西洋画

ゴッホの絵は生涯で1枚しか売れなかった? 売るためでない絵を描き続けた画家の生き様

関連キーワード

世界で最も名が知られている印象派の画家のひとりといえば、間違いなくフィンセント・ファン・ゴッホでしょう。
ゴッホは、オランダ出身の画家であり、さまざまな名作を世の残しています。
非常に波瀾万丈の人生であったとして知られており、パリ時代、アルル時代など、さまざまな時代を駆け抜けながら印象派の大家として走り続けました。
今回、ここではゴッホの人生を振り返りたいと思います。

ゴッホの幼少時代

ゴッホが生まれたのは、1853年。オランダの南部の牧師の家に生まれています。父ドルスは、オランダ改革派の牧師であったことからも、非常に高名な人物であったといわれています。ゴッホは幼いころから癇癪もちであったことからも、非常に取扱が難しい子どもであると家族や浸漬中で話題となっていたようです。

落ち着きが無く、自由に独りで遠出をしてしまうところもあり、学校に通っても長続きせず、結果的には家庭教師の指導を受けて勉学へと励みました。この頃、11歳のゴッホは父親の誕生日に向けて「農場の家と納屋」という作品を創作しています。正式に販売されていることはありませんが、非常に優れた絵画であり、このあたりから片鱗を見せ始めているといわれています。

その後、国立高等市民学校でウィレム2世校に入学しており、ゴッホ屋はコンスタント=コルネーリス・ハイスマンスという画家が先生であったことからも、絵画を習っています。

しかしながら、親元を離れてこの学校に入学したものの、1年足らずでゴッホ屋はこの学校をやめています。その後、親戚の助力などにより、画商グーピル商会のハーグ支店の店員になります。

この頃、マウリッツハイス美術館に通っては、さまざまな古典絵画に触れており、徐々に絵画の世界へとのめり込んで行きます。仕事ぶりも熱心であったことから、ロンドン支店に配属になるなど、ゴッホ屋は期待される存在となっていきました。

苦悩の日々のはじまり

ゴッホは、一人で妄想をしたり、片思いをしたり、被害妄想を感じたりと、精神的に非常に落ち着かない人物であったことが分かっています。一見、外から見ると美術商グーピル商会で成功を収めたように見えますが、さまざまなトラブルを引き起こしていたようです。

ロンドンでは、下宿先の娘ウルスラに恋をしますが失恋し、それに立ち直れないために、パリ支店へと飛ばされます。さらに、絵画への知識が深まって行くほどに、客に勧められない絵は購入しない方が良いとか、勝手に重要な時期に会社を休んでしまうなど、自由奔放過ぎる働きぶりに結果、首になってしまうのです。

無職となったゴッホは、その後に英国の小学校教師として働きはじめます。非常に貧しい子どもたちがいることも知り、副説教師の職にもつき、人道支援的な活動をしていくことも心に決めます。教員職を辞めた後にはドルトレヒトの書店に入るのですが、4ヶ月で辞めます。

キリスト教へ強い心を持ちますが、結果的には神学校では語学教科のギリシャ語で挫折してしまい、また辞めてしまいます。ブリュッセルの伝道師養成学校に入るものの、その研修期間が終了後もその資格を付与されることはなく、結果的に仕事を指してボリナージュ炭鉱地帯へと向かうのです。ここで、半年間だけは伝道師として認められます。

ただし、あまりにも過剰に仕事をしていたこともあり、伝道師を逸脱してしまうほどの熱の入れようが、聖職者の権威を傷つけると判断され延期はされまず、またも無職となってしまいます。右往左往を続けた、迷いに満ちたゴッホの辛い時期であるといわれている時代の話しです。

画家としての人生

伝導師として自信は努力を重ね、自らの住まいや衣類などもみすぼらしく、全てを人々のためにと行ってきたゴッホ。その思いが通じず、打ちひしがれていたのか、頻繁に連絡を取り合っていた人部とも9ヶ月ほど音信不通となってしまいます。

