西洋画

自身の信じる芸術性への追求を止めることの無かった画家ポール・セザンヌ

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後期印象派を代表する画家である、ポール・セザンヌ。多くの名作を残してきた彼は、自らのことを頑固者といっているほどに、自身の信じる芸術性への追求を止めることの無かった画家です。

初期、中期の頃はなかなか周囲の評論家や世論に認められない日々が続きながらも、その美しい色彩の使い方は一部の画家や評論家たちを魅了し、後に後期印象派というジャンルにて大成をしました。

今回、ここではそんなポール・セザンヌの描いた代表作品をいくつか紹介していきましょう。

「オレンジとリンゴ」

セザンヌの代表的な作品といえば、「オレンジとリンゴ」ではないでしょうか。皿に乗せられたオレンジとリンゴが乗っているだけの、一見シンプルで変哲の無い絵画ではありますが、この作品が多くの人々に多大なる影響を与える問題作として扱われています。

「オレンジとリンゴ」は、無造作な形で並べられているようにも感じますが、実は幾何学模様のように正しく、律儀に並べられていることが分かります。

謎解きの画家ともいわれるセザンヌだけに、この作品は色の塗り方次第ではリンゴやオレンジの区別も一瞬ではつかず、さらには皿への乗り方も大分不自然であることが見受けられます。

また、陰影に関してもどこか難しいようなタッチで描かれているなど、見れば見るほど絵画の世界に引きずり込まれていくような、そういった作品でもあるのです。「オレンジとリンゴ」に関しては、パリのオルセー美術館に所蔵されているので、これらに興味がある方は見てみるのも良いでしょう。

「カード遊びをする2人の男たち」

セザンヌの絵画のなかでも、死後大変高額な価格で落札されたことでも知られているのが、「カード遊びをする2人の男たち」という作品です。こちらは、男が二人テーブルを挟んで並び、そこでカード遊びをしているシンプルな構図となった作品です。

当たり前の風景であり、こちらも「オレンジとリンゴ」に似たように、これといった特筆大書すべき作品では無いと思われがちですが、非常に斬新な方法で描かれています。それが、当時の絵画ではあり得なかった、遠近法を取り入れずに絵を仕上げているという部分なのです。

実際、遠近法が必ず取り入れられるので立体感が絵に生まれるのですが、セザンヌのこの絵画に関しては、それらを無視しており、平面的に敢えて描かれています。

とはいえ、どこか立体的で浮き上がってくるような印象を覚えるのは、セザンヌの色彩の出し方の技術によるものです。どことなく、不思議な雰囲気を持ちながらも、心が安らぐような何とも難解な作品のひとつとして愛されています。

「サント・ビクトワール山」

セザンヌは、南フランスのプロヴァンス周辺の出身であることが知られていますが、その辺りの山として知られているのが、このサント・ビクトワール山です。

自然を題材として描くことも多かったセザンヌですが、幼少期を過ごしたこの土地の自然に関しては強い思いを持ち合わせているのか、素晴らしい作品として今でも美術ファンたちに愛されているものとなっています。

しかし、遠近法が使われていないために、敢えて平面的な絵画となっており、さらには立体的なモザイク風のキュビズムを感じさせるタッチにも見えなくもありません。

色使いもごくごくシンプルではありますが、さほど多くない色使いで非常に存在感を出すように描かれており、定番のモチーフでありながらも、どこか唯一無二の世界観が表現されているような、そんな作品となっているのではないでしょうか。

「『レヴェヌマン』紙を読むルイ=オーギュスト・セザンヌ」

セザンヌの人生は、波乱に満ちたものでした。父親は帽子店から銀行のオーナーなり大成功を収めた実業家だったこともあり、セザンヌが画家になることに反対をしていた人物です。そのため、保守的な考え方である父親は「レヴェヌマン」という革新派の新聞を好んでいなかったといわれています。

そして、この作品はそんなセザンヌの父親である、ルイ=オーギュスト・セザンヌを描いた作品ですが、その新聞を持っているところを描写している作品なのです。光の陰影もどこか重たさを感じさせる画風ですが、椅子の白さで絶妙なバランスをキープしていることからも、セザンヌの絵画技術の高さが伺える名作として今でも愛されています。

