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和同開珎は秩父で質の良い銅が産出された記念コイン?! 嬉しくて元号まで和銅元年に

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和同開珎を作ったのは誰?

「和同開珎」は、「わどうかいほう」または「わどうかいちん」と読みます。
なぜ2種類の読み方があるか、というと、「和同開珎」に使われた「珎」という文字が「珍」の略字なのか、「寳(宝)」の略字なのか、歴史資料からでははっきりしないのが理由です。
「和同開珎」を含む古代の自国通貨「皇道十二銭」は、一番最初に作られた「和同開珎」以外は全て「○○○寳」という名称なので、「わどうかいほう?」という説と、歴史資料の一節で「珎寳」と併記されているから「ほうほう、ということはないし、同じ漢字をわざわざ別の略字で使うこともないだろうから、ほうではなく、わどうかいちん?」という二説に分かれたまま、教科書でも「和同開珎(わどうかいほう・わどうかいちん)」と併記されているのがほとんどではないでしょうか。

「和同開珎」は、日本で最初に鋳造され、正式な貨幣として国家が流通させたコインです。
直径約2.4cm、丸い形のセンターには正方形の穴が空いている、「円形方孔」というデザインの祖は、唐の時代から約300年もの間、中国で流通していた「開元通宝(かいげんつうほう)」と言われています。
飛鳥時代から奈良時代に至る天平文化の土台を形成した、辣腕の女帝、元明天皇(げんめいてんのう)の命により、和銅元年(708年)に鋳造が始まりました。

和銅元年とは、平城京への遷都の詔が出された年でもあります。
文武天皇が整えた大宝律令を国の姿に合わせて運用し、古事記や風土記といった国史編纂にもかかわりの深かった元明天皇の、日本の律令制を動かすためのアイディアの一つが、自国で鋳造するオリジナル貨幣「和同開珎」だったのです。

権力者の象徴が、自国通貨

元明天皇の時代である8世紀のアジア情勢は、唐とイスラム帝国の勢いでアジア全体が活気づいていた華やかなものでした。
その残影は、奈良・東大寺の正倉院が「シルクロードの終着駅」と呼ばれていることからも明らかなように、日本の政治中枢にまでしっかり染み渡っていました。
東の唐と西のイスラム帝国は、当時最先端の技術と文化、政治システムを誇った先進国。
その間をシルクロード商人が行き来し、遠くエジプトやギリシャ、インドなどから唐を経て渡ってきた東西の美味しいところが交じり合った文化的価値の計り知れない人類の宝が、正倉院宝物殿には数多く眠っています。

アジアの発展を支えてきたのは、シルクロード商人たちの持っている荷物の価値を保証する「公平な枡・秤」や「誰にでも明瞭な法律」、「その法律や交易に関する証文を持ち運べる竹簡」、そして交易して得た利益をミニマムにして大量に祖国に運べる「信頼ある貨幣」でした。
移動する距離が長ければそれだけ、旅装は軽くしておきたい気持ちは、今も昔も同じです。
円形方孔コインは、このようにひとくくりにして持ち歩ける便利なアイテムでしたから、服の下に潜ませて、身に着けて簡単・安全に運べます。
律令政治の土台がしっかりしていればこそ、コイン一枚の価値が遠い国にまで保証され、信頼が寄せられれば、多くの商人や交易品が国に集まります。
自国の貨幣はつまり、諸外国からの信頼に足る国家になった証拠ともいえます。

国家の信頼=貨幣価値の安定

平城京遷都の詔とともに、「和同開珎」鋳造がスタートしたのは、偶然ではありません。
唐が興隆する理由を調べ上げ、その政治システムを学び続けた結果、律令政治を活き活きと躍動させる貨幣の存在に気づいたからではないでしょうか。
元明天皇の時代の日本は、すでに地方の特産品が数多く生まれていました。
織物や麦などを税として納めたり、市で販売するためには、いつまでも物々交換に頼らず、消費だけではなく保管もできる貨幣を発行することは必要なことでした。
そんな時、元明天皇にとってラッキーなことが起こりました。
貨幣を鋳造するのになくてはならない銅が、国内で発見されたのです。

