日本史

平凡な二代目将軍徳川秀忠の成功の秘訣は「モデリング」にあった!

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江戸幕府を開いたのが徳川家康ならば、幕府を安定化に導いたのは孫の三代将軍徳川家光というのが一般の認識です。では二代目将軍って誰? どんな活躍をしたの? そう問われてとっさに答えられる人がどれだけいるでしょう。

二代目将軍の徳川秀忠があまり知られていないのは、関ヶ原の戦いのときに「大遅刻」をして本戦に間に合わなかったという汚点があるからでしょうか。それに、天下分け目の戦国末期を生き伸びた武将にしては頼りない印象がつきまとい、どこか「物足りない」感じもします。

そして何より、秀忠が「二代目」であることが人気のなさを反映しているのかもしれません。現代でも大企業の二代目はさほど注目されませんよね。企業の存続には三代目が鍵だといわれているからです。

関ヶ原の失態で家康を激怒させてもなお後継者に選ばれた秀忠は、客観的にみれば人生の成功者といえるでしょう。

では「目立たない二代目」の秀忠が成功できたのはなぜだったのでしょう。
河合敦氏は『二代目将軍・徳川秀忠 忍耐する“凡人”の成功哲学』(幻冬舎新書)という著書の中で、秀忠が成功したのは、「父・家康になりきった」からであると述べています。つまり、家康の思考と行動を徹底的に研究して模倣したのです。

秀忠が実践した「模倣」は、心理学の分野では「モデリング」と呼ばれ、現代でもアスリートやビジネスパーソンの間で幅広く利用されている心理技法のひとつなのです。

では、凡人の秀忠を成功者に変えた「モデリング」とは、いったいどのようなものなのでしょうか。

秀忠が実践したと思われる「モデリング」とは?

カナダの心理学者アルバート・バンデューラは、人間が攻撃的な行動をとるのは、他人の攻撃的な行動を観察した結果だと主張しました。たとえば、テレビで暴力シーンを見たあとに、なぜかすっきりした気持ちになることがあります。この経験が「暴力を振るうと気持ちがいいんだ!」というカタルシス効果を呼び、攻撃行動を促すというのです。バンデューラはこれを「社会的学習理論」としてまとめ、「モデリングによる学習」を提唱しました。1950年代の後半のことです。

子どもの成長過程はモデリングの繰り返しといわれています。おままごとの食卓で繰り広げられる子どもたちの会話が、現実の家庭の食卓の会話とそっくり同じで、ドキっとさせられた親ごさんはいませんか? 子どもは周りの大人の行動をつぶさに観察し、模倣することで様々な行動規範を習得していきます。大人になっても、憧れの上司や芸能人のファッションと言動を気が付くと真似ていた、ということはよくありますよね。

このように私たちは、小さいころから日常的かつ無意識に「模倣=モデリング」を使って、様々な学習しているともいえるのです。

この模倣する能力を意識的に利用して、理想の自分を作り上げていこうというのが、心理技法における「モデリング」です。

己を捨て、父・家康になり切ろうとした秀忠

では、徳川秀忠はどのようにして「モデリング」を利用していたのでしょうか。もちろん、江戸時代初期の日本に、心理学という体系化された学問はまだ存在していなかったので、自分なりに色々と工夫をしていたに違いありません。

秀忠にとってモデリングになりうる「見本」は父・徳川家康でした。こんなエピソードがあります。大坂の陣の際、味方の陣営に謀反を企む者がいるという噂が流れました。家康は激怒して「そんな不届き者がいるのに、この俺がわからぬはずがあろうか!」と叫びました。

同じころ、家康から遠く離れた場所にいた秀忠の周りでも同様の噂が飛び交いました。すると秀忠も怒って家康とまったく同じセリフを言い放ったのです。

周囲は「さすがは親子!」と感嘆したといいます。しかし上述の河合氏は、「それは秀忠の努力の賜物」であり、秀忠がとことんまで家康を研究し、模倣してきた結果だと評しています。

またあるとき、秀忠たちが能楽を鑑賞している最中に大地震が起きました。アタフタする家臣とは裏腹に、「まだ屋根も落ちず、壁も崩れてきてないから大丈夫だよ」と、秀忠はあくまでも冷静だったそうです。

「不測の事態に備えて、どう行動するかあらかじめ考えておくように」。これが秀忠の口癖だったそうです。彼の頭の中には常に「家康だったら、こういうときどう行動するだろう」という発想があったに違いありません。だからこそ、大地震の際も冷静に対応できたのでしょう。

NLP(神経言語プログラミング)という心理療法におけるモデリングでは、手本となる成功者の「信念」を知るように提案します。「行動」を真似るだけでなく、成功者がどんな「信念」を元にその行動を選択しているのかを見極めるのです。行動が信念を作り、信念が行動を創るというのがNLPの主張です。

秀忠のレベルまでモデリングを徹底しようと思ったら、信念までも変えていく必要があります。それはすなわち、「自分を捨てる」ということに他なりません。

関ケ原の大失敗以来、秀忠は自分に人望がないことを十分承知していました。そんな自分が二代目として信頼を得るには、カリスマ的存在である父家康に一切逆らうことなく、むしろ家康のように考え、家康のように振る舞うしかないと考えたのかもしれません。

豹変した秀忠 ―型を捨てる―

自分を捨ててまで家康を敬愛し、とことん模倣して成功した秀忠。父の家康からしてみれば、そこまで自分を慕ってくれる息子がかわいくてしかたなかったでしょう。かわいいだけでなく、秀忠には二代目としての才能にもあふれていました。自分の敷いたレールを忠実に走ってくれる跡継ぎとして、秀忠はうってつけだったのです。

ところが家康の死後、名実ともに幕府の実権を握った秀忠は、周囲が驚くほど豹変します。実弟を島流しにして領地を没収したり、関ヶ原の合戦で功績を残した福島正則を武家諸法度違反で容赦なく処罰したり。その行動はこれまでの秀忠とは思えないほど厳しいもので、家臣たちの見る目がたちまち変わったといいます。

かといって秀忠は、家康の教えを無視してやりたい放題していたわけではありません。家康に対する敬愛の念は死ぬまで変わらず、周囲が大げさに思うほど父の死を嘆き、月命日には厳格な喪に服していました。

歌舞伎俳優の十八代目中村勘三郎が朝日新聞のインタビューの中で、「未熟者が土台もないのに新しいことをやるな、と。形を持つ人が、形を破るのが型破り。形がないのに破れば形無し」と語っています。

手本であった家康の死をきっかけに、秀忠は「型」を破ったのでしょう。しかし家康の「型」を土台としてしっかり残したうえでの「型破り」は、一朝一夕に習得できるものではありません。

平凡と呼ばれた2代将軍徳川秀忠ですが、実は「名人級」のモデリング技法を身に着けていた偉大な人物だったのかもしれません。
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