この作品では、父親の威厳ある顔つきからも、セザンヌの目指す画家への道を絶対に許したくないという現れが映っているのか、こういった父親に画家として一流の人間となることを認めてもらいたいという、そういった意味合いも含まれているのかもしれません。

どちらにしろ、本当は心の奥底で繋がっている、愛すべき家族関係が伺い知れる作品のひとつになっているのではないでしょうか。

「画家アシル・アンプレールの肖像」

よき友人の一人であったとして知られているのが、同じ南仏出身の画家である「アシル」を描いた作品が、「画家アシル・アンプレールの肖像」です。

アシル・アンプレールは、非常に小さな身体をしていたこともあってか、力強さを無縁と思われがちですが、非常に強い精神性を持っており、セザンヌも彼は炎を煮えたぎらせているというような表現で絶賛しています。

この王座に座っているモチーフですが、当時は貴族がこういった王座に座った肖像画が描かれることが多かったようです。しかしながら、アシル・アンプレールはどこか俯いた姿となっており、堂々としていないところもまたユニークな描写であることが分かります。

セザンヌは、頑固な人物ではありましたが、多くの人々に信頼されていた人物でもあったために、こういった友人の画家を描いた作品も多く残っているのが特徴的ではないでしょうか。

「タンホイザー序曲(ピアノを弾く若い娘)」

セザンヌの作品のなかでも、非常に写実的な作品として知られているのが、「タンホイザー序曲(ピアノを弾く若い娘)」という作品です。ヴィルヘルム・リヒャルト・ワーグナーの生み出した傑作に着想を得て生み出した作品として知られており、妹のローズにこの作品が完成した後は送り届けていることでも知られている名作です。

モチーフとしては、正面でピアノを弾いている人物が妹であり、奥に腰掛けている女性が母親という説があります。どこか、直線的で写実的、陰影もバランス良く使われていることからも、初期の頃のセザンヌの新しいアプローチのスタートであったことが伺える作品となっています。

暗く、重たい色使いではありますが、白を使うことで軽さを表現しており、絶妙なバランスに仕上げているところがセザンヌらしいといえるでしょう。

美しい作品の数々を楽しむ

セザンヌの作品には、名作が多く、ここで全てを紹介することは困難なほどです。「饗宴」などでは、神話にちなんだモチーフを入れていながらも、どこか人間の性的享楽を暗喩させた印象を持っていますし、皮肉に溢れたような作品もあるところが、セザンヌの知的さや聡明さを知らしめている部分となっています。

遠近法を敢えてはずした作品のなかでも、平面的で野暮ったくなることはなく、どこか洗練されている雰囲気に仕上げているのが、このセザンヌの技法です。ぜひ、日本でも海外でも見ることができる画家ですので、作品をその目で鑑賞して、彼の世界観を感じ取ってみてください。

ポール・セザンヌの人生

ポスト印象派の画家として世界的に知られいてるのが、ポール・セザンヌです。数多くの名作を生み出しており、モネやマネなど印象派のグループにて活動を行っていたことでも知られている大家です。

ゴッホやゴーギャンのように感情を絵画に込めたり、想像を自分なりに現実と組み合わせたような作風ではなく、敢えて「見る」ということに徹した作品づくりを行っていたことでも有名です。今回、ここではポール・セザンヌの人生についてを紹介していきましょう。

南フランスでの生まれ

ポール・セザンヌは、エクス=アン=プロヴァンスという南フランスの地に、1839年に生まれています。セザンヌの父親は当初は帽子屋として生計を立てていたことで知られていますが、その後には銀行を買収し、銀行の経営者として大成功を収めた実業家として有名でした。

一般的に見ても裕福で安定した生活をしてきたセザンヌは、自由気ままな人生を送るはずでした。しかし、10歳の時に入学したサンジョセフという学校に入学してからさまざまな状況が一変します。

当時、エミール・ゾラという下級生と友達になっていたセザンヌですが、よそ者として扱われてきたエミール・ゾラと仲良くしている、ということでセザンヌも激しく級友たちから糾弾されます。