秩父生まれの国産銅で作られた和同開珎

708年に元明天皇に献上された国産銅は、埼玉県秩父市(当時:武蔵国秩父郡)で採掘されたものです。
あまりのタイミングの良さとその銅の質の良さ、嬉しさからか、時の王朝の興奮の度合いは、年号を「和銅」と改元してしまったことからもうかがえます。
そして鋳造された「和同開珎」でしたが、当時の民がまだ物々交換の方に慣れていたためにあまり普及せず、いわば現代の2000円札のような「なんとなく使いづらい」貨幣に……。
このままではせっかくの「和同開珎」システムが破綻する、と思った王朝は、「和同開珎」が使いたくなるような特例(冠位が簡単にもらえるなど)や官僚の給料を「和同開珎」支払いにしたり、色々とセールスをしかけたものの、「和同開珎」自体の出来がまだ悪くコピーしやすかったため、逆に経済が混乱……。
貨幣価値の下落を防ごうと、「和同開珎」を取りやめて「萬年通寳」という貨幣に一新しても、その都度同じような混乱がおき、結果「皇道十二銭」はことごとくコケてしまい、「乾元大寳」(958年)を最後に、「国内鋳造貨幣、もうやめましょうか」という雰囲気になったのか、国内貨幣の供給はストップしてしまいました。
これほど難しい貨幣システムを何百年も維持した唐は、やはりとてつもない国家だったのだと痛感します。

和同開珎が祭られた『聖神社』で金運上昇祈願はいかが?

元号を変えてしまうほど盛り上がった国産銅の発掘現場が、今もなお遺跡として残っています。
埼玉県秩父市にある「和銅遺跡(和銅採掘露天掘跡)」そして「聖神社」です。
「秩父のパワースポット」として有名なこの2箇所は、金運上昇のご利益があると評判で、中でも「聖神社」は、山に分け入った先にあるひっそりと小さめな神社ながらも、宝くじ必勝祈願などで訪れる人が絶えません。
無料駐車場に車を置き、「聖神社」で参拝し、金運グッズをゲットした後に、そのまま先に進むと「和銅遺跡」があります。
細い山道を歩くコースなので、スニーカーなど、足を痛めない服装で行くことをおすすめします。
元明天皇に献上され、日本独自の貨幣が誕生したきっかけとなった和銅産出の地には、大きな「和同開珎」のモニュメントが、訪れる人を待っています。

聖神社
・ 住所:埼玉県秩父市黒谷2191
・ 最寄り駅:和銅黒谷駅

和同開珎誕生の熱気と平城京の夢

戦乱の種を摘み、政治の腐敗を防ぎ、善政しやすいシステムを作ることが、「壬申の乱」という血なまぐさい天皇家の内乱を経験した元明天皇の天命だったのかもしれません。
天智天皇の皇女で持統天皇の異母妹、そして先代・文武天皇の母という数奇な運命を持った元明天皇が抱いた平城京の夢は、唐の長安を見本にした政治システムを日本に定着させることで、その大切な切り札として、朝廷認可の「和同開珎」が日本経済の血液として循環することを願ったのではないでしょうか。
ひとりの高貴で悲しい女性の夢が生まれた和銅の産地に、ぜひ足を運んでください。

和同開珎の「わどう」とは元号だった!和銅年間に起こったできごと

日本ではじめての流通貨幣とされる、和同開珎(わどうかいちん・わどうかいほう)。
奈良時代の当時、貴族を中心とした「中央集権の律令国家」をめざした日本は、その政策の一環として国内外で通用する貨幣を必要としていました。産業の発展や流通にともなって、従来の価値のあいまいな物々交換よりも、銭貨による「価値の統一」を目指したのです。

618年、中国大陸では随を滅ぼした「唐」が中国統一をはたし、広大な地域を支配下におさめました。その強大な勢力は、ほかのアジア諸国にも大きな影響をもたらし、日本にも交易を通じてさまざまな制度や思想、文化や技術などが輸入されています。
遣唐使が盛んに行き来し、まさに世は唐風ブーム。有名な大宝律令などに始まる「律令制の導入」をはじめとし、唐の都・長安を模倣した都の造営や国史の編纂、統治領域の拡大など、唐を参考にした国家組織作りが推し進められました。

言霊の国日本。元号に言祝ぎをこめて

和同開珎が鋳造されたのは、708年の和銅元年。武蔵の国から朝廷へニギアカガネ=和銅が献上されたとあります(続日本紀)。朝廷はそのことを祝い、元号を『和銅』と改めました。これが鋳造した銭貨「和同開珎」の名の由来ともなっています。

