マヤ文明の繁栄を今に伝えるチチェン・イッツァ
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チチェン・イッツァはメキシコユカタン半島の都市メリダの東、約120キロメートルの位置にあるマヤ文明の遺跡です。
マヤ語でチチェンが「泉のほとり」、イツァが「魔術師」という意味であり、ユカタン半島最大級のセノーテ(地下泉)の上に築かれていました。
この都市を築いたマヤ系のイツァ人は7世紀ごろ姿を消し、10世紀初頭にはトルテカ文明の影響を受けたイツァ人の末裔が再移住してきてこの都市を再興しました。
最盛期には3万5千人を超える人口があったと推測されています。
10世紀以前の遺跡が多く残る地域は「旧チチェン」、10世紀以降の遺跡が多く残る地域は「新チチェン」と呼ばれており、町の構成の違いが明確となっています。
13世紀になると別のマヤ人の都市国家であるマヤパンから攻撃され、チチェン・イッツァは廃墟となりました。
しかし、宗教儀礼で使われた「聖なるセノーテ」はチチェン・イッツァ滅亡後も長く巡礼地として機能しました。
1855年にアメリカのアマチュア考古学者であったエドワード・トンプソンが遺跡のある土地を購入します。
1904年から1911年にかけて遺跡の北端にあるセノーテを調査して多数の宝物を発見しました。
第二次世界大戦後は、チチェン・イッツァはメキシコ管轄下になり、現在はメキシコ国立人類学歴史学研究所のスタッフが学術調査を続けています。
マヤ語でチチェンが「泉のほとり」、イツァが「魔術師」という意味であり、ユカタン半島最大級のセノーテ(地下泉)の上に築かれていました。
この都市を築いたマヤ系のイツァ人は7世紀ごろ姿を消し、10世紀初頭にはトルテカ文明の影響を受けたイツァ人の末裔が再移住してきてこの都市を再興しました。
最盛期には3万5千人を超える人口があったと推測されています。
10世紀以前の遺跡が多く残る地域は「旧チチェン」、10世紀以降の遺跡が多く残る地域は「新チチェン」と呼ばれており、町の構成の違いが明確となっています。
13世紀になると別のマヤ人の都市国家であるマヤパンから攻撃され、チチェン・イッツァは廃墟となりました。
しかし、宗教儀礼で使われた「聖なるセノーテ」はチチェン・イッツァ滅亡後も長く巡礼地として機能しました。
1855年にアメリカのアマチュア考古学者であったエドワード・トンプソンが遺跡のある土地を購入します。
1904年から1911年にかけて遺跡の北端にあるセノーテを調査して多数の宝物を発見しました。
第二次世界大戦後は、チチェン・イッツァはメキシコ管轄下になり、現在はメキシコ国立人類学歴史学研究所のスタッフが学術調査を続けています。
聖なる泉セノーテ
チチェン・イッツァにはセノーテと呼ばれる天然の井戸が多数作られています。
とりわけ「聖なるセノーテ」は雨が降らないときや豊作を願うときに、または神の予言を伺うために財宝や生贄の人間が投げ込まれたと考えられています。
スペイン征服時のスペイン人の記録によれば、吉兆を占うために決まった日に女性が投げ込まれたとされています。
さらにこの記録によると、この女性は泉から息上げられ吉兆を語ったとされています。
探検家エドワード・トンプソンがこの泉に潜り調査したところによると、人骨やたくさんの財宝が発見されました。
とりわけ「聖なるセノーテ」は雨が降らないときや豊作を願うときに、または神の予言を伺うために財宝や生贄の人間が投げ込まれたと考えられています。
スペイン征服時のスペイン人の記録によれば、吉兆を占うために決まった日に女性が投げ込まれたとされています。
さらにこの記録によると、この女性は泉から息上げられ吉兆を語ったとされています。
探検家エドワード・トンプソンがこの泉に潜り調査したところによると、人骨やたくさんの財宝が発見されました。
巨大なピラミッド、エル・カスティーヨ
新チチェンにはスペイン語で「城塞」という意味のエル・カスティーヨという階段状ピラミッドが存在します。
マヤの最高神ククルカン(ケツァルコアトル)を祀った神殿であり、「ククルカンの神殿」「ククルカンのピラミッド」とも呼ばれています。
階層は大きく9段あり、4面には各91段の旧な階段があり、最上部の神殿の1_段あり合計で365段となり、これは1年を表していると考えられます。そのため「暦のピラミッド」とも呼ばれています。
エル・カスティーヨが最も観光客で賑わうのは年2回、春分の日と秋分の日です。