しかし、天文学者として後にも活躍するバティスタン・バイユとも仲良くなり、逆境にも負けることなく、3人で仲良く学生時代を過ごしたというエピソードがあります。

絵画への関心

1857年頃、セザンヌは市立素描学校に通いはじめています。素描を習っていたこともあり、絵画には大変強い関心をこの頃に持っていたことが伺い知れます。

成長を続けていったセザンヌは、父親の強い希望もあってエクス大学の法学部に入学に通うこととなります。しかし、その裏で素描の学校にも通い続けており、法学と芸術の両側面の勉強に没頭し続けていきました。しかし、この頃に四季図と父の肖像画を描いており、心の奥底では画家への道を目指したいという部分が芽生えてきた頃でもあったのです。

ゾラからの後押し

だんだん、大学の勉強をサボるようになってきたセザンヌは、法律家と画家のどちらを目指すべきなのか、悩み苦しみます。

そんな時、文通をしていた友人のエミール・ゾラに、どちらの道に進むべきなのか…という、悩みを打ち明けているエピソードが大変有名です。ゾラは、当時はパリに戻っていたこともあり、「画家になりたいのであれば、早くパリへ来い。

法律家も画家も、好きな方を選ぶことは君の自由ではあるが、ただ絵の具で汚れてしまった法服を身にまとって、法定に現れるような中途半端なことはしないでほしい」と、伝えたのです。これがキッカケとなったのか、大学を中退して、絵の勉強を本格的にするために1861年4月にセザンヌはパリへと旅立ったのです。

挫折、そしてパリへ

パリへ絵画の勉強をしにいったセザンヌは、アカデミー・シュイスという場所で絵画を習っていました。その頃、カミーユ・ピサロやアルマン・ギヨマンなどと仲良くなり、ルーブル美術館などへ通ったり、絵画の勉強を真剣にし続けていたのです。

しかしながら、田舎からやってきたセザンヌをほかの者たちはバカにしたり、素描などをコケにするなど辛い日々を送ることとなります。そして、結果的に自分には才能が無いと感じたセザンヌは直ぐにプロヴァンスへと戻ってしまったのです。

そして、父親の勧めで銀行に勤めますが、絵画の道を諦めることはできず、その合間を塗って美術学校へと通い続けたのです。

しかし、銀行勤めをもともと志望していたわけではないセザンヌだったこともあり、結果的に会社を辞めて絵画の道を本気で進むことを決意します。また、パリに戻りアカデミー・シュイスにて勉強をはじめるのです。この頃に、モネやルノワール、彫刻家のフィリップ・ソラーリと出会い、交友を深めいてったようです。

落選の日々と印象派への厳しい世論

セザンヌは、その後に絵画に研鑽を積んでいきますが、サロンへは全く入選することがなく、落選の日々を過ごします。サロン・ド・パリなどの有名なサロンへの応募も、全て落選するなど絵画界で求められているものと、セザンヌの描いているジャンルが一致していていなかったと思われます。

友人であったゾラは、その後は美術評論家として活躍を続けるようになりますが、セザンヌについては「彼は、すばらしい才能の持ち主だけれども、10年先まで落選し続ける。今は、大作を制作しており、それが多くの人々を感動させる」という言葉を残しています。

しかしながら、印象派の周辺への評価は非常に厳しいものがあり、シスレー、バジール、ピサロ、ルノワールなどの仲間たちも、軒並み落選を続けます。ある意味では、印象派の人々は敢えて毛嫌いされていた、というような印象すら受けることができる仕打ちでもあります。

しかし、セザンヌは入選を不本意な絵ですることは徹底的に拒み、常に自らの思った最高の芸術作品で勝負することを続けています。そのため、自分たちの芸術を理解できない審査委員たちのことを取り上げるべきだとも語っています。

印象派展の評価

結婚、第一子の誕生、そして印象派への傾倒。セザンヌは、さまざまな苦難と人生を乗り越えながら画家としての人生を過ごし続けます。数少ない理解者たちを信じて、常に自分が求めている芸術を描き続けていました。

そんな頃、1874年にあのモネとドガが開いた後の印象派展第1回にあたるグループ展が開催されてます。このグループ展にセザンヌは、『首吊りの家』、『モデルヌ・オランピア』などが出品されています。

