四国の名城、高知城・丸亀城・宇和島城の歴史と構造美を探る!

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1 高知城

 南北朝時代に南朝方の大高坂松王丸がここに城を築いたとされています。しかし、北朝方の細川、佐伯らと戦って敗北、それから文献にはこの城が出てこなくなるため、廃城になったというのが一般的です。それから戦国時代には長宗我部氏が一時、居城にしましたが洪水によって浦戸に移っていきました。

 本格的な遠江の掛川城から土佐に移った山内一豊によって行われました。一豊は関が原の戦いの際に豊臣方か徳川方かで悩む大名たちの前で率先して自分の掛川城を徳川家康に差し出し、協力することで戦後、大きく加増されることになります。はじめは土佐98000石を与えられますが、後に高直しにより土佐202600石の領主となりました。一豊は領内各地から石材・木材を集め、穴太の石垣師や多くの職人を招きいれ、家臣を各部署に配し、一日に1200~1300人ともいわれる人手を動員して工事を推進しました。本丸・二の丸が完成したのは二年後の1603年のことでした。

 その際に山内一豊は城山の名称を大高坂山から河中山に改めました。江の口川と鏡川の二つの河川に挟まれた土地だからというのです。

 しかし、洪水が相次いで起こり城下の建設すらうまくいきません。これは文字がよくないというので、竹林寺の空鏡の案で高智山の文字にかえました。竹林寺の文殊菩薩の智恵にあずかろうというのです。それがやがて高知へとかわり、この地域がそう呼ばれるようになっていったのです。

 城は高知平野の中央に位置する標高42mの大高坂山に築かれました。縄張は連郭式に輪郭式を複合したような形です。

 本丸は山頂に置かれ、その北方空堀を隔てて一段低く二の丸を置いています。さらに東へ一段低く三の丸を築き、山麓には西の丸が設けられました。

 本丸には天守と本丸書院・櫓などがあります。天守は18世紀半ばの再建ですが、4層6階、高さは18mで、下層の入母屋の上に2層の櫓をのせる望楼型天守の様式です。内部も通し柱が用いられず、2階を3つ重ねたような作り方をしています。しかし外壁は白漆喰の総塗りごめで、後世の手法を採用しています。

 天守には石落とし・矢狭間が設けられ、鉄製の忍び返しもあります。南北にのびる矢狭間には多くの銃眼が備わっています。

城にはたくさんの遺構が残っています。枡形の大手門と黒鉄門、懐徳館と名づけられた本丸書院なども見逃せない建物です。

2 丸亀城

 築城のはじめは室町初期のころ、管領細川氏の家臣である奈良氏の城でしたが、本格的な築城は16世紀末、讃岐に入った生駒親正によって行われました。生駒親正は、信長の死後、秀吉の配下となって徐々に石高を増やし、ついに讃岐17万1800石を与えられたのです。関が原の戦いのときには親正は西軍についたものの、子の一正は東軍に与していたため、戦後生駒氏の所領は安堵されました。これはどちらが勝っても家が残るように親正が配慮したと言われています。

元和の一国一条令で城はいったん廃城にされましたが、寛永年間(1624~44)に山崎氏が再築し、山崎氏が断絶したあとに入った京極氏に引き継がれていきました。  城は丸亀平野の北部、標高66mの亀山に築かれています。縄張は山頂に本丸、一段下がって二の丸、さらに下がって三の丸と螺旋状に郭を配する渦郭式と輪郭式の複合で、二の丸の下の平地に帯郭・西の郭を設け、北側のほぼ中央に大手門を開きました。

 この四区画を三段がまえの石垣で区切るので、その高さは合計60mにも及びます。石垣の扇の勾配や清正流三日月形とも呼ばれる曲線は見事なものです。

 この城をさらに内外二重の塀で囲み、城下町も外郭の中に取り込まれました。

 天守は本丸北側中央部、高さ2mの石垣の上にあります。3層3階、層塔型で高さは約15mでしたが、規模は現存天守のなかで最小となっています。

3 宇和島城

古く板島と呼ばれたこの地には戦国時代に丸串城がありました。そこに近世城郭の宇和島城を建設したのは藤堂高虎でした。

藤堂高虎は何度も主君を変えたことで有名な武将で、主君をかえるたびに出世すると言われたほどです。高虎はこの時代を代表する築城名人で石垣を高く積み上げる方法が特徴的です。同じく築城名人と言われた加藤清正は石垣の反りを重視しており、それぞれの特徴が際立っています。

関が原の戦いのあと、加増された藤堂氏が伊勢に転封になると、かわって富田氏が入ります。しかしすぐに富田氏は改易になり、その後には伊達政宗の長男である伊達秀宗が入りました。この伊達宇和島藩の2代目藩主の宗利が大改修を加えたのです。

城は標高80mの城山に築かれました。北と西は海に面し、東と南は堀をつくって海水を引き入れて外的に備えました。その意味ではこの城は海城とも言えます。

天守は高さ16m、白亜の総塗りごめで美しい壁です。千鳥破風や唐破風で変化をつけてはいますが、17世紀半ばの建設だけに銃眼や石落としといった純粋に軍事目的だけの設備は見ることはできません。また妻飾りには伊達家の紋が使用されています。
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