日本史

将軍様からの無理難題?大事にするのは犬だけではなかった「生類憐みの令」

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徳川幕府5代将軍・徳川綱吉は「犬公方・お犬様」との別称からも分かるように、悪名高き「生類憐みの令」を出した人物です。

生類憐みの令が出された理由には、子宝に恵まれない徳川綱吉が「殺生を慎むように」と僧に言われたためという説や、綱吉の干支が犬だったため特に犬が保護されたという説など、さまざまあると言われていますが、実のところは荒んだ世を正すという意図もあったようです。

綱吉が将軍職を継いだのは1646年。天下分け目の関ヶ原からは50年と経っていません。そのため、下克上がまかり通っていた戦国時代の風潮が未だ屈折し残っていました。命を惜しまず武功を上げ名を馳せたい、武力によって上にのし上がろう、という価値観を持った多くの武士たちが、「無頼者」「傾奇者」としてくすぶっていたのです。綱吉はこれを権力によって弾圧し、その多くを検挙しました。そして出されたのがこの生類憐みの令です。

この法令は「1度のお触書」ではなく、実は何度も発布された法令の総称です。1687年に発布されてから22年の間に、135回も発布を繰り返したとも言われており、この回数を見るとなかなか法令が浸透していかなかったことが伺えますね。

生類憐みの令の原文を見ると、「生類」の対象は犬だけではなく牛馬や猫、魚介類や鳥類、小さな虫までもがその対象です。また、捨て子や捨て病人の禁止、行き倒れた人の保護なども謳われており、仏教で言うところの「放生」の考えに基づいた弱者に対する慈愛の目が感じられます。

しかし、目指したものは良しとしても政策としては偏った面も多く、武士や町民・農民などの大部分の人々にとってみれば大きな負担となりました。江戸では、中野・大久保・四谷などに大きな犬小屋が作られています。設営予定地の住民は強制的に立ち退きをしなければならなかったし、飼育料の負担は江戸の町民や関東の農民たちに課せられたと言います。過剰な動物愛護の政策は人々を苦しめ、その結果後世まで悪評が残りました。

生類憐みの令による処罰者は、将軍綱吉が亡くなってその効力がなくまるまでの間に70人余り。鳥の巣があった木を切ったために村民が処罰を受けるということもあったようですし、流罪や閉門、中には死罪という重い罰を受けた人もいました。

民を苦しめる愚君なのか、はたまた慈悲深い将軍なのか、徳川綱吉の評価が分かれるところです。
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