西洋画

光をあやつり幻想世界のような美しい世界観を導き出すヨハネス・フェルメール

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光をあやつり、写実的ながら幻想世界のような美しい世界観を導き出す画家として知られているのが、ヨハネス・フェルメールです。ヨハネス・フェルメールは、数多くの作品を残していますが、子だくさんな画家であったことでも知られています。

フランス軍がオランダに侵攻していったことで絵画が売れなくなり、義母の仕事を手伝っていたのですが、その3年後の43歳という若さでこの世を去った、伝説の画家でもあります。今回、ここではヨハネス・フェルメールの生涯を追っていこうと思います。

フェルメールの生まれ

ヨハネス・フェルメールは、フェルメールとして親しまれていますが、本名はヤン・ファン・デル・メール・ファン・デルフトという名前です。フェルメールは、1632年にデルフトという街で生まれています。パプと宿屋、さらには絹織り職人として活躍していた家庭で育っています。

非常に長いネーミングの名前であることが特徴のフェルメールですが、アムステルダム在住に同姓同名の人物がいたことから、別名としてこの名をつけたのではないか、ということで知られています。

フェルメールと結婚

フェルメールは、画家として大成する前に結婚をしています。カタリーナ・ボルネスと結婚をすることになるのですが、プロテスタントであったり、父親の方に借金が多くあったことなど、二人の生活への今後の懸念があったことでフェルメールの父親はこの結婚に反対していたといわれています。

しかし、二人の愛はこれら周囲の反対を押切って進められたものであったため、結果的にレオナールト・ブラーメルを立ち会い人として、結婚が成立することとなりました。

フェルメールは、画家として収入を得るため、聖ルカ組合に親方画家という役職についていたといわれています。しかし、実際のところは登録をしているだけであり、6年間の下積みが必要だったことからも、師匠などが見つかっておらず謎が深まっているといわれています。

裕福な家庭であったことの苦悩

フェルメールは、大変裕福な家庭で生活をしていたことで知られています。それは、カタリーナ・ボルネスの母親の実家に転がりこんでいたことが理由といわれています。カタリーナ・ボルネスの父親は、多くの借金を抱えていたとして知られていますが、一方で母親は大変裕福な生活をしていたということで、よく知られています。

結果的に、カタリーナ・ボルネスとフェルメールの間には15人という子どもが生まれますが、当然ながら、当時のフェルメールの画家として収入では養っていくことができず、結果的に裕福であったカタリーナの母親に頼らざるを得ない状況であったといわれています。

画家としてのフェルメール

フェルメールは、1655年に実家の宿屋の経営者として家業を引き継いでいることで知られています。そのため、収入があったことや、カタリーナの義母の遺産、さらにはパトロンも多くいたことから、生活自体にはさほど困っていなかった時期があることで知られています。

その頃に描かれていた作品には、ラピスラズリが原料となっている画材が使用されていますが、これはなんと当時では純金と同様のレベルの価格だったことからも、どれだけフェルメールが裕福であったかを伺い知ることができるのではないでしょうか。

この頃、ピーテル・デ・ホーホという人物と出会っており、「デルフト派」に後になっていくキッカケもこの頃であったことが分かっています。この頃の絵画の顧客としては、上流階級の人間たちが多く、ピーテル・オラニエ=ナッサウ家の宮廷デ・ホーホといった大金持ちや貴族階級の人々が多かったことからも、エレガントな画風の作品が大変多かったといわれているようです。

最高のパトロン

フェルメールたちには、パトロンがしっかりとついていたことからも、他の画家と違って絵画を量産したり認められるために、展覧会に出品する必要がありませんでした。醸造業者への投資家として活躍していた、ピーテル・クラースゾーン・ファン・ライフェンがパトロンとなりますが、彼が大変フェルメール達を好んでおり、結果的に生涯にかけて良いパトロンとなっているのです。
そのため、フェルメールたちはじっくりと自分の納得することができる作品に力を入れられ、年間で少ない頃は2点だったのです。

厳しい時代への突入

経済的に安定して、納得のできる絵画だけを描き続けることができた当時のフェルメール。しかし、蜜月はそうそう簡単に続くものではなく、不遇な時代が訪れることになります。例えば、レンブラントの時代などは1660年代は好景気だったのですが、70年代に入ってくると厳しい時代に突入することとなります。その事件というのが、第3次英蘭戦争が起こったからです。

この戦争によって、オランダの街や国土は一気に荒れ果てることなってしまうことで、経済が低迷していってしまったのです。さらに、その頃は新しい画風が求められており、流行りの画風を描いている若手画家たちの作品がもてはやされた、ということも関係しているのではないでしょうか。