鉱物資源の発見は、国家の力=財力と密接にかかわっていました。田畑を耕すための鉄製の農具は生産性と税収を増やしますし、寺院や仏像の素材や塗料、武具、銭貨、と鉱物はまさに利の多い資源。朝廷が発見を喜ぶのも頷けます。

「おめでたいことがあった」という理由で元号を変えることが、この時代には良くあったようで、和銅以外でも、鉱物の発見・朝廷への献上が由来の元号はほかにもあります。

例えば、大宝律令で有名な「大宝」の元号は、対馬からの金の献上があったことを祝って、また3ヶ月しか使われなかった天平感宝という元号は、陸奥からの金の献上があったことを祝って付けられたと言います。

現在のように新しい天皇の即位にともない元号も新しくなる、という形式になったのは、明治以降になってから。それまでは、随意に元号を変えることができていました。

さて、和銅という元号の期間はどれくらいかと言いますと、708年から715年の7年間を指します。そのあいだには、和銅元年の「和同開珎の鋳造」以外にも、現代においても有名なできごとがいくつか起こっています。

和銅3年『平城京遷都』

受験から遠ざかってしまったオトナ世代でも、「なんと(710)ステキな平城京」というゴロ合わせは覚えている方が多いのではないでしょうか。

710年は和銅3年にあたります。これより以前は政治の中心が奈良盆地南側の飛鳥・藤原の地にありましたが、同じく奈良盆地でも北側の平城京に遷都してから、私たちが歴史の授業で習う「奈良時代」が始まったとされています。奈良時代は、その後794年に平安京に遷都するまでのあいだ約80年間続き、華やかな、また仏教色の強い唐風の文化が特徴的です。

平城京は、唐の長安をモデルにしており、碁盤の目のように整然と並んだ区画が整備された都市でした。中央を貫く朱雀大路により、右京と左京に分けられ、北端中央には天皇の住居「内裏」や各政務や儀式の場である「大極殿」や「朝堂院」、またさまざまな官庁地区が配されていました。

和銅5年『古事記の完成』

これまた有名な『古事記』も和銅5年に完成しました。

律令制・中央集権の導入により、組織や制度ができあがっていく中で、日本各地の統治管理の必要性も生じてきます。それまではそれぞれの地域ごとに地を治める首長がいて、自治を行ってきましたが、朝廷に力と財を集中させるには、自治を認めず、運営管理は中央で行うようにするのが必須。当然反発がおきますが、朝廷は武力で平定するだけでなく、思想面でも朝廷に従わせるためには、「朝廷による統治に正当性を」持たせる必要があると考えました。そのため、国の成り立ちを神話や伝説をもとに天皇を中心とした物語を「国史」として編纂することが盛んになったのです。

『古事記』は、天地の始まりや国生み、神様が地上統治のために子孫を遣わしたとする神話「天孫降臨」、神武天皇やヤマトタケルの地方征討征などが描かれています。それらの物語により神話の神々の子孫が天皇の系譜であり、天皇を擁する朝廷こそ国を治めるにふさわしいと、位置づけたのです。

和銅6年『風土記の編纂の命が下る』

朝廷による支配が進む中、中央編纂の歴史書のみならず、その地方の産物や土地・河川・山・原などの名前の由来、古老の語る伝承・口承などをまとめた、いわゆる地方誌の編纂の命が、和銅6年日本諸国に出されました。これが『風土記』です。

現在、伝えられているものは「出雲」「播磨」「豊後」「常陸」「肥前」の五国で、その中でも完全に近い形で残っているものが「出雲国風土記」です。当時の出雲を、日本を知ることができる、日本古代史の貴重な資料として大切にされています。

江戸時代の古銭コレクターにも人気!日本初の流通貨幣【和同開珎】の鋳造方法

日本で初めての流通貨幣として知られているのが「和同開珎」です。和同開珎が発行されたのは、708年(和銅元年)のこと。実に今から1300年以上も前のことです。 和同開珎は現代でもコレクションをしている人がいるのですが、1300年も以前にできたものが同じような状態のまま現存しているとは・・・。この世の生あるものすべてと比べても金属の耐久性はものすごいものがありますね。

和同開珎はその名からも連想されますが、これまで輸入に頼っていた銅が自国で発見されたことを記念して名前が付けられたとも言われています。日本独自の流通貨幣が生産されたので、材料を輸入するためのお金が海外に流れませんし、物々交換が主だった社会にとっては、「価値の基準」ができます。管理や蓄財も可能となる、画期的なシステムでした。

今回は、そんな和同開珎がどのように製造され流通していったかを探ってみたいと思います。

銭貨を作る役所があった!