マネのオランピアという作品が大変有名ではありますが、それよりも明るい色調で敢えて対抗するような形でセザンヌはオリンピアを描きあげ、この場所に出品をしたのです。印象派は多くの人たちの目の触れたことからも、その後で美術評論家たちに、厳しく批判されることとなります。

セザンヌが描いたオリンピアに関しても、「醜い裸体を晒した女性を、茶色いマヌケな男に晒している」など、大変新聞上で酷評されることとなります。しかし、友人であるゾラは新聞へも寄稿をつづけていたことから、この新聞上で「セザンヌの作品は素晴らしい。

この人物の苦労は凄まじいもので、すでに大家のレベルへと達している」ということを匿名で投稿したことも後に知られています。また、セザンヌの大変有名な作品のひとつである、「首吊りの家」に関しては、アルマン・ドリア伯爵に300フランで買い上げられるなど、一定の理解者がいたことは分かったようです。

3回目 印象派展から変化が

2回目に行われた印象派展にはセザンヌは出品しなかったものの、3回目からは周囲の説得もあり、16点の作品を出品しています。しかし、肖像画が一部いつも通り酷評されることとなります。

とはいえ、ジョルジュ・リヴィエール、テオドール・デュレといった、大変高名な批評家たちにセザンヌが絶賛されるようになったのです。ゾラも、印象派のなかでも最高で偉大な色彩画家であることは間違いない、ということを語っています。

この頃から、セザンヌの評価が大変大きくなり、絵画も売れるようになっていったといわれています。しかし、セザンヌは印象派の手法に不満を感じ始めてしまい、新しいアプローチを模索することとなります。

隠居生活

セザンヌは、光を追いかけていたことで、対象物をおざなりにしていっている印象派の作風に疑問を感じ、印象派の人々とは友人関係でありながらも、第4回印象派展からは出品を行っていません。さらに、パリの生活などが疲れてしまったということもあったのか、地元のエクスへと戻ってしまいます。

ゾラも、早くパリへともどってきて欲しいという手紙などを出しますが、セザンヌのその気持ちが変わることは無かったといわれています。

しかし、その頃の妻の父親との険悪な関係性などが感づかれてしまったことで、仕送りが減ってしまい、ゾラに助けを求めていることも分かっています。タンギーという画材屋に代金の変わりに絵を渡して画材を購入し、その作品がポール・ゴーギャン、フィンセント・ファン・ゴッホに多大なる影響を与えたことでも知られています。

入選、友情の終わり、そして晩年へ

結果的に、パリのアパルトマンを借りて制作をスタートさせたセザンヌでしたが、1882年に『L・A氏の肖像』でサロンに初入選を果たします。しかし、これは審査員が弟子の1人を入選させられるという特権を使い、なかばやらせで入選したといわれている事象です。

さらに、1886年にはゾラがセザンヌとマネをモデルとしている小説を上梓したことで、セザンヌもそれを読み、そこから友情が絶たれたといわれています。

二人の関係性のこと、恋愛関係などが描かれていたとか、噂の域を出ませんがこれがキッカケとなり、疎遠となっていったのです。サント・ヴィクトワール山などを描く作品など、トラブルに見舞われながらも常に話題作となり、そのトラブルが逆にセザンヌの名を有名にしていきます。

そして、セザンヌの名画が生まれるのは、年齢と糖尿病を煩い戸外制作ができなくなってきてからの事です。人物がや屋内の静止画などに焦点を置いた作品を多く描くようになり、個展などでも大きな評価を獲得するようになっていったのです。

セザンヌの評価

セザンヌがこの世を去った後、回顧展などが行われ非常に評価が高まります。印象派たちの作品が評価されていった一方で、その絵画がオークションなどで大変高額な価格で取引されるようになりました。セザンヌの、「カーテン、水差しと果物入れ」という作品は、1999年に当時の日本円で67億円の価格で落札されたといわれています。

さらに、2013年には、「サント=ヴィクトワール山」が1億ドルで取引されています。セザンヌは、なかなか理解されにくい画家ではありましたが、多くの人々の多大なる影響を与え、そして今でもその存在感を絵画の世界で示し続けているのです。
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