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金比羅宮は経営上手? 伊勢神宮と比肩するほど有名になった観光戦略とは

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香川県仲多度郡に金比羅宮があります。
金比羅宮は長い階段が有名ですよね。
連日多くの人々が参拝し、息を切らしたり、「よいしょ、よいしょ」と一段一段、本殿を目指して上っています。 周辺にはお土産屋さんが軒を連ね、「こんぴらさん」と呼ばれ親しまれています。
しかし、金比羅宮に誰が祀られているかご存じでしょうか?
また、いつから金比羅宮があると思いますか?
今回は金比羅宮の歴史やみどころをたっぷりご紹介します!

金比羅宮のご祭神は?

金比羅宮に祀られているのは、大物主神と崇徳天皇です。
大物主神とは、出雲大社のご祭神・大国主命の別名で、和魂または幸魂・奇魂の神名だといわれています。 日本最古の歴史書「古事記」では、葦原中国(人間が住む地上世界)を治めようとしている大国主命が、海を照らす神様の魂をみつけたことが記されています。 大国主命が「あなたはどなたか?」と答えると、「私はあなたの幸魂であり、幸魂である」と答えました。 そして、現在の奈良県にある三輪山に自分を祀ってくれたら、葦原中国を治める手伝いをしよう、というのです。大国主命はいわれた通り、三輪山に丁重に祀りました。

そして、崇徳天皇は1123年~1141年まで在位した第75代目の天皇です。 鳥羽天皇の第1皇子として生まれ即位しましたが、弟で第77代後白河天皇と保元の乱で勢力争いが起こりました。 負けてしまった崇徳天皇は讃岐(現在の香川県)に流罪となり、一切の欲を断ち切って参籠しました。 そのとき、五部大乗経の写本をつくり、戦死者の供養と自らを省みた証に京のお寺に収めてほしいと、後白河天皇に送りました。 しかし、後白河天皇は「呪いの写本ではないか」と思い、送り返してしまったのです。 これに怒った崇徳天皇は舌を噛みきり、写本に自分の血で「日本国の大魔縁となり、皇をとって民とし、民を皇となさん」や「この経を魔道に回向(読経すること)す」と書いたのです。
そして、京の都へ戻れることができず、崩御してしまいました。
するとその後、京の都では次々と災いが起きました。
延暦寺の強訴や安元の大火があり、後白河天皇の皇子・二条天皇や后の建春門院、孫の六条天皇など近しい人々が相次いで亡くなったのです。 さらに、安元の大火で御所も被害に遭い、「崇徳天皇のたたりだ」と噂されたのです。 そこで讃岐の地に稜墓を造営し、手厚く祀りました。 そして永万元年(1165)、金毘羅宮の相殿に崇徳天皇が合祀されました。 以来、崇徳天皇は「四国の守護神」として崇められるようになりました。

ところが、崇徳天皇の呪いは終わることなく、「民を皇となさん」の言葉の通り、皇族や貴族の時代が終わり、武将たちが政権を握っていきました。 それから700年後。再び天皇が国家の中心となる明治維新が起きました。 明治天皇は即位の際、崇徳天皇の御霊を讃岐から京都に移して、白峯神宮が創建されました。

金比羅宮の歴史とは?

金比羅宮の詳しい創建はいまだにわかっていません。 平安時代にはすでに広い信仰があり、「琴平神社」と称していました。

社伝によると、大物主神は現在の社殿がある象頭山(琴平山)に行宮を営み、中国や四国、九州の統治をしたといわれています。 その跡に奉斎され、象頭山から海をみることができたため「海上安全の神」や「豊漁の神」として信仰されるようになりました。

中世に入ると、神仏習合で「金比羅大権現」と称されるようになります。 金比羅大権現はインドのガンジス川にいるワニを神格化した「クンビーラ」という龍神ではないか、といわれています。 船が航海で迷ったとき、クンビーラに祈れば指針の火が現れるといわれていて、瀬戸内を航行する船の船頭や船員、水夫たちが「航海安全の神様」として信仰していました。

さらに源平合戦や南北朝の海戦で祈願したり、豊臣秀吉の九州征伐や朝鮮出兵の際に水軍として出兵した塩飽七島の島民たちが崇敬しました。 江戸時代に入ると、金比羅宮の信仰は全国に広まっていくことになります。 「お伊勢参り」が流行する中、「こんぴら詣り」をする人々も多くいました。 そして、明治元年の神仏分離で神社に復帰。社名を「金比羅宮」に改称しました。

現在でも人気に衰えはなく、たくさんの人々に愛されています。

こんぴらさんといえば、本宮までの長い石段!

