複雑な家事情、佐賀城と戦闘は考えない?鹿児島城

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1 佐賀城

佐賀といえば「鍋島の化け猫騒ぎ」が思い出されます。鍋島家の家臣、小森半左衛門が外国産の猫をいじめ、いじめられた猫が藩主の側室を食い殺して入れ替わり、さまざまな仇をなすというものですが、異国種の猫というところに佐賀らしさが現れています。

そんな鍋島藩の主城が、佐賀城です。別名「沈み城」とも呼ばれます。幾重にも張り巡らせた堀は攻撃を受けた際は水を城内に引き入れ、主要部以外は水没する構造になっています。平時も外堀をつくる土塁に植えられた樹木により、城の内部は伺えません。樹木の海に沈む城がこの通称を生んだものでしょう。北に設けられた大手門は戦国の世を彷彿とさせます。極めて実戦的な城の構造でした。佐賀藩二代目当主である鍋島光茂の家臣、山本常朝の言葉、「武士道といふは死ぬ事と見付けたり」にもあるように、武士としての本文を見失わない硬派な気性が目立つ鍋島の家風を象徴するような城です。

もともと佐賀城は、戦国大名の竜造寺氏の居城の村中城です。これを改修し、佐賀城の姿としたのは鍋島直茂でした。鍋島直茂は竜造寺隆信の重臣で、従兄弟であり義弟でもありました。また単に家臣としても勇猛果敢な武将として信任を得ていました。

しかし1584年に沖田畷の戦いで竜造寺隆信は戦死してしまいます。その後、鍋島直茂は豊臣秀吉に認められ、竜造寺氏とは別に所領を安堵され、また国政を任されました。これにより事実上、大名となりました。

多大な武勲をあげた直茂は1601年ごろから竜造寺の城跡を中心に新たな城を築いていきます。これが江戸期に佐賀城といわれ、現在も石垣や堀などを残す城跡となっています。

縄張は一見単純な構造ですが、しかしその方形の縄張の内部に藩主の竜造寺氏と実権を握っている鍋島氏を抱える複雑なものでした。築城当初は「佐賀城」とは言わず「竜造寺城」と呼ばれており、本丸にも竜造寺高房が入っていましたが、その後、幕府により竜造寺の家督を直茂の息子の鍋島勝茂が継ぐ形で佐賀は鍋島の領地となりました。

その後、明治の世を迎えるまで鍋島氏が佐賀城を世襲します。その歴史の中には先述した山本常朝がいます。彼は鍋島藩への絶対的な忠誠を説いた「葉隠」を残しました。この書により鍋島藩は家臣をまとめ、太平の世をおくったとされています。

そんな鍋島藩の城である佐賀城は、外観は四層屋根ですが、内部は上から上段(五階)、下段(四階)、二段(三階)、三段(二階)、其外(一階)の五階建てとなっています。また最上階が上下二階建てとなっているのが特徴で、一階は礎石の配置状況から後期天守閣としては珍しい書院造であったと推定されています。天守が五重の南蛮作りだったといわれていますが、1726年に大火に見舞われ本丸とともに失われました。天守を失ってからは御殿などは二の丸に移され、藩政も二の丸で行われました。しかし、その二の丸も1835年の火災により焼失しました。

時代は下り、1874年に起きた佐賀の乱では、佐賀城は反乱軍に一時占拠され、戦闘の際にその構造物のほとんどは失われました。現在残っている建造物は鯱の門と続櫓ですが、これらは1955年に国の重要文化財に指定されました。鯱の門には佐賀の乱が勃発した際につけられた弾痕が残っています。

2 鹿児島城

江戸時代に築かれた鹿児島城には天守がありません。島津77万石の大名の居城としては簡素すぎる造りですが、これは江戸幕府への絶対的な恭順の意志を外様大名である島津氏が具現化したものであるといわれています。

また、鹿児島の南端にあった島津藩です。他藩の通行があるわけでもありません。つまり防備を固める必要はことさらなかったのです。防備を固めるとすれば国境付近であり、本拠の鹿児島城で戦うということは、もはや抵抗できない状態になっていることになります。そうであれば城は堅固でなくてもよいという合理的な考えです。

構造を見てみると近代城郭とは違い、天守や重層櫓もなく、まるで鎌倉時代の武士の邸宅である屋形づくりをそのまま踏襲したかのようなつくりです。標高110mの城山を詰めの城として、麓に本丸、二の丸、厩が横に並ぶ簡素な縄張です。城は城山と館群からなりますが、館の一つ一つが曲輪としての構造を持っているわけでもなく、単純な堀と石垣があっただけで裏表なく防御能力のほとんどない構造です。

「鹿児島は城をもって守りと成さず、人をもって守りと成す」
この言葉は島津義久のものですが、「外城制」という鹿児島藩独自の制度を表現するものです。外城制度は戦国時代の地頭制度などに近いものであり、領内に武士を分散的に配置し、軍事ネットワークとして各地に農村・漁村支配の拠点機能を持った仮屋を配置したものです。
これは鹿児島藩の人口の26%が武士階級であることや戦国時代の島津家の領地支配システムをそのまま流用することができたから可能であったことです。
藩内の各地に仮屋が置かれ、この仮屋に住む武士を城下町にいる城下士に対し、外城士と呼びました。この仮屋の数は113におよび、ここに住む外城士は武士というよりも半士半農のようなものが多かったようです。
この外城制度により、中心部に大々的な防衛拠点を置く必要がなくなったのです。

この薩摩藩は江戸末期から維新にかけて重要な役割を果たします。維新三傑の一人、西郷隆盛も薩摩の出身です。

彼は中央政府で征韓論を唱えるが敗れ、薩摩に戻ってきます。最後は追い詰められ西南戦争を起こし、鹿児島城の城山で自刃して果てます。
鹿児島城は今でも市民からシンボル的な存在と捉えられていますが、維新後は生活が困窮した薩摩武士の心の拠り所ともなっていました。国に戻った西郷隆盛は、ここに私学校を開校し、さらに自らの死に場所としてもここを選びました。

このような歴史を持つ鹿児島城は1602年に島津家久によって築城された平山城で、別名鶴丸城とも呼ばれます。
何度か改修をされた後、明治維新まで使用されました。石垣や堀、西郷隆盛の私学校跡地である出丸跡、大手門との間に架かる石橋が現存遺構としてみることができます。
特に私学校の石垣には西南戦争の際につけられた弾痕が数多く残っています。
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