世界史

その言葉も孔子のものだったの!?社会に浸透した孔子の言葉と教え

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古代中国に生まれ、儒教という思想を確立した大思想家・孔子。孔子という呼び方ですが、これは彼の本名ではありません。「子」というのはあくまで尊称。「先生」という意味です。
彼が確立した儒教という思想は、東アジア、特に中国や韓国には絶大な影響を与えました。もちろん日本にも伝来し、政治や文化に大きな影響を与えています。

ところで、孔子の言葉は、意外なほど私たちの生活に浸透していることをご存知でしょうか。何気なく使っていることわざも、彼の言葉が由来だったりするんですよ。そうした言葉を残した孔子が、実際にどんな人生を歩んだのかは、彼の思想ほどは有名ではありません。
今回は、孔子が儒教の開祖となった理由を含む波乱の人生と、彼の言葉をご紹介したいと思います。

孔子の教え「儒教」とは

孔子の思想である「儒教」は、仁義をいちばんに重んじ、上下の秩序を守っていく社会を理想としています。「仁・義・礼・智・信」を常に行うことで、親子や君主と臣下、夫婦や友人関係など人間関係全般を円滑に保つことができると考えています。

また、孔子は名君の誉れ高い古の王である堯(ぎょう)や舜(しゅん)、周の始祖である文王や武王の政治を理想としていました。彼らこそ、「仁義」を重んじ、「徳」によって国を治めた名君と考えたのです。つまり、武力で解決しようとするなどもってのほかだと考えていたわけですね。

周を盟主と仰ぎ、君主とそれに従う諸侯という図が崩れ始めた春秋時代において、孔子は周代への復古を説いたのです。その言葉は、彼の弟子たちによって広められていきました。彼の思想を説く人々は儒家と呼ばれ、春秋戦国時代に現れた様々な学派である「諸子百家(しょしひゃっか)」のひとつを形成していくことになります。

孔子の生まれた時代

孔子が現在の山東省曲阜(きょくふ)に生まれたのは前552年のこと。姓が「孔」、名を「丘(きゅう)」と言いました。通常の呼び名である字は「仲尼(ちゅうじ)」です。それほど高い身分ではなく、3歳で父を、17歳で母を失うなど苦労して成長していきました。

孔子が生まれた春秋時代は、かつての盟主であった周が弱体化し、都を移して東周となったところから始まりました。大小さまざまの国が割拠した中で、孔子が生まれたのは比較的小さな「魯(ろ)」でした。魯は、周を建国した武王の弟・周公旦(しゅうこうたん)によってつくられた国で、かなり格式としては高い存在でしたが、なにぶん小国だったので、周辺の大国に圧迫される状況だったのです。

周公旦は「礼学」の基礎を作った人物でもありました。礼学とは、社会秩序や人間関係をうまく構築していくために実践すべき道義です。この思想こそ、この国に生まれた孔子に深く影響していたわけです。両親を失いながらも勉学に励んだ孔子が重んじたものこそ、この礼学であり、後に儒教の始祖となる基礎となっていきました。

孔子は19歳で結婚し、翌年に息子が生まれています。おそらくこの頃はまだ勉学に励んでいた時期だったのでしょう。そして、28歳頃までに仕官をし、やがて弟子を取るようになっていきます。

孔子の憤慨

かつて、周を頂点に諸侯たちが従った社会構造は、周の弱体化と共に崩れていきました。つまり、王を王とも思わない諸侯たちが現れていたのです。それは、孔子の理想とした社会とは真逆の姿でした。

こんな話があります。
魯の先代・襄公(じょうこう)の祭祀を行う際、楽士たちの数が少ない上に、楽もあまり上手なものではありませんでした。一方、魯で権勢を誇った家臣の季氏の行った祭祀は盛大で楽士たちもたくさんいたとか。

そんな様子を目にした孔子は、君主と臣下の立場が逆転していることにひどく憤慨します。どうしてこのような状態になってしまったのか、それはひとえに人々が礼を忘れてしまったためだと彼は考えていました。

その思いは、当時の主である昭公(しょうこう)が季氏によって国外追放となり、その後を追って斉(せい)に亡命した孔子の胸のうちで、どんどん大きくなっていったのです。

大出世と失望の晩年

ほどなくして魯に戻った孔子は、積極的に弟子を取るようになります。その数は3000人にものぼったそうです。

前500年、孔子52歳の時、魯と斉の和睦の場で彼が見せた機転が、大出世につながる転機となりました。
斉側が魯に対して舞を見せたいと楽士たちを呼び込みますが、彼らが手にした小道具が武器にもなることを孔子は見抜いたのです。そして「我が主を害するおつもりか!」と一喝し、その場をおさめたのでした。
この功績により、孔子は大司寇(だいしこう/最高裁判官)に任ぜられたのです。

しかし、彼の思想の根幹である「礼を重んじ、仁義を行う」ということは、まったく生かすことができなかったのでした。「仁」すなわち他人への優しさ、愛情が常に実行されてこそ理想の社会が実現すると考えていた彼は、それを主に求めました。しかしそれは時に主への批判となり、受け入れられないことも多かったのです。

こうして、孔子は職を辞し、弟子を連れて諸国を巡礼する旅に出たのでした。孔子と言えば、この頃のイメージが強いかもしれませんね。
帰国後の彼は歴史書の編纂にいそしみますが、この間に息子や愛弟子たちを相次いで失い、その晩年は失意に満ちていたようです。そして前479年、74歳でこの世を去ったのでした。

知ってた?これも孔子の言葉

孔子の言葉を弟子がまとめたものが「論語」ですが、思想ってなんだか難しい…とお思いの方も多いと思います。しかし、意外にも身近な言葉が「論語」由来だったりするんですよ。

「温故知新」はその筆頭。「故(ふる)きを温(たず)ねて新しきを知る」、つまり昔のことを学んで新しい知識を得るという意味ですね。

また、「巧言令色」という言葉も孔子から出たものでした。「口先だけの言葉でこびへつらうこと」という意味ですが、孔子は「巧言令色、鮮(すくな)し仁」と説いています。つまり、口先でいいことばかり言ってへつらう者は、仁(思いやり)の心が欠けているということですね。「仁義」を重んずる儒教の考えでは、このような人物などあってはならないと孔子は考えていたのでしょう。

論語からではありませんが、「良薬口に苦し」という言葉も孔子由来です。文字通りの意味もありますが、その続きがあり、「良薬は口に苦けれども病に利あり。忠言は耳に逆らえども行いに利あり」となるのです。「良薬は苦いけれども病に効くが、同様に、自分のためにしてくれる忠告は耳に痛いけれども、それが行いを正してくれる」というわけですね。この後、臣下の意見を聞いた古代の名君によって国が栄えたこと、人のいいなりとなった王が国を滅ぼしたことを付け加えていますが、自分の意見に耳を貸さない君主が多いと暗に嘆いていたのかもしれません。

現代の私たちにもしみる孔子の言葉

孔子の言葉を読み返してみると、現代に生きる私たちでも「なるほど」とうなずけるものが多いことがわかります。
もちろん、個人も尊重すべきですが、孔子の説いた礼や仁義の思想は、今の社会でも円滑な人間関係に大きな意味を成すと考えていいと思います。もし行き詰ったら、孔子の言葉を紐解いてみてはいかがでしょうか。
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