誰もが一度はテレビや雑誌で、金比羅宮までの長い長い階段をご覧になったことがあるのではないでしょうか。 金比羅宮は象頭山の山腹にあり、長い石段が続いています。 本宮までは785段あり、誰もが杖をついて上っています。表参道から本宮まではだいたい30分です。

大門までたくさんのお土産物屋さんが並んでおり、休みながらみていくといいでしょう。 一之坂鳥居を通ると、重要文化財に指定されている「備前焼狛犬」があります。 さらに、灯明堂や石榑千亦の歌碑、鼓楼などがあり、私たちを楽しませてくれます。 大門を抜けると、桜馬場という道があります。春になると数十株の桜が咲き誇り、癒されます。

桜馬場西詰銅鳥居の横には「こんぴら狗」の銅像があります。 これは江戸時代、旅行が許されなかった庶民たちは犬に代参させていたのです。 飼い主の名前を書いた木札と初穂料、道中の食費などが入った袋には「こんぴら参り」とかかれており、犬はこれを首にさげて主人の代わりにお参りしました。 ぜひ、愛らしい顔をしたこんぴら狗をご覧になってください。

そして、社務所門、黒門、四脚門を通ると、えがおみらいばしという歩道橋があります。 これは2014年に竣工された新しい橋で、森の中の谷にかかる珍しいものです。 この橋の名前には「みらいも笑顔で明るく強く幸せに向かって歩いていこう」という意味がこめられています。 さらに進むと、旭社と黄銅鳥居があり、賢木門を通ります。 闇峠がを進み終えると、手水舎があるので手と口を清めましょう。 そして、御前四段坂を上りきると、本宮です。 長い道のりですが、たくさんのみどころがあるのでゆっくりと見ながら歩いていきましょう!

本宮まで来たら行ってほしい! 奥社の厳魂神社にもご参拝!!

本宮でお参りをして、あとは階段を下るだけ……。 ではなく、ぜひ奥社の厳魂神社にも行ってみましょう! 本宮の北透垣にそって西へ進むと、厳魂神社へ行ける鳥居が見えます。 さらに583段の石段があり、約1キロほど上っていきます。

厳魂神のご祭神は厳魂彦命です。元々、金剛坊宥盛という人物で、第4代別当です。厳魂彦命は国家の安寧や金比羅宮の隆昌整備に努めました。そして、亡くなるとき、象頭山を守護すると誓ったといわれています。 修験道が盛んになったころ、金比羅権現の眷属は天狗といわれるようになりました。 修験者だった金剛坊宥盛は死後、天狗になったといわれていて、神格化されたのです。 明治に入ると、神仏分離の追い風もあり、厳魂彦命と名前を改めました。 西側にある断崖は「威徳巖(いとくいわ)」といわれていて、厳魂彦命が参籠したといわれています。 断崖の上側には天狗とカラス天狗の彫物があるので、ぜひ見つけてくださいね。

そして、なんといっても厳魂神社からの眺望は最高です!
町並みや讃岐富士、瀬戸内海を一望できる風景は、石段を上ってきた疲れが吹っ飛びます! ぜひ、ご覧になってくださいね!

いかがでしたか。
金比羅宮はたくさんのみどころがあります。 どこを見ても歴史があり、魅力がつまっています。 長い石段は大変ですが、上りきったあとの爽快感は格別です。 ぜひ、金比羅宮へお参りしてくださいね!

■御扉開・御扉閉時間
○御本宮
1月~3月 午前6時~午後5時
4月~9月 午前6時~午後6時
10月~12月 午前6時~午後5時

○奥社
午前8時~午後5時(通年)

■所在地
〒766ー8501
香川県仲多度郡琴平町892ー1

金比羅山に見る江戸時代の寺社経営戦略

金比羅山といえば、香川県にある金刀比羅宮のことを指す呼び名です。誰もが一度は聞いたことがある神社ですが、神社の演技をはじめ、中世ごろまでの経緯は明らかになっていません。
実は金比羅信仰が世に広まったのは、江戸時代だったからこその秘密があったのです。