そして、大パトロンとして生活を支えてくれていたファン・ライフェンも他界してしまうこととなり、戦争の影響によって義母のビジネスも大変厳しい状況へ追い込まれることとなったのです。オランダ自体、絵画ビジネスに投資したり、多く流通させる状況では無くなったことからも、画家としては最悪の時代へと突入することとなるのです。この状況は、フェルメール一人だけが被っていたのではなく、オランダの数多くの画家が仕事を失っているのです。全盛期から、なんと画家を続けられていた人物は4分の1にまで減ってしまったといわれています。

辛い日々と他界

フェルメールは、義母の借金の取り立ての仕事を手伝うようになり、どうにか日々の生活を凌いでいました。
しかしながら、子どもが多くいたフェルメールは、8人もの未成年の子どもたちを養っていくためには、毎日かなり厳しい状況に追い込まれていたことで知られています。そして、努力を続けてきたのですが、とうとう経済的に破綻してしまい、デルフトにて他界することとなります。
享年43歳という、あまりにも若い死であり、残された妻のカタリーナも非常に辛い日々を過ごしますが、56歳という年齢でこの世を去っているのです。

フェルメールの功績

彼の死後、高名な画家であったことからも、その絵画はオークションにて高い価格をつけられて販売されていました。
しかし、18世紀になると彼のことはすっかりと忘れられて、近代絵画が脚光を浴びるようになっていきます。そんななか、写実主義を提唱していた印象派たちが話題となったことから、そういったテイストをもともと重要にしていたフェルメールに注目が再度集まることになります。
結果的に、美術雑誌「ガゼット・デ・ボザール」にてフェルメールのことが掲載され、話題となります。この再発見によって、数多くの文学者などから賞讃されており、オークションでも大変高額な価格で落札されるようになっていったのです。

印象派の先駆け

フェルメールのポイントは、印象派の先駆けといえるほどの、写実主義で絵画が描かれていたということです。

さらに、日本の着物を描いている作品もあることから、歴史的にも重要視されているところがポイントです。フェルメールについて、まだまだ知りたい方は、ぜひ美術館で鑑賞してみてはいかがでしょうか。

フェルメールの代表作

オランダ史上、もっとも優れた画家であったといわれているフェルメール。
裕福な生活を送っていた時期もありましたが、晩年は貧困の時期を過ごしたことで知られており、40代前半という若さでこの世を去った天才画家です。
多くの人たちの心に残る作品を多く描いていたフェルメールの、代表的な作品をいくつか紹介していきます。

「真珠の耳飾りの少女(青いターバンの娘)」

日本国内で、もっとも知られている作品のひとつが、「真珠の耳飾りの少女(青いターバンの娘)」という作品です。青いターバンを巻いた美しい女性がこちらを振り返っているという、シンプルな作品ですが、非常に力強く、そして繊細で儚さを感じさせる作品となっています。この作品の特徴は、背景を黒一色で統一してしまっているという部分です。

そのため、少女が完全に立体的に浮き上がっており、その色彩や肌質までも浮き出してくるような、そういったイメージを与える作品となっています。レオナルド・ダ・ヴィンチであったり、ラファエロなど、こういった後の有名人たちも技法を取り入れらことで知られており、近代美術史に残る大作ともいわれています。

この作品が多くの人たちに愛されている理由には、まずは誰を描いていたかいまだに分からない、ということです。見知らぬ少女を描いていたのか、想像上の人物を描いていたのか、またはフェルメールの娘を書いていたのか、全ては憶測の域を出ることがありません。そして、1800年代後半のオークションでは1ポンドという価格で落札されたということで、まさに近年再評価を得たという希有な作品でもあるからなのです。

「マルタとマリアの家のキリスト」

フェルメールが初期の頃に描かれた作品として知られているのが、「マルタとマリアの家のキリスト」という作品です。
夕日が差し込んでいるような暖かみのある色彩の使い方に、イエスを描き、そして女性たちと語り合うという宗教画の一種ですが、フェルメールにしては非常に珍しい宗教画だったことからも、貴重な作品として残されています。非常に繊細な作品に見えますが、フェルメールにとってみればとても荒々しいタッチで描かされており、明暗法を駆使しているなど、後のフェルメールとは大きくことなる画風で描かれています。それでも、初期の頃でありながらもこれら、美しい作品を描くことができたフェルメールには、多くの賞讃が浴びせられているのが実情です。

