もはや最後は自分自身との戦い!成功率の低かった制度としての「仇討ち」
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主人や師匠、または父母などの血縁関係にある目上の親族を殺されたときに、復讐という私刑を行うことを、敵討ち(かたきうち)、仇討ち(あだうち)と呼びます。
日本三代仇討ち「曾我兄弟の仇討ち」「鍵屋の辻の決闘」「元禄赤穂事件」をはじめとして、軍記物語や歌舞伎の台本などにもよく見られ、日本人の涙腺を刺激してきたこの「仇討ち」には、じつは手続きや作法が存在しているのです。
日本三代仇討ち「曾我兄弟の仇討ち」「鍵屋の辻の決闘」「元禄赤穂事件」をはじめとして、軍記物語や歌舞伎の台本などにもよく見られ、日本人の涙腺を刺激してきたこの「仇討ち」には、じつは手続きや作法が存在しているのです。
許可制だった仇討ち
仇討ちは武士の台頭する中世以降の日本では慣例として扱われており、江戸時代には、警察司法機関である町奉行所で管轄する「制度」となりました。
制度ですので、仇討ちをするのには、けっこう煩雑な手続きが必要です。まずは、主君(幕府や藩)に理由を話し仇討ちの許可を求めます。それが認められると町奉行所が持つ「仇討帳」に名前・身分・年齢などが記録され、仇討の許可証が発行されます。これがないと、仇討ちがタダの殺人になってしまいますので、この一連の手続きは必須でした。
制度ですので、仇討ちをするのには、けっこう煩雑な手続きが必要です。まずは、主君(幕府や藩)に理由を話し仇討ちの許可を求めます。それが認められると町奉行所が持つ「仇討帳」に名前・身分・年齢などが記録され、仇討の許可証が発行されます。これがないと、仇討ちがタダの殺人になってしまいますので、この一連の手続きは必須でした。
仇討ちの種類とルール
通常の仇討ちのほかにも種類があります。
・女(妻)敵打ち(めがたきうち)・・・妻が密通していた場合、妻と相手の男性二人に仇討することができる。武士の場合は義務
・後妻打ち・・・夫が妻を離縁して一ヶ月以内に再婚した場合、複数の仲間を連れて家を襲い家財道具を破壊することができる。ただし事前に予告をするなど、儀式的な風習の面もある
また、仇討には独特の恐ろしいルールもあります。
それは「指し腹」と言って、恨む相手を名指ししてから切腹し、相手にも切腹を強要するもの。指し腹を受け取った側は、拒むと「武士の恥」とされ、拒むことができませんでした。
・女(妻)敵打ち(めがたきうち)・・・妻が密通していた場合、妻と相手の男性二人に仇討することができる。武士の場合は義務
・後妻打ち・・・夫が妻を離縁して一ヶ月以内に再婚した場合、複数の仲間を連れて家を襲い家財道具を破壊することができる。ただし事前に予告をするなど、儀式的な風習の面もある
また、仇討には独特の恐ろしいルールもあります。
それは「指し腹」と言って、恨む相手を名指ししてから切腹し、相手にも切腹を強要するもの。指し腹を受け取った側は、拒むと「武士の恥」とされ、拒むことができませんでした。
仇討ちが許可されないケース
願い出たものの、仇討ちの許可が出ない場合もあります。
例えば、自分の妻や子ども、弟や妹などが殺された場合は、目下のものとみなされて許可されませんでした。また、仇討ちの仇討ちなど恨みが連鎖するものは禁止されていました。
実際に届け出をして仇討ち許可証をもたった以上、見つからないからといって途中で「やっぱりやーめた」なんてできません。武士の身分であればなおさら、仇討ちを果たすまでは藩にも家にも帰れず、ひたすら敵を探し回るしかないのです。何年も、何十年も怨みのモチベーションを維持するのは大変。最後は自分自身との戦いになってきます。
さらに運の悪いことに返り討ちに合ってしまう悲劇も多く起こりました。仇討ちの仇討ちが禁止されているので、憎い敵がのうのうと生き長らえている…なんていうことも起こります。仇討ちの成功率は、非常に低いのが現実でした。
この仇討ち制度が廃止されたのは、明治初頭の1873年のことでした。
例えば、自分の妻や子ども、弟や妹などが殺された場合は、目下のものとみなされて許可されませんでした。また、仇討ちの仇討ちなど恨みが連鎖するものは禁止されていました。
実際に届け出をして仇討ち許可証をもたった以上、見つからないからといって途中で「やっぱりやーめた」なんてできません。武士の身分であればなおさら、仇討ちを果たすまでは藩にも家にも帰れず、ひたすら敵を探し回るしかないのです。何年も、何十年も怨みのモチベーションを維持するのは大変。最後は自分自身との戦いになってきます。
さらに運の悪いことに返り討ちに合ってしまう悲劇も多く起こりました。仇討ちの仇討ちが禁止されているので、憎い敵がのうのうと生き長らえている…なんていうことも起こります。仇討ちの成功率は、非常に低いのが現実でした。
この仇討ち制度が廃止されたのは、明治初頭の1873年のことでした。