そして、その頃、ゴッホの心をすくってくれたのが絵画でした。1880年頃には絵描きを目指すということを手紙で伝えており、ここから新たな人生をスタートさせることとなります。ちなみに、手紙を送っていた相手は弟のテオという人物であり、絵画に目覚めて必死にデッサンを描き続ける兄を助けるために、仕送りをはじめます。

この頃、テオが仕送りをしていることを、父親から受け取った金をゴッホ自身に送っていると勘違いしており、常に貧しい生活をしているようなアピールをしたり、テオからの返信が滞っていた時には、手紙をやり取りすると金の無心をすると思われていることを皮肉ったりと、やや精神的にもまだ不安定であったことが伺えます。

しかしながら、テオが自腹でお金を送っていることが分かった後は心を入れ替え、自らが描いた作品を送っていたといわれています。そして、独学を経たゴッホはさらに本格的に画家になるために、ブリュッセルの美術学校で遠近法と解剖学を学ぶようになったのです。

ゴッホが絵描きとして認められる時

その後、ゴッホが真面目に生きることができたということはなく、再三トラブルを起こし、両親、家族なども傷つけて行きます。

さらに、農民を描いていた頃には、女性に惚れられるのですが、経済面から双方の両親に反対され、女性は服毒自殺をしています。数多くの修羅場をくぐってきたゴッホですが、絵だけは辞めていませんでした。そして、「じゃがいも(馬鈴薯)を食べる人々」という作品を生み出し、ハーグの画材店がその絵を飾ります。

画家として他人に認められたゴッホは、そのあとベルギーのアントワープで日本の浮世絵に出会い、衝撃を受け強く影響されます。

その後、パリへ渡り、弟テオの家に転がりこみますが、この頃から明るい色調の絵画を描くようになります。自画像を多く描き、さらにはタンギー爺さんという作品は、バックに日本画が多く飾ってある有名作品として知られています。その後、日本画の展覧会などを開くなど、ゴッホは人生に光を見いだし始めました。

ゴーギャンとの出会い

ゴッホは、ロートレックやベルナールらとグループ展を開催しますが、そこに訪れたゴーギャンが、ゴッホのひまわりを見てえらく感激し、自分の絵と交換してほしいと催促。ここから、二人の友情がスタートします。一見、順調に見える大都会の暮らしですが、ゴッホはアルコールに溺れ、その息苦しさから弟テオと何度も衝突します。

しかし、辛いながらもテオは兄の才能を信じていたこともあり、互いにこれではいけないと思いながらも生活を続けていたのです。その後、温かく太陽が照りつける南仏のアルルへと向かい、さまざまな絵画を描きます。アルルにて、ゴッホは黄色い色という小さな家を借り、そこに友人芸術家たちを呼び集めた芸術村構想を思いつきます。

ゴーギャンを呼び寄せ、彼の部屋にはひまわりの絵画をしきつめ、熱烈な歓迎をすることとなります。しかし、初期は和気あいあいとしていたものの、双方に個性が強く、結果的にゴーギャンがここを去るという選択をしはじめます。

そして、弟テオが婚約をしたこともゴッホは知り、その虚無感に悩まされることとなっていくのです。そして、ゴーギャンとの共同生活の9週目に、その生活は破綻を迎えます。

ゴッホは、カミソリでゴーギャンを襲ったのですが、睨み返され自らの耳を切り落とします。さらに、この耳を愛人に届けたいというなど、ゴッホは精神的錯乱状態に入り、結果、ゴーギャンはパリへ、ゴッホは病院へと大きく人生が分かれてしまうのです。

その後、ゴッホは住民たちから狂人として恐れられることとなり、彼を病院へ収容するように、警察へ嘆願書の署名を提出。結果、病院送りにされます。そして、その後にテオが結婚したため彼を頼ることはできず、さらには癇癪を起こすことを自ら不安に思い、精神病院に自ら入ります。