金比羅山と呼ばれ親しまれる金刀比羅宮

金比羅山と呼ばれ親しまれている金刀比羅宮は、香川県仲多度郡琴平町の象頭山の中腹にある神社です。全国に散らばる琴平神社や金刀比羅神社の総本社で、大物主命と崇徳天皇の2柱の神様を祭っています。現在はJRと高松琴平鉄道の2つの「琴平」駅がありますが、戦前までは琴平参宮鉄道と琴平急行鉄道の琴平駅と合わせて、全部で4つも琴平駅のあったターミナル駅でした。不況の影響などで廃線になってしまいましたが、金比羅山を参詣する人で賑わっていたことを伝えています。

明治時代の神仏分離令によって、金刀比羅宮は祭神が大物主命と崇徳天皇に定められましたが、金比羅山の信仰の中心となっていた神様は、金比羅大権現と呼ばれる仏教の神様でした。金比羅はサンスクリット語の「クンピーラ」が語源で、ヒンドゥ教のワニを神格化した神様のこと。その神様が仏教に取り込まれ、仏法の守護神・薬師十二神将のひとり宮毘羅大将になりました。この宮毘羅大将がもともとあった象頭山を主体とした信仰と結びつき、金比羅大権現として広まっていったようです。

象頭山の古代信仰と金比羅山

象頭山には古代より龍神信仰があったようです。蛇体の龍神が山に例えられる例は、日本全国あちらこちらで見られる信仰で、水や雨の神様として農耕民に信仰されています。象頭山でも水源の神様として、山全体を御神体とした信仰が、早くからあったとされています。

また象頭山は海に張り出した山で、海上に出ている船からよく見えたことから、船乗りの目印とされていたようです。そうしたことから、海の民からも海の神や航海の守護神として、信仰されるようになります。この象頭山を主体とした信仰の祭祀の場が、やがて金刀比羅宮の金比羅信仰と結びついたというのが定説です。ヒンドゥ教の神様だったクンピーラが、龍蛇・蛇体の神様だったことも、象頭山の龍神と集合していった要因のひとつと言われています。

金比羅山の縁起について、歴史学や民俗学などの立場から、いろいろな説が挙げられていますが、その経緯についての詳細は確定していません。金刀比羅宮・金比羅山についての記述が、1573年(元亀4年)が最も古く、それ以前の詳細が不明なためです。少なくとも、象頭山にあった松尾寺の金地院が、その後の金比羅信仰の中心になっていったことは、間違いがないようですが、そこまでの経緯については詳細不明となっています。

ご祭神の大物主命と金比羅大権現

祭神の大物主命と金比羅神の関係も、あまり詳細は明らかになっていないようです。金刀比羅宮の由緒では、大物主命を祀っていた琴平神社が前身とされていますが、それを示す記述は見つかっていません。一説には、金比羅神のなした治績と、大物主命のそれが酷似していたことから、同一視されるようになったのでは、とも言われています。中には金比羅神=大黒天=大国主=大物主という、語呂合わせ的な解釈もあるようです。わかっているのは、古代に龍神を祀った信仰が象頭山にあったこと、大物主命が祀られていること、金比羅神がヒンドゥ教のクンピーラであり、仏教の宮毘羅大将であることの3つです。

崇徳天皇は保元の乱によって、讃岐国に配流され「讃岐院」と呼ばれていました。「保元物語」や「雨月物語」には、崇徳天皇が凄まじい怨念を残して、崩御したことが描かれています。保元物語によると「いきながら天狗のすがたに」なったほどに、強く世間を怨んでいたようです。大怨霊となった崇徳天皇は、当時の怨霊に対する考え方からも、崩御からそれほど時を隔てずに祀られるようになったと推察できます。また天狗が雷神と関わりが深いと考えられていたことも、象頭山にあった信仰と崇徳天皇が結びつきやすかった要因だと推察する説もあり、大物主命よりは崇徳天皇の方が金刀比羅宮に祀られている所以を推論付けやすいようです。

金比羅参りの流行で全国区の神様へ

金比羅参りは伊勢神宮へのお蔭参りとともに、江戸時代に大いに流行しました。陸路で行く伊勢参りと違い、金比羅山へお参りするためには、船で海路を進まねばなりません。宿場町のある陸路と違い、食料や燃料を積み込む必要のある回路は、当時の庶民にとって相当高価なものだったはずです。ところが、港から金比羅の街まで「金毘羅街道」と呼ばれる通りが生まれるほど、実際には全国から多くの人が集まっていたことがわかっています。最盛期には常夜灯まで設置され、夜でも街道を通行できたほどの賑わいでした。

