天空の城、竹田城と忠臣蔵ゆかりの赤穂城

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1 竹田城

 竹田城は規模も小さく、遺構も少ないです。ただ石垣があるだけです。しかしながら城愛好家から絶大な人気を誇っているのは見事な景観ゆえです。この景観で日本百名城に含まれているのです。

 本丸から南千畳を見下ろします。すると南二の丸、南千畳が見え、石垣の列が白い雲の上に浮かんで見えるのです。

 虎が伏せているように見えることから「虎臥城」とも、外堀の役割を果たしている丸山川からの川霧でまるで雲の上に浮かんで見えることから「天空の城」とも呼ばれる竹田城はその石垣の魅力で全国に知られています。

 ただ、雲海はいくつかの条件が揃わないと現れないので注意が必要です。
その条件とは
1.9月~2月ごろ(晩秋がベスト)、
2.前日か前々日に雨が降って空気が湿っていること、
3.当日の朝に冷え込むこと、
④風が弱いこと、です。

 これらの条件が揃った日に、竹田城は「天空の城」となるのです。

 標高353m、古城山の山頂に築かれた縄張は、中央の天守台を要とし、本丸、二の丸、三の丸、南二の丸が連郭式に配され、北千畳と南千畳がそれぞれ南北に伸びて双翼の形となっています。天守台西方には花屋敷と呼ばれる曲輪があり、真上から見ると三枚羽のプロペラのような形をしています。

 最初に築城したのは但馬国守護大名、山名持豊です。出石此隅山城の出城として街道が交わるこの地に1431年から足掛け3年の歳月で完成させたと伝えられます。

 築城当初は土塁づくりであったようですが、羽柴秀長、桑山重晴、赤松広秀と織豊時代の城主のときに総石垣になったようです。それまでは山名四天王と呼ばれた太田垣氏が城主を務めていました。
総石垣づくりの城への改修は13年もの長きにわたり、近在の農民は使役され、「田に松が生えた」という話が伝わっています。石垣には穴太積みが用いられ中世末から近世の改修であることがわかります。食い違い虎口の美しさ、枡形が連続する大手口の豪壮さ、城好きには興味深い造りが連続します。

 羽柴秀吉による1577年の但馬征伐により、竹田城は落城し、毛利氏が山名氏の応援をやめたことから秀吉の勢力圏となります。その後、秀吉の弟の秀長が城代となり、後に秀長の家臣である桑山重晴が城主として入ります。さらに桑山重晴が和歌山城に転封になると代わって赤松広秀が城主として入ります。赤松広秀は関が原の戦いでは、宇喜多秀家の妹を正室としている関係で西軍に属し、細川藤孝の居城である丹後田辺城を攻めています。しかし、西軍本隊が関が原で敗北したとの報を受けると、すかさず東軍に寝返って西軍の宮部長房の居城、因幡鳥取城を攻めます。しかし、このとき城下を焼いたことが問題となり、家康により切腹させられ、竹田城は廃城となりました。

 秀吉が天下を取ったあとの国内の山城の意味は消滅し、新規築城もほぼなくなってしまいます。その直前に改修が行われたため、竹田城は中世山城の最終形態として近世城郭の要素を取り入れた形で完成し、美しさと壮大さを備えた城になったのです。  

2 赤穂城

 赤穂城は、室町時代の中期赤松氏の一族が東有年谷口にあった「大鷹城」をこの地に移したのが最初とされます。しかし、当初は砦のようなものでした。その後、天正年間(1573~92)に宇喜多氏がここに政庁を置きました。

 関が原の合戦の後は宇喜多領は池田輝政のものとなり、輝政は家臣の垂水半左衛門を郡代として赤穂に派遣しました。このころ、堀、塀、櫓門などの設備を施しましたが、城下町として整うのは輝政の五男松平政綱が1615年に赤穂に封じられてからです。政綱は大書院、広間、玄関、式台、土蔵を建てて藩邸を整えました。次いで、弟の輝興が金の門、多門隅櫓、城内馬屋を設けました。

 しかし輝興は1645年5月、突如発狂し、妻や侍女を殺害して除封となり、常陸の笠間から浅野長道が53500石で入封します。所領は他にもあり、さらに新田と塩浜干拓予定地5000石が含まれ、長道は入封とともに塩田の干拓を開始しました。その収入が築城の主要財源となりました。

 浅野氏は入封した翌年に甲州流軍学者の近藤正純によって築城設計を整えて着工します。築城中、山鹿素行の意見を取り入れ、二の丸虎口の縄張を一部変更しました。

 赤穂城は軍学理論に従って甲州流小幡軍学と山鹿流軍学の合作として1661年に完成します。現在赤穂城が国指定の史跡となっているのは赤穂義士の城であるとともに、城郭史上貴重であったからです。

 赤穂城は純然たる平城で本丸と二の丸は輪郭式、三の丸と二の丸の関係は梯格式です。これは変型輪郭式縄張と言われています。三の丸、二の丸、本丸は同一平面城に配置され、天守台はありますが天守閣は築かれませんでした。本丸内に藩邸を置き、二の丸に馬場、重臣邸を設け、三の丸に家老屋敷を置きました。堀は旧千種川の水が利用され、清水門外の千種川堤に米蔵や舟番所がありました。

 大手門の堀の前には昭和29年の再建ながら白亜二層の大手隅櫓があります。大手門橋を渡って枡形に入れば、すぐ右側に白壁の長屋門が見えます。これが赤穂義士の中心人物・大石内蔵助宅の長屋門です。大石邸の斜め向かい側は赤穂城を設計した軍学者近藤正純の養子、近藤源八の屋敷で、長屋門の一部が残っています。

 赤穂城跡の見所はこのあたりで、大石邸は1729年に火災にあい、今は庭園と池泉と長屋門だけが残っています。大石邸は1645年から1701年の浅野家断絶までの57年間、大石家三代が住んでいました。

 この大石邸跡と家老藤井又右衛門邸跡には大石神社が建てられています。内蔵助をはじめ、四十七義士と萱野三平が祀られています。大鳥居前の空地には大石瀬左衛門、間瀬久太夫、磯貝十郎左衛門、大野九郎兵衛、片岡源五右衛門などの居宅がありました。

 清水門は、片岡邸跡の東方にあります。大石内蔵助が元禄十四年四月、城を明け渡す時、大手門からは許されず、名残りを惜しみつつ去っていったのが、この清水門でした。

 本丸跡には、現在県立赤穂高校があり、途中には赤穂塩の塩業資料館があります。そこから南西のところには兵学者山鹿素行の銅像があります。

 江戸城中松の廊下で刃傷事件を起こした浅野内匠頭長矩の切腹で57年目にして浅野家は断絶します。

 その後、城主が次々と代わりますが、徐々に城下町も衰退し、明治の世をむかえるころには赤穂城も荒廃していました。
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