さて、当時、銭貨は鋳銭司(じゅせんし)と呼ばれる、専門の役所で作られていました。
和同開珎が日本初の流通銭貨とご紹介しましたが、流通したかどうかを別とするなら「富本銭」という銭貨が先に製造されていました。また、銭貨だけではなくガラスや仏像、金銀や瓦などのさまざまな種類の手工業の工房をまとめ官営していた跡が、奈良県飛鳥池遺跡などから発見されています。ほかにも、長門(ながと・現山口県西部)、山城(やましろ・京都府南部)、周防(すおう・山口県東南部)などからは、銭貨を製造していた工房の史跡が発掘されています。

金属加工の「鋳造」とは

一般的に金属は高温で溶け、冷えるとそのままの形に固まります。再び高温で熱せられるまで同じ形を保つ性質があります。
「鋳造(ちゅうぞう)」とは溶かした金属を作りたい形の鋳型(いがた)に流し入れ、器物を作る技術のことです。鋳造は、鋳型さえ作れば低コストで大量生産もでき、また大きさを問いませんし、中空部や繊細な装飾を作るのも容易です。そのため鋳造の技術は古く、紀元前4000年、メソポタミア文明の頃までさかのぼることができます。

鋳造と対を成すような金属加工の技術に「鍛造(たんぞう)」があります。こちらも鋳造と同様古い歴史があります。鍛造はその名の通り熱した金属を叩いて鍛え強度を出します。繊細な加工には向かないものの農機具や武器、調理器具などの、「強い力を加えて使用する器物」を作る時に使われる技術です。熱しては叩くことを繰り返すことで金属の組織の方向が揃い、壊れにくい丈夫な金属となるのです。

和同開珎などの銭貨の作る工程

長門鋳銭司跡であったとされる山口県下関市の覚苑寺には、和同開珎の鋳造について書かれた資料があります。
それでは、朝廷や鋳銭司で行われたとされる銅貨の作り方を、順を追ってご紹介しましょう。

1.文章博士(思想、文学や史学に秀でた官僚)が「銭文」という銅銭の文字デザインを決める

2.書の名人にいろいろなフォントで試し書きさせ、書体を決定する

3.原型となる銭を作って各地の鋳銭司に送る。鋳銭司では、原型をもとに複製や銭もととなる種銭を複数作成する

4.種銭をもとに表、裏の鋳型を作る

5.表と裏の鋳型をずれないようにしっかりと合わせその中に溶かした銅を流し込み、冷やす

6.しっかりと冷めたら鋳型を外したら個々に切り離し、やすりなどで削ってかたちを整えて完成

いかがでしょうか。ちょっと自分でも作ってみたくなりませんか?専門的な道具も必要になりますが、地域によっては町おこしや地域交流の一環として古銭作りを体験できるワークショップも開催されているようです。機会があれば挑戦してみたいですね!

古銭コレクターが出現したのは江戸時代

時代の移り変わりや戦争などで、壊されたり失くしたりあるいは海外に流出したりと、多くの歴史的価値のあるものが失われてきました。

古銭においては、政府や時代が変わると金銭としての価値がなくなってしまうのですが、ここで登場するのが古銭コレクターの方々です。「古銭を収集する」というジャンルが登場したのは江戸時代。江戸時代の中期ごろから古銭収集がブームになり、収集家用の図鑑「銭譜」が刊行されました。有名なところでいうと寛政10年の「和漢古今泉貨鑑」や元禄7年の「和漢古今寳銭図鑑」でしょうか。

先出の「富本銭」は江戸当時、まじない用の「厭勝銭」として扱われており、一方の和同開珎は「最古の貨幣」として大変な人気を博していたそうです。

古銭収集を金持ちの道楽と侮るなかれ。彼らのおかげで貴重な歴史的価値のある古銭が保存されているのです。現代でも博物館などで展示される古銭の多くは、コレクターたちが大切にしてきたものだそうです。

古銭の中でも希少価値の高い和同開珎。状態の良い和同開珎であれば、なんと100万円もの値がつくこともあるそうですよ!
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