精神状態の不安定さ

医師にアトリエへ入ることを許された後も、テオに子どもができたことを知り、不安になり半狂乱になったり、ふと襲ってくる恐怖に耐えることができず絵の具を食べたり、ランプの油を飲んだりと、ゴッホは非常に厳しい精神状態のままで生き流れていきます。僅かな時間だけが彼の創作時間ではありましたが、この頃に『糸杉のある麦畑』『アイリス』などの名作を生み出しています。

ゴッホという人物の評価

『赤い葡萄畑』が、その後のグループ展に出店された時、初めてゴッホの作品が生まれます。そして、その後のパリの『アンデパンダン展』では、ゴッホ屋の作品が高い評価を得るようになったのです。さらに、テオは兄ゴッホを自宅へと呼びつけ、子ども見せたり、オーヴェールの精神病へと移り住んだゴッホが呼び寄せたりと、幸せで穏やかな生活が続きます。

ゴッホの最後

しかし、とある日に印象派の画商として独立したいというテオの意見で夫婦喧嘩が始まり、それに自分がテオの生活を困窮させているとゴッホは思い悩みます。そして、ピストルで自らを打ち抜きますが、急所を外れ、その後に当時住んでいた屋根裏部屋でテオの看取られて絶命しました。

しかし、その後にテオの努力や周囲の人々はゴッホの描く絵画の素晴らしさに魅力され、絵が売れて行きます。

しかし、テオの画商として上司を大げんかをして退職。最愛の兄として慕ってきたゴッホが亡くなってしまった今、生きる活力を見いだせず、結果的に衰弱をしてしまい、33歳という若さで絶命してしまうのです。

ゴッホという生きる芸術

ゴッホは、自分の人生の全てをかけて芸術を貫いていった、孤高の画家です。
芸術のために生きるとはいえど、多くの人々は自らの生活があり、さらには世間体などもあるでしょう。
しかしながら、ゴッホは狂人として世間から虐げられていたのにも関わらず、それを悩み、苦しみながらも芸術へとその思いを昇華させ、我々の生活にかけがえの無い作品を多く残しました。まさに、人生全てが芸術家である、という言葉が似合う人物であったのです。

ゴッホの人生を語る代表作たち

孤高の天才画家として知られるゴッホ。印象派の代表的な存在でもある彼なのですが、生きていた頃に売れた絵は何と1枚しかなかったということでも、話題となっている人物でした。ゴッホは、孤独と焦燥感のなかで生き抜き、弟の支援のもとで絵画生活を続けてきました。

そして、精神的な病に苦しみながら、友人を失い、最後は自ら命を絶つという壮絶な人生を送ってきた人物です。死後、数多く作品を残したゴッホの才能が認められることとなり、現在では世界でも指折りの大芸術家のひとりとして数えられています。今回、ここではゴッホの代表作を解説を交えながら紹介していきます。

ひまわり

ゴッホといえば、ひまわりをモチーフに描いた作品が最も有名です。しかしながら、このひまわりの絵はゴッホの作品のなかではとても数が多く、モネの睡蓮のように、ゴッホ屋が愛し憧れ続けたモチーフであったと語られています。

特に、もっとも有名なのは1888年に描かれた花瓶に入っているシンプルなひまわりの作品です。パリで弟の家の一画を借りて制作活動を続けていたゴッホですが、パリの陰鬱さと刺激の多さに精神状態が錯乱し、南仏へと逃げて行きます。

南仏においても後に大きな事件を起こしてしまうのですが、それまでの平和な時間が彼の心を癒し励ましてくれました。その頃に描かれた作品が、このひまわりなのです。オレンジを中心とした鮮やかで暖かみのある色使い、そして一瞬ではありますが、明るく華やかな印象を与える作品となっています。

しかしながら、このひまわりを良く観察してみると、ところどころひまわりの花は萎れており、物悲しく、心のなかでさまざまな気持ちが錯綜しているようにも見えます。

色使いやモチーフがキレイということに惑わされがちなのですが、こういった明るいイメージの作品のなかに、ゴッホが抱えていた苦悩が隠れているという批評家も多いようです。

