西洋画

名作を遺し続けた、大芸術家ミケランジェロの人生

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世界的に知られている大芸術家の一人といえば、「ミケランジェロ・ブオナローティ」でしょう。イタリアのルネサンス期に多大なる影響を与えた、イタリア芸術史上、最も重要な芸術家です。

ミケランジェロ・ブオナローティは、大抵の場合はミケランジェロと呼ばれており、絵画はもちろん、彫刻や建築家など多種多様な顔を持つ天才肌と言われていた人物として知られています。

さて、そんな偉大なる芸術家であるミケランジェロ・ブオナローティなのですが、その人生についてはなかなか知る機会が無い、というところが実態でしょう。今回、ここでは世紀の大芸術家、ミケランジェロの人生などについて紹介していきます。ぜひ、参考にしてみてください。

幼少のミケランジェロ

ミケランジェロは、イタリアのトスカーナ州にほど近い、フィレンツェ共和国のカプレーゼの生まれです。実は、ミケランジェロの生家は代々銀行家として財をなしていた会計であり、大変裕福な人生を約束された、そんな幼少期を過ごすはずでした。

しかし、小さな銀行業を営んでいながらも、父親となるルドヴィーコ・ディ・レオナルド・ディ・ブオナローティ・シモーニが銀行経営に大失敗してしまい、破産寸前に。しかし、結果的に政府の臨時職員としてようやく食いつなげていける、そんな生活となってしまったのです。

しかしながら、ミケランジェロが生まれた当時は、キウージの首席行政官として働いており、また母親はかの有名なトスカーナ女伯マティルデ・ディ・カノッサの末裔として知られる人物でした。しかし、結果的にこれも本当か嘘かわからない情報だったと言われています。

ミケランジェロの幼少期は、トスカーナではなくフィレンツェで送っていたと言われており、わずか6歳の頃には母であるフランチェスカ・ディ・ネリ・デル・ミニアート・シエーナが死去しているようです。

この頃、ミケランジェロは石工の一家と共同生活をしていたと言われており、父親はこの地で大理石採石場や農園を切り盛りしていました。この経験こそ、後のミケランジェロの芸術へと繋がっていく、と本人も語っているといわれています。

弟子入りから転機

ミケランジェロは、人文主義者であるフランチェスコ・ダ・ウルビーノという人物のもとに、送られているようですが、さほど学問に興味を示すことはなく、装飾絵画、模写などを行う画家との交流を盛んに行うようになります。

結果、画家ドメニコ・ギルランダイオに弟子入りをすることになり、14歳という若さで既に一人前の画家としてみとめられることになります。そして、その後優れた人物であると認められたことからも、ベルトルド・ディ・ジョヴァンニという彫刻家のもとに送り込まれ、『ケンタウロスの戦い』などの作品を遺しました。

当時、ミケランジェロは、ロレンツォ・デ・メディチという人物の後援で制作活動をしていたのですが、その死去後、父親の元に戻り新しい人生がスタートします。

メディチ家からローマへ

ミケランジェロは、父親の元に戻った頃に、木彫の『キリスト磔刑像』という作品を制作するなど、精力的に芸術活動を続けます。
そんなある日、メディチ家の後継者であるピエロ・ディ・ロレンツォ・デ・メディチから依頼が舞い込み、またもメディチ家に迎え入れられます。
ただし、当時のフィレンツェの情勢はミケランジェロに不利なものであり、さまざまな苦労をするようですが、結果的に枢機卿ラファエーレ・リアーリオによってローマに招かれることになります。ミケランジェロ、21歳の頃の話です。

数々の名作が生まれた

ローマに招聘されたミケランジェロですが、『バッカス像』などの制作に入ることとなります。そして、教皇庁のフランス大使からの依頼で、かの『ピエタ』を制作しています。

彫刻作品の限界を超えていると言われたこの作品は、サン・ピエトロ大聖堂に今でも大切に保管されています。

また、この頃にミケランジェロが制作している作品のひとつに、『マンチェスターの聖母』というものがありますが、これもミケランジェロのローマ時代につくられた物であると知られており、異論はありますが、未だに名作として世界的に有名な作品のひとつとされているようです。

ダヴィデ像の制作

ダヴィデ像は、ヴェッキオ宮殿に面したシニョリーア広場という場所に設置する目的で、ミケランジェロに依頼がきたもとして知られています。

1504年に完成したこの作品ですが、大理石を使った作品でありながらも、躍動感に溢れており、まさにミケランジェロの非凡な才能が十二分にわかるものだとして、世界的に大変重要な作品として知られています。

ローマ時代にミケランジェロが生み出した作品には、ほかに円形の絵画『聖家族』といったような、名作もあり、この時代のミケランジェロの制作した作品は、今もなお我々に多大な影響を与えることがわかっているのです。

最後の審判

当時、ミケランジェロを取り巻く環境はめまぐるしいものでした。メディチ家とローマ教皇との関係性も日々大きく変化していき、そのメディチ公爵家のフィレンツェ施政が非常に厳しいものだったことからも、弟子を遺してミケランジェロもフィレンツェを離れていた、というものでした。

そして、その後、ローマ教皇クレメンス7世の注文でミケランジェロに依頼されたのが、フレスコで描かれた『最後の審判』です。

誰もが知る、世界でも5本の指に入る名作ではありますが、ユリウス2世の霊廟制作に集中したいために、当時はこの制作を頓挫させていた、ということで知られています。しかし、ローマ教皇パウルス3世などからの熱い要望を受け、中断していた『最後の審判』の制作を続けた、というエピソードが知られています。

結果、1534年から1541年という長い年月をかけてこの壁画の制作に従事し、1370cm×1200cmという驚くほどの大きな作品として今でも多くの芸術家たちに影響を与えています。

さまざまな疑惑と晩年

『最後の審判』を素晴らしい形で制作したミケランジェロでしたが、当時は裸体などが不道徳であるという批判を受ける時代だったために、わいせつ美術の考案者などという不名誉な言われを受けることとなりました。

「イチジクの葉運動」という、局部などを見せることが不道徳である、というような風潮がつくられたのは、まさにミケランジェロの作品が発端となっている、ということで知られており、社会的な活動にも多大なる影響を与えていたことがわかっています。

かの有名な、大理石彫刻『ミネルヴァのキリスト」という作品に関しても、下半身部分に布がかけられており、今もまだその状態で遺されていることがわかっています。

晩年のミケランジェロは、ヴァチカンのサン・ピエトロ大聖堂改築の改装などを託され、それらを手掛けていたのですが、結果的に最終的な完成を見ることは無くこの世を去っています。享年88歳でした。

さまざまな思い出が詰まっているフィレンツェでこの世を去ることを遺言に遺していたミケランジェロは、結果的にローマからフェレンツェへ遺体が運ばれ、サンタ・クローチェ聖堂に埋葬されました。

ミケランジェロという大芸術家

ミケランジェロは、青年期から才能を発揮し、そしてその才能を認めた世の権力者たちから多大なる信頼を得ていた、まさに大芸術家です。
今もなお、多くの名作が残されており、我々を知の冒険へ誘います。
ぜひ、一度はその目で本物を見ておくことをおすすめします。
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