日本史

大久保利通 破壊は西郷!創造は大久保!新政府の礎はこの人なくしてできなかった。

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皆さんは大久保利通に対してどのような印象を持っているでしょうか?

人間味にあふれ表舞台を歩む西郷隆盛に対して大久保利通の活躍はいつも西郷の影に隠れてしまっている印象があります。

ですがそんな大久保だからこそ新政府の骨格を整え、今に繋がる政治の基礎を築けたのでしょう。

今回はそんな大久保利通の生涯を紹介していきたいと思います。

正助どん

大久保利通は文政13年(1830年)8月10日に薩摩国(現鹿児島県西部)鹿児島城下で父・利世と福との間に長男として誕生しました。

利通の生まれた大久保家は御小姓与と呼ばれる下級藩士の家柄でした。

近所には西郷や海江田信義なども住んでおり、西郷には利通の幼名である「正助どん」と呼ばれながらともに成長していきました。

大久保家最大の危機

利通が元服して藩に仕えるようになった嘉永3年(1850年)に藩では大事件が勃発します。

それは次期薩摩藩主の跡目を巡る一連のいざこざで世間では「お由羅騒動」と呼ばれていました。

そのいざこざに父・利世と利通が連座したとみなされ、父・利世は鬼界島(現喜界島)に遠島され、利通も役目を解かれ謹慎させられてしまったのです。

働き手を失った大久保家の台所はたちまち回らなくなり、各地に借金の山を作ったといいます。

しかし大久保家の窮状を知っている西郷は支援を惜しまなかったと言われ、また一つ西郷との結束が強まりました。

そんな大久保家も新藩主に島津斉彬が収まると父ともども復職を許され、大久保家最大の危機を何とか脱することができたのです。

正助どんから一蔵どん、そして利通へ

西郷ともども斉彬に取り立てられた利通は順調に出世を重ねていきましたが、安政5年(1858年)に斉彬が急死すると、慶喜派とみなされた西郷が大老・井伊直弼の「安政の大獄」が始まったこともあって失脚し、身を隠すために島に遠島されてしまいました。

そこで利通は斉彬の異母弟であり新藩主の父でもある久光に接近し、久光より「大久保一蔵」と名前を賜るほどの寵愛を受けることに成功しました。

それも全ては謹慎時に恩を受けた西郷を島から呼び戻すためともいわれ、利通の頑張りにより西郷は復帰することができましたが、あろうことか西郷は利通の仕える久光の協力要請を蹴り、久光と利通のメンツを潰してしまいました。

激怒した久光は再度西郷を島流しにしてしまいます。それでも上方に精通している西郷の力は必要と久光を説得した利通は再び西郷を呼び戻してもらうことに成功しました。そして今度は西郷も久光のために働くことを承知したのです。

久光の側近として活躍した利通も気付けば家老である小松帯刀に並ぶ重臣に出世していました。

名乗りも「大久保一蔵」から「大久保利通」と改めたのです。

政治を取り戻せ

日本は西欧列強の脅威に晒されており、日本の顔である幕府にはもはや力もなく列強の言うがままになっていました。

そんな幕府に国を任せるわけには行かないと、西郷らとともに倒幕して天皇を中心とした新しい政府を作って政治を行わせようと働きかけた利通は久光を動かすことに成功しました。

朝廷から倒幕の勅許を得ることにも成功した利通は、因縁のある長州藩(現山口県西部)と結んで幕府に政治を手放すよう圧力をかけました。

しかしそこは賢い慶喜。あっさりと大政奉還し幕府は政事の一切を朝廷に返上してしまいました。

ただ矛先をかわしただけと激怒した西郷は慶喜を挑発し、慶喜に味方する諸藩が薩摩藩を攻撃したことによって鳥羽・伏見の戦いが勃発。西郷らが天皇の旗である「錦の御旗」を掲げたことで西郷ら新政府軍が官軍。慶喜と旧幕府軍は賊軍となってしまいました。

賊軍にだけはなりたくなかった慶喜でしたがもはや後の祭り。戊辰戦争と呼ばれた革命戦争の果てに徳川幕府の形が崩壊し、変わって明治天皇を頂点とする「明治政府」が樹立され、利通は「参与」として新政府の中枢に携わることになったのです。

新政府での大久保利通

長州藩の桂小五郎改め木戸孝允、西郷隆盛とともに「維新三傑」と呼ばれるようになった利通は次々と改革を断行していきました。

藩を廃止し代わって政府から役人を派遣して政治を行う「廃藩置県」。大名を「華族」という名の名誉職にした「版籍奉還」は久光を激怒させました。

それでも改革を進める利通は新たに「内務省」を設立すると自ら初代「内務卿」に就任し、政界での最高権力者となりました。

そして朝鮮出兵を巡って西郷と対立することになると利通は西郷を失脚させ、利通を止められるものは誰もいなくなってしまいました。

それに不満を示した士族たちが各地で反乱を起こすも全てを鎮圧した利通は最後に大ナタを振り落としました。

それが、華族や士族に支払っていた俸禄を無くした「秩禄処分」です。

これによって収入を失い食べられなくなった士族たちが頼ったのは何と失脚したはずの西郷隆盛でした。

時代の受け皿として散る覚悟を決めた西郷はこの士族たちと明治政府に反乱を起こし…そして敗れたのでした。

大久保利通の最期

西郷隆盛の反乱は「西南戦争」と呼ばれ、これ以降大規模な反乱は無くなったといいます。

そしてそれを迎え撃った新政府軍の構成員は士農工商の区別をなくした新しい兵隊たちでした。

刀ほどの鍛錬を必要としない新型銃の誕生によって士族の必要性はなくなったのです。

しかし利通も元下級藩士とはいえ士族の出身。

明治11年(1878年)5月14日、利通の乗った馬車は紀尾井坂にて不平士族の待ち伏せに遭って惨殺され49年の生涯を閉じたのです。
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