参じました。
鹿児島で新たに学校を作るも内容が銃や砲科などの軍事的な内容であったため、各地で不平士族の反乱が相次いでいることも相まって明治政府には危険視されていました。
そこに学校の生徒たちが政府の火薬庫を襲うという事件が起こってしまいます。
寝耳に水だった隆盛でしたが、火薬庫襲撃事件が続くと、隆盛に疑いの目がかかり、あろうことかそんな隆盛を守るために生徒たちが明治政府に刃向かい堂々巡りに陥っていました。
もはや暴発を抑えられないと悟った隆盛は不平士族を集めて鹿児島で明治政府に叛旗を翻しました。
明治10年(1877年)、日本で最後の内戦と呼ばれた「西南戦争」は隆盛の下に1万3000もの兵が集まったといい、一度は熊本城を包囲しましたが、その後は連戦連敗し、最後は故郷・鹿児島の城山で部下に首を刎ねさせ己の死によって戦争を終わらせたのです。
享年51歳でした。
「戊辰戦争」と呼ばれたこの戦いが落ち着き、明治天皇を戴いた「明治政府」が正式に発足すると、桂小五郎改め「木戸孝允」や大久保利通とともに「維新三傑」の一人に数えられた隆盛は「陸軍大将」に任命されました。
ところが朝鮮問題でもめると、隆盛は陸軍大将の職を辞して鹿児島に戻って隠居してしまいます。
隆盛を慕った人たちも次々と政府の要職を蹴って鹿児島に馳せ参じました。
鹿児島で新たに学校を作るも内容が銃や砲科などの軍事的な内容であったため、各地で不平士族の反乱が相次いでいることも相まって明治政府には危険視されていました。
そこに学校の生徒たちが政府の火薬庫を襲うという事件が起こってしまいます。
寝耳に水だった隆盛でしたが、火薬庫襲撃事件が続くと、隆盛に疑いの目がかかり、あろうことかそんな隆盛を守るために生徒たちが明治政府に刃向かい堂々巡りに陥っていました。
もはや暴発を抑えられないと悟った隆盛は不平士族を集めて鹿児島で明治政府に叛旗を翻しました。
明治10年(1877年)、日本で最後の内戦と呼ばれた「西南戦争」は隆盛の下に1万3000もの兵が集まったといい、一度は熊本城を包囲しましたが、その後は連戦連敗し、最後は故郷・鹿児島の城山で部下に首を刎ねさせ己の死によって戦争を終わらせたのです。
享年51歳でした。