世界文化遺産の艶姿白鷺城こと姫路城と毛利の名城、広島城の築城難航の訳!

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1 姫路城

 播磨姫路城は大天守と3つの小天守を渡櫓で繋いだ連立式の平山城です。その壮麗にして典雅な佇まいは「白鷺城」の別名で広く一般に知られています。

 大天守と小天守群、そして渡櫓はいずれも国宝に指定され、その他の化粧櫓を始めとする幾多の櫓や城門、土塀の大半が重要文化財に指定されています。

 1993年には、日本を代表する最も完成度の高い城郭建築として、わが国では初めて奈良の法隆寺とともにユネスコの世界文化遺産に登録されています。

 その歴史は、播磨守護職の赤松則村が元弘3年(1333年)に砦を築いたことに始まり、正平元年(1346年)には、則村の子の貞範が砦を新たに整備してより、強固な居城を構築しました。その後、小寺氏、黒田氏と城主は代わり、天正8年(1580年)には織田信長の命を受けた羽柴秀吉が西国攻略の拠点とするべく入城します。翌年に秀吉が3層の天守を造営しましたが、ここまでがいわゆる姫路城の前史と言えるところです。

 本格的な近世大城郭としての姫路城の華やかな歴史が幕を開けるのは関が原の戦いで勲功を挙げた徳川家康の女婿、池田輝政の時代です。彼が三河吉田15万石から姫路52万石の城主になってからです。家康は池田輝政を大坂城の秀頼への抑えとして抜擢し、同時に家康は輝政の二人の子に備前と淡路も与えました。そのため、所領は100万石近い規模に膨らみ、輝政は「西国将軍」とまで謳われました。姫路城はそんな輝政の地位と権勢に相応しい居城として、その姿を整えていきます。城範囲を大きく拡張し、5層7階の天守を含む工事には慶長6年(1601年)から8年の歳月が費やされました。さらに池田氏3代の後を受けた本多忠政時代に、本丸の西にある西の丸の化粧櫓などが付加され、元和4年(1618年)頃には現在の姫路城の全容がほぼ整ったのです。

 外観はまず外壁部分に千鳥破風が白漆喰総塗籠造りの壁に優雅な曲線を描いています。
天守の棟端を飾る「鯱」は頭は虎で体は魚という想像上の生き物です。瓦の紋には皇室が使う紋があしらわれており、池田家に使用が認められていたものです。内部の菱の門は安土桃山様式を伝える城内最大の城門です。上の櫓部分に見える黒漆塗りに飾り金具を施した窓が光彩を放っています。

 城内では鉄砲狭間が多く目に付きます。多くは丸か四角、三角は数が少ないのですが、城に向かう正面や目立つ場所には必ず三角の狭間があります。また、各所の屋根の軒丸瓦に連なって下がる逆三角の瓦も珍しいものです。これは雨を先端から下に落とす朝鮮式の滴水瓦で、秀吉の朝鮮出兵に参戦した武将たちが持ち帰ったものです。

 池田輝政が標高46mの姫山の上に築いた姫路城天守は外観5層、内部は地上6階、地下1階。地上からの高さは31.5mで、現存する12の城の天守の中では最も高層の建造物です。

 大天守は直径1mほどの2本の大柱で支えられています。東大柱は昭和の改修の際に地下部分の一部だけを補強しましたが、築城当時の樅の一本材のままです。

 その姫路城天守は桃山様式の優美な姿の中に極めて実戦的工夫が細部にわたって凝らされている。例えば、天守入り口の扉は厚く頑丈にできているのはもちろん、外側から開閉するのではなく、内側から閉める構造になっています。明らかに籠城を意識した造りです。地階には流し場があり、使った水は傾斜した樋を伝って、天守の外に排出される仕組みになっています。これも長期の籠城に備えたものです。石垣は扇を開いたような優美な曲線を描くことから「扇の勾配」と呼ばれており、天守に攻め上ろうとする敵兵を防ぎます。しかし、この姫路城は「不戦の城」としても有名で、その建造物の保存性の高さは戦乱や火災に一度も遭遇していないという奇跡がもたらしたものでもあるのです。

2 広島城

 太田川河口の三角州にある広島城は、安芸国の支配者、毛利輝元が吉田町の郡山城からこの地に移って築城したものです。輝元は毛利元就の長男である隆元の子で、豊臣五大老の一人でもあり、関が原の戦いでは西軍の総大将にもなった人物です。

 広島の地名が河口デルタ地帯で最も広い島を城地にしたところから起こったと考えられているように、城郭建設の「島普請」は難航し、天正17年(1589年)から10年をかけて完成したものです。

 関が原の戦いの後、毛利氏は大幅な領地の削減があり、毛利氏は山口県の萩へ移り、安芸には尾張から福島正則が入ります。しかし、その福島正則も元和5年(1619年)には備後・安芸49万石から陸奥津軽4万5千石へと移動させられていきました。そして安芸には和歌山から浅野氏が入ってくることになります。

 城は北は太田川の分流城北川を外堀に代え、東・南・西の三方は外堀を掘っています。内部はまず、本丸・二の丸を内堀で囲み、その外に三の丸をおいて中掘をめぐらし、その外郭を外堀と城北川が囲むという輪郭式の縄張で築かれました。

 本丸には本丸屋敷と天守があります。天守は南北に付櫓をもつ複合式天守で5層6階、高さは約20mでした。

 明治になって城は軍施設として使用され、明治末年には外堀も埋められました。天守は1945年、原爆で壊滅しましたが、1958年に再建されました。
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