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近場で見られる古墳・垂仁天皇陵

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近場で見られる古墳・垂仁天皇陵

鑑真和尚と関連深い唐招提寺を堪能した後、更に歴史の余韻に触れたい方におすすめのスポットが垂仁天皇(すいにんてんのう)陵です。唐招提寺から400mほどの場所にあります。
薬師寺や唐招提寺と近いので、参拝の前後に行く人も少なくありません。垂仁天皇は長らく実在していたのか疑わしかったとされますが、近年では実在していた可能性が極めて高いと言われます。
そんな垂仁天皇の陵(みささぎ)は、古墳としてはよく知られた前方後円墳型をしています。陵とは、天皇や皇后などのお墓のことです。
垂仁天皇は、古墳に関してある功績を遺しています。それまでは天皇の崩御に伴い、「お伴」を生き埋めにする習わしでした。
毒を飲ませると言った安楽死的な措置を取ることはなく、生きたまま埋めて、土を被せておしまいです。生き埋めはいわば、蛇の生殺し。じわじわと死んでいくことになります。はっきり言って苦しい死に方です。
殉死者たちがかわいそうだと感じたのが垂仁天皇は「私の代から殉死は禁止にする」とお触れを出しました。殉死者の代わりとして、野見宿禰なる人物により考案されたのが、あの埴輪です。直接の考案者ではないものの、民を殉死から解放したことには変わりありません。
埴輪という遺物と、それが誕生する経緯を知ることで、垂仁天皇の人柄や東寺をしのぶことができるでしょう。歴史のロマンはどこにでもあるものです。
垂仁天皇陵そのものは古墳全体を覆う木々や、古墳周辺の池といった自然美を堪能できます。最寄りの駅から歩いて行けるのも魅力です。

所在地:〒630-8023
奈良県奈良市天辻西町

最寄りのお寺・薬師寺

奈良には無数の寺院があります。お寺巡りも、奈良を楽しむ一つの手段です。
唐招提寺付近の寺院でおすすめなのは、薬師寺でしょう。法相宗の大本山に当たります。興福寺、東大寺、法隆寺といった有名どころの寺院と同じく朝廷の加護を受けた南都七大寺の内の一つでもある、実はすごいお寺でした。
飛鳥の地で完成しましたが、平城京への遷都に伴い、今の場所に移動したと言われます。
金堂、大講堂と言った建造物が存在しますが、いずれも目が覚めるような極彩色です。
そうかといって目に煩わしい物ではなくしっとりと上品で、日本に伝わって来たばかりの華やかな仏教美術を思い起こさせます。
仏像も見ごたえがありますが、食堂にある絵画も一見の価値は十二分です。

所在地:〒630-8563
奈良県奈良市西ノ京町457

観音様は必見・東院堂

奈良薬師寺の中でも、特に見るべきとされるのが東院堂と、そこにおわす観音像です。色彩豊かな伽藍の多い奈良薬師寺の中、東院堂は地味に見えます。
それでも国宝であり、ここに祀られる聖観音像は「必見」です。「見ないと損」レベルでもあります。その理由は、単に「美しいから」というわけではありません。
具体的な造像年代は不明ですが、中国の仏像様式の影響が認められることなどから、大体飛鳥時代から奈良時代に作られたと推測されています。口元にもアルカイックスマイルのような笑みがあるので、ほぼその時期の作とみていいでしょう。
脚の辺りも結構見所です。「衣をお召しです。衣があるからおみ足は省略します」というのではなく、脚を作った上で、薄い衣のひだを表現。要するに、しっかりと立っている脚が衣を透かしてくっきりと見えているのです。
このリアルな表現は、インドのグプタ王朝期に見られた表現とされます。
光背は後々作られたもの。あらゆる年代、国、様式の集結した像が、この東院堂の聖観音像というわけです。
異様な現実感を持って迫って来るようですね。

東院堂自体は養老年間、西暦で言えば717年から24年にかけて建てられました。由来は元明天皇の冥福を祈るためでした。建てさせたのは娘の吉備内親王です。 当時は東禅院という名前で、今ある建造物は鎌倉時代に再建されたものになります。

荘厳華麗な平城京跡

唐招提寺から2kmのところに、平城宮跡があります。別名平城京宮跡。更地もしくはビル群、ということはありません。日本初の都があった場所として、遺跡や建造物の骨組みが残っていたことから、研究者たちによる多大な努力の果てに平城宮が復活しました。
かつての皇居にして政治を行っていた場所が、平城京跡歴史公園として歴史を見て学ぶ施設に生まれ変わったのです。
第一次大極殿院、第二次大極殿院、東院庭園、朱雀門といった復元された建物の他、大極殿復元に関する資料を見学、或いは「触れる」ことができる第一次大極殿院復原事業情報館などがあります。
建造物に共通しているのは、唐の様式を彷彿とさせる、力強い赤が使われていることです。
v 政治を行う場所ですが、当時の政(まつりごと)は時に儀式も絡むものでした。どこか宗教的な荘厳さがあるのはそのせいかもしれません。現代のビル群とは違った種類の圧倒的な迫力と、広大な敷地の持つ解放感は抜群の持ち味となっています。
なお、大極殿に「第一次」「第二次」とついているのは、都が何度も変わったためです。最終的には平城京に戻っており、次期を前期後期と分け、使用された宮殿も第一次、第二次と呼ぶに至りました。

【東院庭園】
開館時間:9:00-16:30(入場は16:00締め切り)
休館日:毎週月曜日と12月29日から1月3日まで。月曜日が祝日の際は欲火曜日が休館です。
入場料:ナシ

【復原事業情報館】
開館時間:10:00-18:00(入場は17:30締め切り)
6月から9月は10:00-18:30(入場は18:00締め切り)
休館日:2、4、7、11月の第2月曜日。祝日の際は欲火曜日が休館です。
入場料:ナシ

平城宮跡所在地:630-8577
奈良県奈良市佐紀町
お問い合わせ先
平城京跡管理センター電話番号:0742-36-8780

道真公の生まれた地?菅原天満宮

唐招提寺は、唐で生まれて日本に帰化した鑑真和尚が建てたお寺です。そんな唐招提寺から1.2km離れた所に、菅原道真公ゆかりの天満宮がありました。その名も、菅原天満宮です。何故奈良県に菅原天満宮があるのか。
一説には道真公が生まれた地だから、とされています。この神社には道真公も祀られていますが、実は公自体が神様の末裔でした。
道真公のルーツ、菅家を遡ると天穂日命(あめのほひのみこと)という神様に行きつきます。この方は、14代後の子孫野見宿祢命(のみすくねのみこと)や道真公と共に主祭神として菅原天満宮の主祭神をお務めです。
天穂日命は日本の主神、天照大神の息子(勾玉から誕生)とされます。道真公、実は凄いルーツをお持ちでした。
天穂日命は農業や養蚕などを司ります。コツコツと真面目に行う作業がお得意のようです。それは、子孫の道真公にも受け継がれた模様。
道真公は学問の神とまで呼ばれるようになりました。菅原天満宮では春分の日に今まで使ってきた筆に感謝の意を込め、焚き上げをする奈良筆祭りがあります。そして新しい筆を頂くわけです。境内では筆づくりの工程も見られます。学問の神様を祀るだけあって、筆に関するお祭りもあるのです。
留学僧と関わり深いお寺の近くに学問の神様を祀る神社がある、というのは不思議な縁を感じますね。

所在地:〒631-0842
奈良市菅原東町518
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