北面の階段の最下段にはククルカンの頭部を模った彫刻があり、春分の日と秋分の日の太陽が沈む頃に階段の西側にククルカンを表すジグザグの蛇のような影が現れます。これはククルカンの降臨と言われています。
エル・カスティーヨ内部には初期のトルテカ=マヤ方式のピラミッドが内蔵されており、ジャガーを模った玉座や神への生贄である心臓を捧げるチャクモール像が置かれています。
マヤの最高神ククルカン(ケツァルコアトル)を祀った神殿であり、「ククルカンの神殿」「ククルカンのピラミッド」とも呼ばれています。
階層は大きく9段あり、4面には各91段の旧な階段があり、最上部の神殿の1_段あり合計で365段となり、これは1年を表していると考えられます。そのため「暦のピラミッド」とも呼ばれています。
エル・カスティーヨが最も観光客で賑わうのは年2回、春分の日と秋分の日です。
北面の階段の最下段にはククルカンの頭部を模った彫刻があり、春分の日と秋分の日の太陽が沈む頃に階段の西側にククルカンを表すジグザグの蛇のような影が現れます。これはククルカンの降臨と言われています。
エル・カスティーヨ内部には初期のトルテカ=マヤ方式のピラミッドが内蔵されており、ジャガーを模った玉座や神への生贄である心臓を捧げるチャクモール像が置かれています。
戦士の神殿
エル・カスティーヨの東に戦士の神殿と千柱の間があります。
無数に立ち並ぶ千柱の間にはたくさんのレリーフが彫られていて、光が当たると絵が浮かび上がります。
戦士の神殿の入り口にあるのはククルカンの石柱と、神の使者であるチャクモールの像です。
チャクモールはお腹に鉢を持っていて、生贄の人間の心臓を太陽に捧げています。
無数に立ち並ぶ千柱の間にはたくさんのレリーフが彫られていて、光が当たると絵が浮かび上がります。
戦士の神殿の入り口にあるのはククルカンの石柱と、神の使者であるチャクモールの像です。
チャクモールはお腹に鉢を持っていて、生贄の人間の心臓を太陽に捧げています。
太陽神に捧げられた球戯場
ほとんどのマヤ遺跡には球戯場が存在し、豊穣祈願の儀式に用いられたと考えられています。
チチェン・イッツァのものは特に大きいことが特徴となっています。
マヤの球戯は2つのチームに分かれて行い、ゴムで作られた重いボールを腰で打って相手のコートに入れるといった内容だったと考えられています。
球技場の壁面には、壁の上部に取り付けられた輪に手を用いずボールを通す球戯の様子や、片方のチームが首を切られて生贄にされている様子が描かれたレリーフが残ります。
球戯の勝敗で生贄になる者が決まったとされますが、勝った側が生贄になったのか負けた側が生贄になったのかは現在でもはっきりとは解明されていません。
栄光の座を競う儀式であることから、生贄として太陽神に捧げられたのは勝った側であるという説が現在は有力視されています。生贄になることは名誉であり、天国の道が約束されるとされ、生贄を志願する者はたくさんいたと考えられています。
チチェン・イッツァのものは特に大きいことが特徴となっています。
マヤの球戯は2つのチームに分かれて行い、ゴムで作られた重いボールを腰で打って相手のコートに入れるといった内容だったと考えられています。
球技場の壁面には、壁の上部に取り付けられた輪に手を用いずボールを通す球戯の様子や、片方のチームが首を切られて生贄にされている様子が描かれたレリーフが残ります。
球戯の勝敗で生贄になる者が決まったとされますが、勝った側が生贄になったのか負けた側が生贄になったのかは現在でもはっきりとは解明されていません。
栄光の座を競う儀式であることから、生贄として太陽神に捧げられたのは勝った側であるという説が現在は有力視されています。生贄になることは名誉であり、天国の道が約束されるとされ、生贄を志願する者はたくさんいたと考えられています。
エル・カラコル(天文台)
旧チチェンにはスペイン語で「カタツムリ」を意味するエル・カラコルという天文台の遺跡があります。螺旋階段を持つこの建築物は、ドーム部に縦に細長い窓の作られた厚い壁があります。この窓の西側は春分の日の日没や月が最北端に沈む時の方向2つを確認できるようになっています。
太陽や月、金星の動きを観測し、災害の予測や儀式に使われたと考えられています。
マヤ文明は天文学にも高い知識を持っていたことがわかり、このエル・カラコルは新世界七不思議にも選ばれています。
太陽や月、金星の動きを観測し、災害の予測や儀式に使われたと考えられています。
マヤ文明は天文学にも高い知識を持っていたことがわかり、このエル・カラコルは新世界七不思議にも選ばれています。