庶民の参詣方法でもっとも多かったのは、金比羅講と称して人々を集め、みんながお金を出し合って資金を調達し、集まった人の中からくじ引きで代表を決めるというスタイルでした。中には千人講・万人講と非常に多くの人を集める金比羅講もあったようです。代理参りは伊勢参りなどでも行われており、庶民が伊勢神宮や金比羅山へお参りするための手段として、当時は最も有効でポピュラーな手段でした。

中でも金比羅参りに関しては、他では見られない変わった風習もありました。「流しもの」と呼ばれる風習は、金比羅山から遠い地方で見られ、農民が初物の作物の中から特に大きなものを川へ流す風習で、飛騨地方や南佐久地方で行われていたようです。瀬戸内海を航行する船から初穂を入れた樽や桶に初穂を流し、それを拾った漁師や船乗りが代わりに金比羅山まで届けていました。

「こんぴら狗(いぬ)」は、なんと人間に変わって飼い犬がこんぴら参りをするという風習です。犬のクビに「こんぴら詣り」と書いた札を下げ、金比羅山の方角へ出発させます。金比羅参りに向かう人々は、道中でこんぴら狗に出会うと、一緒に金比羅山まで連れて行き、帰りも飼い主の元まで送り届けていたという、驚きのシステムだったようです。

金比羅参りを流行させた広告戦略

四国の讃岐にあった金比羅信仰が、江戸や大坂を中心にここまで多くの人々を集めるようになったのには、どんな秘密が隠されているのでしょう。それは「江戸時代」という当時の特徴を、巧みに利用した広告戦略にあったようです。江戸時代に整っていく幕藩体制は、江戸に各藩の江戸屋敷を建てさせ、藩主は定期的に参覲交代で江戸を訪れることが義務付けられました。また、「天下の台所」と呼ばれた大坂にも、藩の特産物や米などを販売するために、多くの藩が蔵屋敷を置いて拠点にしていました。

讃岐地方に領地を持つ藩主は、江戸藩邸や大坂蔵屋敷の中に、金比羅大権現を勧請し祀りました。江戸時代に書き記された史料を見ると、江戸や大坂での金比羅大権現の分布が見えてきます。また、記述の内容をつぶさに調べていくと、金比羅大権現についての様々な霊験譚が、巷間に広められていたようです。大名家の家伝として広めたところに、いつの時代も偉い人の噂が、庶民の間で格好の話題になることを利用したようにも見えてきます。その上、毎月10日の金比羅大権現の縁日に、江戸屋敷や蔵屋敷の門戸を開放し、庶民の参拝を許したことで、ますます金比羅大権現は庶民に流行していきました。

江戸時代に発達した旅のシステムも、金比羅参りを発展させた要因になっています。金比羅参りには必ず海を渡る必要がありますが、いくつかある港のうち最も重宝されたのは、大坂の港だったようです。歩く距離を短くして後は船の上でのんびりという考えでしょうか。当時の文献を当たってみると、大坂側の船宿・船会社・金比羅の宿が契約して、パックツアーのように連携を組んでいたことが書かれています。金比羅参りに限らず、18世紀後半にはこういった旅のシステムが確立していたようです。中には、ツアーコンダクターのように、旅の一切を手配する案内人もいたといいます。時間も距離も離れた場所へ、初めて旅をする庶民でも、気軽にお参りに行けるシステムが、金比羅参りを一層盛んにさせた機動力になったようです。

巧みな寺社経営が生んだ金比羅信仰

江戸時代に流行した金比羅信仰の裏側を探ってみると、巧みな寺社経営の技が見えてきました。
江戸時代に整った江戸屋敷や蔵屋敷のシステムを利用し、四国の讃岐にあった金比羅信仰を江戸や大坂から全国へと広め、伊勢神宮と肩を並べる大流行を収めたのです。金比羅信仰が「大当たり」したおかげで、讃岐には多くの人が訪れ、経済も大きく発展したことは、想像に難くありません。言い換えれば讃岐の「観光地化」に成功したわけです。
それまでどこにも記述の見られなかった讃岐の金比羅山を、のちに鉄道の駅が4つも出来るほど、全国に知れ渡らせた秘密が、江戸時代に行われた讃岐の観光戦略にあったとは驚きです。
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