日本史

日本史「藤原氏」繁栄の祖【藤原不比等】が築いた600年に渡る栄華の礎とは

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奈良時代に強大な政治権力を誇った豪族・藤原氏。その礎を作った『藤原不比等』という人物をご存知でしょうか。もちろん、日本史の教科書にもばっちり乗っている人物です。藤原氏の繁栄はこの不比等なくしてはあり得ませんでした。今回は、この『藤原不比等』について掘り下げてみたいと思います。

父親はあの人物!!藤原不比等と藤原氏一族

465年の6月、大和朝廷を揺るがす大クーデターが起こりました。朝廷内で大きな権力を持っていた豪族・蘇我入鹿が、中大兄皇子と中臣鎌足らによって誅殺された、世に言う「乙巳の変」です。読者の皆さんの中には「大化の改新」と習った世代も多いかもしれませんね。

中大兄皇子はのちに天智天皇となります。中臣鎌足も内臣(うちつおみ)という高い地位に就き、国政を担いました。

中臣鎌足は、最晩年、天武上皇より藤原姓を賜り「藤原鎌足」と変わりました。そんな藤原鎌足の次男が、今回ご紹介する【藤原不比等】その人です。

当時東アジア一の大国家である唐に習い、日本を中央集権的な国家にするべく政策を進める父の跡を継ぐように、不比等は持統朝において頭角を現し目覚ましい活躍を見せます。

天皇は飾り物?摂関政治のはじまり

不比等には、4人の妻がおりその子孫らは天皇家と深く混じり合いながら、絶対的な権力のもと藤原氏の発展に力を注いでいきます。

藤原不比等の息子、武智麻呂(むちまろ)、房前(ふささき)、宇合(うまかい)、麻呂(まろ)の四兄弟も政界内で力を持ち、それぞれ藤原南家(武智麻呂)、北家(房前)、宇合(式家)、麻呂(京家)の祖となりました。

また、娘の宮子は文武天皇の皇后となり、もう1人の娘、光明子は天武天皇の息子・聖武天皇の皇后となるなど、天皇家と姻戚関係を結んだ藤原不比等は、天皇の義父、天皇の祖父という立場で政治を主導していきます。政府内における藤原氏の存在はより大きなものへとなっていくのです。

この藤原四兄弟は、のちに天然痘で相次いで亡くなってしまうのですが、藤原北家・房前の子孫たちはその後も朝廷内で活躍を続けます。藤原房前から5代目の藤原良房という人物が皇族以外ではじめての「摂政」となり、その養子である基経も皇族以外初めての「関白」となりました。藤原不比等の時代より脈々と続く外戚作戦が大きな実を結んだのです。

天皇がまだ幼い場合、または女性の場合に代わりに政治を行うのが「摂政」で、天皇が大人になってからも政治を代行するのが「関白」です。藤原氏は天皇に娘を嫁がせることで次期天皇の外祖父となり、強い発言権と政治力を得ることに成功しました。以降、藤原氏の外祖父を持たない後三条天皇が即位(1068年)するころまでの長い間、不比等の描いた「藤原の世」は続いていくのです。

時代の大転換だった【大宝律令の制定】に参加

藤原不比等は、「大宝律令」の制定にも中心的人物として参加していたことが、知られています。

律令とは、「律=刑法」「令=政務一般」をさします。当時大帝国だった中国から輸入した最先端の国家統治システムの一環といってもよいでしょう。律令を整え、浸透させていくことで、朝廷は日本という強い統治国家を作り上げようとしていました。

不比等が手掛けた大宝律令は、律と令が揃って発布された日本で最初の法令です。

まだ倭国と称していた頃の日本は、朝鮮半島から大きな影響を受けながら形造られていました。百済とは友好的な関係にあり、新羅や高句麗などとも戦いや牽制を通しつつも進んだ文化を吸収していったのです。<

ところが300年ぶりに広大な中国を統一した「隋」が興ると、朝鮮ではなく中国の文化を重用する方針へと変わり始めました。不比等の生きた飛鳥・奈良時代には遣隋使や遣唐使が派遣され、政治や文化、芸術、生活面などでも中国風が主流となってきたのです。大宝律令は、中国・唐の律令を色濃く反映した法令となっています。このことは、朝鮮半島から中国へと模範とする国を大きく変えた日本の転換点だったことを表しています。

皇位継承の正当性をアピール【日本書紀の編纂】にかかわる

日本書紀は、日本で初めての国史とされている歴史書です。中国にならい統一国家を目指す日本にとって、正式な国史の存在は大変意味のあることでした。漢文で書かれた日本書紀には歴史と秩序のある国家であることを東アジアにアピールする目的と、皇位をめぐって天智天皇の息子・大友皇子と、天智天皇の弟(大海人皇子)が争った「壬申の乱」後、勝利した大海人皇子(=天武天皇)の即位と、行っている政治方針を正当化するという、二つの目的がありました。

天武天皇の頃から編纂が始まったものの、天武は完成を見ずに亡くなってしまいます。その後を皇后であった持統天皇が引き継ぎました。持統天皇の元で頭角を現し始めていた藤原不比等は、舎人親王らとともに編纂に関わったと言われています。

中大兄皇子(天智天皇)と中臣鎌足がクーデターにより、朝廷内で力を持つ豪族蘇我氏宗家を滅ぼした政権を握った「乙巳の変」は、全部で30巻ある日本書紀の1冊を丸々占めるほど丁寧に書き込まれています。また、天智天皇の政治においてマイナスポイントともいえる、大敗を喫した「白村江の戦い」についても肯定的に書かれています。

壬申の乱では、天智天皇が息子に託そうとした皇位を弟の大海人皇子が奪ってしまった形になり、天智と天武が対立して書かれてもおかしくはないのでしょうが、両天皇とも「律令国家をめざす」という目的は一緒です。また、天武の后であると同時に、天智の娘でもあった持統天皇と、中臣鎌足の息子である藤原不比等。それぞれ父親を正当化することで、自分もまたその子孫たちも政権の中枢にいるにふさわしい氏族であることをアピールしたのでした。

まとめ

奈良・平安時代の朝廷内において、栄華を極めた藤原氏。その礎を作ったのが不比等でした。同時に、強引ともいえる手腕が批判を呼んでいたのも事実のようです。藤原氏が全盛期を迎えるのは平安時代、不比等から数えて10代目の道長の頃です。藤原氏だけに注目して歴史を見直してみるのも、面白いことかもしれませんね。
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