ジャガイモを食べる人々

ゴッホが最初にしっかりと書き上げたといわれているのが、ジャガイモを食べる人々という作品です。ゴッホは、さまざまな職を転々としながら、なかなか馴染むことができずに辛い日々を送っていました。

農場に住み込みで働きながら、彼らの絵を描き続けていた時期があり、そんな農民たちの質素な生活風景を描写した作品が、このジャガイモを食べる人々という作品となっています。

乏しい明かりのなかで、数少ない食料であるジャガイモを食べる農民の人々の表情や佇まい、そして何ら変わることの無い毎日への辛さを隠すように、光にあたったジャガイモを食べることに集中している農民たち。

ゴッホは、キリスト教の教育を受け、さらには聖教者として生きようと炭坑で働いていた時、あまりにも自らを犠牲に鉱夫たちに接してしまっため、聖教者たちから批判を受けて首になっている思い出があります。ゴッホは、辛い境遇の人たちの何かを助けたく、さらにはその気持ちを絵に込めて訴えていきたかったのではないかといわれています。

夜のカフェテラス

ゴッホの人生の中において、最も精神的に落ち着いていた時期に描かれた作品といわれているのが、この夜のカフェテラスという作品です。これは、南仏にいた頃に描かれており、親友であったゴーギャンがやってくる前に描かれています。

空には大きな星がきらめいており、明るく光が灯るカフェテラス。そして夜の街に楽しそうに歩きながら周囲を見ている人たち。全てが当たり前の風景であり、幸せに満ちており、ゴッホが望んだ世界が描かれている心温まる作品として有名です。

ゴッホは、南仏の家を借りてそこを黄色に塗り、芸術家を集めて芸術村を作ろうという試みをこの時にもっていました。知り合いの芸術家に声をかけたのですが、ゴッホ屋の考え方に賛同するものはおらず、人はなかなか訪れません。

そんななか、ゴッホの実力を認めていたゴーギャンだけは、ゴッホ屋の誘いに乗ってこの地を訪れることとなります。

そして、そのことに喜んだゴッホは、彼の住まう部屋をゴーギャンが好きといっていたひまりわの絵で埋め尽くし、彼の到着を心から待ちわびていたといわれています。その前に描かれているのが、夜のカフェテラスという作品ですので、ゴッホがまさに夢と希望に満ちあふれた、そんな状況で生まれた作品といって過言ではないでしょう。

花咲くアーモンドの枝

ゴッホは、さまざまな風景を描いてきた芸術家ですが、花咲くアーモンドの枝はそのなかでも大変有名な作品として知られています。ゴッホは、芸術家を志す頃から、弟であったテオに大変に世話になっています。

もともと、職に安定して就いているわけではないゴッホだったので、経済的には困窮しており、絵画が売れているわけではないのでパトロンは誰ひとりついていませんでした。その彼を支えたのが、弟のテオだったのです。

衝突をしながらも、二人は愛し合い、信じ合ってきていたのですが、とある日にテオが結婚し、さらにテオの妻が妊娠したという知らせをゴッホは受けます。当初、ゴッホはテオが結婚したことで迷惑をかけれられなくなると思い、打ちひしがれていたのですが、子どもが誕生したことでよりテオが自らのもとを離れて行くという、そういった気持ちになってしまっていたのです。

しかしながら、そういった辛さを乗り越えて、描いたのがこの花咲くアーモンドの枝という作品でした。テオは、子どもに兄と同じ名前のヴィンセントという名をつけており、その甥のためにこの花咲くアーモンドの枝を描いています。

強く、逞しく、そして可憐に生き抜いてほしいというゴッホの思いが詰まっている、心温まる作品でもあったのです。アーモンド自体は春に花を咲かす植物であることから、どのような辛い日々があったとしても、きっと春に花を咲かすことができる素晴らしい人生を歩んでほしいという、ゴッホならではの気持ちが詰め込まれた作品になっているのではないでしょうか。