「娼婦(取り持ち女)」

フェルメールの代表的な作品として、多くの人々の心を惹き付けている作品が、「娼婦(取り持ち女)」という作品です。多くの作品には、フェルメールの署名がなされていませんが、3点の作品だけには署名が施されており、そのうちの一点がこの「娼婦(取り持ち女)」なのです。

宿屋に泊まる予定であろう男性たちが、娼婦を取り合っているというシーンですが、新約聖書の放蕩息子をモチーフとしているという指摘もあり、宗教画ではないかともいわれています。しかしながら、宗教画にしては非常に低俗なシーンでもあり、フェルメールの作品に関しては現実的な風俗画とも捉えられているユニークな作品のひとつとなっています。

娼婦に光があたっている構図であったり、奥でフェルメール本人だといわれている、微笑む男性など、さまざまな要因が絡まりあっている、重要な作品であると断言できます。

「牛乳を注ぐ女」

フェルメールの光を使用した、美しくそして神々しい作品のひとつとして知られているのが「牛乳を注ぐ女 」です。女性が窓際のテーブルの上にあるカップに牛乳を注いでいるだけの、シンプルな作品でありながらも、フェルメールファンの評価が大変高い作品として知られています。

絵画の多くは神をモチーフとした作品であったり、貴族階級の生活を描くことで、民衆の興味を惹くようなものが多いのですが、この作品に関しては、一般市民である使用人階級の人間の生活がリアルに表現されていることから、多くの人々の心を掴んだと言われています。

フェルメールは光を上手に使った画家として大変人気がありますが、それらがよく分かる部分には、ポワンティエ技法と呼ばれるものが使われている、パンの部分にあるといわれています。

この作品でパンの部分には三層の絵の具が重ねられていることが分かっており、実写的で非常に柔らかな雰囲気を持つ作品となっているのです。また、フェルメールの美しい色彩感覚も相まってか、心穏やかに過ごせるような、そういった美しい作品へと仕上がっているのです。

「デルフトの眺望」

人物をモチーフとした作品が多くフェルメールのなかでも、非常に貴重だといわれているのが、この「デルフトの眺望 」という風景画です。ロッテルダムとデンハーグの間に位置しているオランダの都市を描いたものですが、まさに写真かと見まごうほどに、精巧に描かれているところがポイントです。

通常、手間に光が来るような風景画が多いなかでも、後景に光を持っていったことや、街並を美しく描くことで、フェルメールが理想としていた世界観が表現されているともいわれているのです。やや、脚色されている部分はありますが、構図的により調和性を求めているフェルメールらしい、美しい作品となっているのではないでしょうか。

「真珠の首飾りの女」

窓際に立つ女性を多く描いていたフェルメールのなかでも、代表的だといわれている作品が、「真珠の首飾りの女」です。単身像風俗画作品と呼ばれているフェルメールの有名シリーズなのですが、よりフェルメールの世界観がつぎ込まれている、哲学的な作品になっているということで人気です。

繊細に緻密に描かれているわけではないですが、ふんわりとした、優しい光が部屋に入り込んでいる状態を見つめている女性の姿が、なんとも微笑ましい作品となっています。

下部分の影を深みのある黒で表現していることから、白の対比効果が際立っており、さらには女性の黄色の衣装に関しても、アクセントになり過ぎず、ごくごく自然な状態でまとまっているという、まさに素晴らしい作品となっているのです。

「天文学者」

窓際と女性の構図を多く描いたフェルメールですが、転換期となっているキッカケとなったのが、「天文学者」という作品です。この作品は女性が出演しておらず、男性の学者が多く出現するようになっているという、面白い作品となっています。

ウエット・イン・ウエットという技法で描かれている男性、そして光の粒を絶妙な配置で描いていったこの作品は、まさにフェルメールの技術力の高さを思い知らされる、素晴らしい作品のひとつとなっています。

地図製作者ヨドクス・ホンディウスの天球儀がモチーフとなっているといわれており、こういった天才学者たちのもつ、ひとつの対象に賭ける強い思いと姿勢がフェルメールの心を突き動かしたのではないでしょうか。

「ヴァージナルの前に座る女性」

フェルメールの最後の作品となったともいわれているのが、「ヴァージナルの前に座る女性」です。ピアノを弾く女性に焦点があたりながらも、その光の使い方はバランスが良く平面的でありながら、立体的であるという、フェルメールの技術力が込められた作品となっています。

早くして命を失ってしまったフェルメールですが、数百年経った今、その実力と素晴らしさが認められています。今後も、フェルメールの評価は高まり続けていくことでしょう。
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