呪いで傾いた城、松本城

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1 松本城の築城まで

松本の地は松本平の中心にある低平地で、いくつもの川が合流し、また湧き水も豊かです。古くから深志または深瀬と呼ばれてきました。延暦年間の末(800年ごろ)上田から国府が移ってくると、府中と呼ばれて信濃国の中心地となり、在庁官人の犬飼氏が館をかまえました。

室町時代の初め、足利尊氏に従っていた小笠原貞宗が信濃守護になり、松本城のある所やりやや南方に居館を築きました。その後、さらに南方に居城を築いて移りましたが、深志には支城を置いていました。

戦国時代に入ると天文17年(1548年)甲斐の武田信玄が、小笠原長時を撃破して、この地方に進出しました。信玄は、駒井高白斎に命じて深志城を大いに拡張し、東信濃と北信濃への進出拠点としました。松本城と城下町の礎石はこのときに置かれたのです。そこには武田家の重臣、馬場信春が入りました。

天正10年(1582年)織田信長は、木曽義仲の末裔という木曽義昌の要請に答えて、甲斐の武田勝頼を滅ぼしましたが、その結果、木曽義昌が深志城主となりました。ところが、つづいて信長が本能寺で横死をとげると信濃国はたちまち混乱に陥ります。

まず、越後の上杉景勝が北信濃に侵入し、深志城を攻撃して木曽義昌を追い出し、小笠原長時の弟、貞種を城主にすえました。しかし、長時の嫡男の小笠原貞慶が徳川家康に支援されて付近の旧臣を集め、深志城に攻め寄せたので貞種は越後に逃れ、貞慶が城主になって父の跡を継ぎました。このとき貞慶は城の名を改め、松本城と称しました。

さて、天正18年豊臣秀吉が小田原の北条氏を滅ぼすと、徳川家康は関東に移され、小笠原貞慶の子秀政も下総の古河に転じました。その後へ、豊臣氏に属する石川数正が10万石を得て入封しました。石川数正は三年後に没しましたが、現在の国宝松本城の原型を作ったのは、数正とその子の康長で、完成したのは慶長2年(1597年)ごろとみられます。

天正18年石川康長が改易されて、小笠原秀政が城主に返り咲きしましたが、以後、城主は戸田氏、松平氏、堀田氏、水野氏、再び戸田氏と目まぐるしく変わって明治維新を迎えました。

2 松本城の天守閣

現在、松本市街のほぼ中央に、松本城の天守閣がそびえています。峻険な北アルプス連峰を背景に、烏城の異名どおりの黒い外観が鮮やかです。
連郭複合式の天守閣で、まず石川氏が五層六階の大天守の北側に三重四階の乾小天守を配して渡櫓でつなぎ、さらに寛永10年(1633年)松平直平が、その東側に二重二階の辰巳付櫓と月見櫓を加えたものです。現存する天守閣のなかでは、全国で三番目に古く、五重のものとしては最古です。石垣は野面積みで、桃山時代の実戦本位の建築様式を伝え、やや武骨な印象をうけます。

しかし何と言っても特筆すべきなのは大入母屋を持たないその構造です。このころに完成した城の天守構造は主殿が大入母屋屋根を持った層が積み重なっている場合がほとんどであり、丸岡城の初期天守は大入母屋に望楼を付け加えた構造ですし、岡山城は二重の大入母屋が三つ重なっている構造です。
他の代表的な天守もすべて大入母屋が特徴としてありますが、この松本城天守にはそれがありません。

三重目東側に見られる千鳥破風や、さまざまな個所に散見される破風の痕などには、大入母屋の風情が濃く残っています。つまり、寛永年間(1624~1644年)に天守は大幅に改修され、現在の姿になったと推測できるのです。すなわち石川氏が築いた天守は乾天守のみで、小笠原氏が1615年ごろに五層天守を築いたのです。この文禄期の建造がゆえに、石落や狭間が天守と乾櫓には見ることができます。攻城戦に対する備えの意識の違いがここからうかがえます。

往時は天守閣のある本丸を堀で囲み、その東・南・西に二の丸があり、さらに二の丸の堀の外側を三の丸が取り巻いていました。現在は、本丸と二の丸の堀が残っています。

城下町の経営は、小笠原貞慶のころから着手されていましたが、完成したのは石川氏のときです。城の東を流れる女鳥羽川と薄川を南へ迂回させて、西の奈良井川と共に、外堀として城の防衛線としました。総じて松本城は南へ向かって防備を固めています。
城郭の周辺には武家屋敷を配置し、城と女鳥羽川の間の善光寺街道に沿って町屋を設けました。

3 松本城の呪い

ところで、水野忠直が城主であった貞京3年(1686年)、苛酷な年貢に反対する農民が強訴します。
藩当局はかれらをだまして帰らしておいて、指導者たちを逮捕し、家族らを含めて36人を磔、獄門、所払いなどの刑に処しました。
指導者の一人、中萱村の加助は磔台の上から訴えつづけ、恨みをこめて天守閣を睨んだために天守閣が西に傾いたといわれています。不気味に思った藩は天守を戻そうとしましたが、何度戻しても傾きます。
そして40年後、藩主の水野忠恒が江戸城内で乱心、水野氏は改易され、藩内では「加助の呪い」と言われました。
城の北西、犬飼氏の館跡の城山公園に加助騒動の犠牲者を悼む貞享義民塚があります。
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