星月夜

ゴッホが、人生のなかにおいて最も苦しいといわれている時に描かれた作品が、この星月夜というものです。

先述した、カフェテラスの作品とは打って変わり、全てがうねっているように描かれており、そのダークな色彩やハッキリとしない輪郭で心の不安定さが伝わってくる作品となっています。一体、どういった心境で描かれた作品だったのかというと、ゴッホはこの頃は実はゴーギャンに決別を告げられた時期だったのです。

共同生活をスタートさせた二人の画家ですが、当初はとても楽しくいろいろと議論を交わしながら、それでも新しい世界へと向かって歩むそれぞれの活動を応援しながら制作活動を行っていました。しかし、もともと画風や作品へのアプローチ方法が別であった二人は、しばしばその意見で対立を繰り返すこととなります。

さらにゴッホは、人一倍プライドが高く、精神的にも不安定な正確なだけにゴーギャンに厳しくあたるようになっていきます。仕事には平穏さが必要であるとゴーギャンは言っており、この場所を去ろうと準備をはじめていました。

しかし、ゴッホはゴーギャンがいなくなることを恐れ、どうにかして彼をこの場所に居座らせようとします。その時、彼に刃を向けてしまうのです。しかし、ゴーギャンはそれに気付き、鋭く冷たい目でゴッホを睨みます。ゴッホは動揺し、自らの耳を切ってしまうのです。この説には、さまざまな側面があり、ハッキリとはしませんが、ただ耳を切り、その後にゴーギャンはパリへと戻ってしまったことは確かです。

さらに、この割いた耳を元恋人へと渡すなどゴッホは奇行を繰り返します。そのことで、周囲の人たちを困惑させ彼は精神病院へと入ることとなったのです。そして、この星月夜はその頃に描かれた作品となっています。波でうねるような夜空が彼の辛く、孤独に押しつぶされそうな気持ちを代弁しているのではないでしょうか。

糸杉と星の見える道

ゴッホが亡くなる前に描かれた、ある意味では晩年の作品が糸杉と星の見える道です。ゴッホが自殺を図り、そのまま命を落としたのはフランス・オーヴェールという場所です。数多くの芸術家を扱っていた精神医師ガシェに助けられながら、最後まで生き抜こうと努力するのですが、とある事件をキッカケにゴッホはもう生きていられないと、精神的に追いつめられます。

その事件とは、温かく迎え入れてくれたパリの弟テオの家庭でのいざこざです。テオが、画商を辞めて独立して、印象派で勝負したいというのですが、当時の印象派はパッとせずに商売にならないと、妻に厳しく諭されます。

それを見ていたゴッホは、自らが弟の生活を破綻させ、夫婦仲を最悪なものへと導いていると思い込み、逃げるようにその場を去ります。唯一、こころの拠り所にしていた弟にとって、自らの存在は不幸の種であると思いこんだゴッホは、結果的に自殺という道を選んでしまうのです。

さて、そんな自殺前の作品ではあるのですが、糸杉と星の見える道には、うねった糸杉が象徴的に中央に描かれています。夏の太陽がきらめく、一見では平和で心穏やかな印象を与える作品ではありますが、絵画評論家たちのなかでは、物議を醸す問題作として知られているのをご存知でしょうか。

糸杉という植物は、どうやら南仏では墓地周辺の植えられている植物であることで知られています。墓地という、死を連想させる場所に植わっているようなこの植物を描いたことに、何か深い意味があったのでしょうか。自殺願望が強かったともいわれているゴッホだけに、この時の作品で既に何かを伝えようとしているのかもしれません。

ゴッホと作品たち

ゴッホは、絵画が生涯で1枚しか売れていなかったといわれています。つまり、全ての絵は売るためではなく、自らがその時々に感じたこと、思っていた心境が全て綴られていると考えても良いでしょう。ゴッホの絵画は、まさに彼の人生そのものを語っているのです。
  • Facebook
  • Twitter
  • hatena

    ▲ページトップ