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項羽はどうして劉邦に負けたのか?最強でありながら自滅した理由

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中国史でも圧倒的なヒーロー・項羽

司馬遼太郎の著書「項羽と劉邦」でおなじみの項羽。圧倒的な強さは中国史上でも指折りで、そのヒーロー的要素から人気も高く、三国志の登場人物並みに多くの逸話や伝説が残ります。しかし、なぜその彼が、地方役人上がりの劉邦に屈することとなったのでしょうか。
その理由は、あまりにも強すぎたこと。そして、「匹夫の勇」と「婦人の仁」と評された彼の性格によるものでした。
では、これから彼の生涯とその為人を探り、劉邦に敗れたわけを解説していきたいと思います。


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楚のエリート家系に生まれて

項羽が生まれたのは前232年。祖父・項燕は中国南方の大国・楚で大将軍を務めており、まさに彼は楚のエリートとして歩むはずでした。
しかし、秦の始皇帝の中国統一の戦において、項燕は戦死してしまい、やがて楚自体も滅亡に追い込まれます。そして、項羽は叔父の項梁に育てられることとなったのです。

少年時代の項羽は、手習いにも剣術にも身が入らない問題児だったそうです。
しかし、「自分の名前が書ければそれで十分。剣術は相手が一人しかいないから面白くない。だから、万人を相手にするようなことがしたい」と項羽少年は常日頃から口にしていました。すでにこの時、彼は将来のビジョンは持っていたようです。おそらく、秦への恨みも忘れはしなかったことでしょう。

転機が訪れたのは前210年。圧倒的な力で中国を統一した始皇帝が死去すると、二世皇帝による悪政、側近の権力乱用により、秦は混迷の一途を辿ります。さらに、各地の不満分子が次々と蜂起し、それは天下を揺るがす動乱へと拡大していったのです。
それに乗じた項羽は、叔父・項梁と共に会稽(浙江省紹興市付近)を抑えると、8千の兵を率いて秦への反旗を翻したのでした。

彼らの進撃はまさに破竹の快進撃と呼ぶにふさわしいものでした。実は、項羽は生涯70回余りの戦をしていますが、敗北はたった1度。いかに彼が強かったかがお判りになるかと思います。
そして秦の軍を蹴散らし、見事首都・咸陽(陝西省)に入城することとなったのです。

大胆すぎる作戦と非情な一面

彼が強かったのは、彼自身の強さだけでなくその用兵術にもありました。
兵力だけなら圧倒的な秦の軍に対して、彼は、川を渡った後にすべて船を沈め、3日分の食料を残して他は焼き払ってしまいます。こうして退路を断つことで、兵を死にもの狂いで戦わせ、勝ったのです。かなり強引なやり方ではありますが、誰にも想像できない作戦は項羽だからこそ考え付くものでした。カリスマ性も備えていたからこそ、この時はみな項羽に従ったのです。

しかし、彼には残忍な一面がありました。
相手にした敵は、降伏してもすべて皆殺しにし、その土地の領民までも手にかけることがしばしばあったんです。捕虜20万を生き埋めにしたこともありました。
投降してきた秦王一族も皆殺しにし、咸陽を焼き払い財宝を略奪するという暴挙にも出ています。また、挙兵の際に担ぎ出した楚王の末裔までも暗殺してしまい、自ら「西楚の覇王」と名乗ったのです。

ここまでは何とか順風満帆な項羽の覇王への道でしたが、彼はある存在をあまりに軽く見ていました。
それが、項梁と彼が挙兵して間もなく連合軍に加わってきた地方の下っ端役人・劉邦だったんです。
この男こそ、項羽が生涯唯一の敗戦を喫することになる人物でした。

項羽と劉邦

項羽が秦の都・咸陽へ入城しようとした時、何とすでに別働隊の劉邦がこの地に入っていました。
当然、先を越されてないがしろにされたと項羽は激怒し、劉邦を攻め殺そうとしました。
しかしここで、項羽の伯父・項伯が両者を取り成すため酒宴を開きます。項羽の参謀・范増はこの場で劉邦を暗殺しようと項羽に耳打ちしていましたが、劉邦のあまりにへりくだった態度に、項羽は殺す気をなくしてしまったんです。これが「鴻門の会」の故事となるわけですね。もちろん、劉邦の態度には演技も入っていたんですが、これを項羽は見抜けなかったんですよ。そこが、彼の人間としての甘さでした。

そして劉邦をみすみす逃がしてしまった項羽は、やがて劉邦と対決することとなります。これが「楚漢戦争」の始まりでした。
項羽の乱暴なやり方に反発した分子による反乱は、あちこちで起きました。項羽はそれを討伐に行き、行けば行ったで強いから勝てるわけなのです。が、いかんせんモグラ叩きのように起きる反乱に、だんだん追い込まれていきました。そのうちに、劉邦の連合軍の方が項羽軍よりはるかに多くの兵力を有するようになったのです。
それでも、項羽は何度も劉邦軍を蹴散らしていました。劉邦軍50万に対し3万の軍勢で勝ったこともあります。しかし、とどめを刺すには至らなかったのです。これもまた、彼の詰めの甘さであり、時勢がすでに劉邦に向いていることの証でした。

加えて、項羽は決定的な別れを経験します。それが、参謀・范増の出奔でした。
何だかんだとついてきてくれたこの参謀に去られたことで、項羽は頭脳を失ったも同然になってしまいました。もう少しだけでも、范増の意見を容れていれば…という局面がいくつもありました。そのひとつが、鴻門の会で劉邦を見逃してしまったことだったんですね。
とにかく、項羽は「俺様」であり、「俺ファースト」な人物でした。それが、結果として人心の離反につながっていってしまったのです。
一方、劉邦の元には有能な人材が続々と集まりましたが、その中には元は項羽に仕えていたものの殺されそうになったり、重く用いてもらえなかったりした者がいたんですよ。

項羽と劉邦の戦い「楚漢戦争」、実は両者だけの争いではなかった!?

前206年から前202年にかけての楚漢戦争の主役・項羽と劉邦は、始皇帝没後に弱体化した秦の混乱の中から登場しました。
では、彼らが本格的に戦争状態に突入するまでを少しご説明しましょう。

項羽は南の大国・楚の名門家系に生まれ、叔父と共に挙兵し、その強さを余すところなく発揮して秦軍に大勝します。しかし、敵に対してかなり残酷な一面を持っていたため、彼に叩きのめされた者たちの中には、不満を持つ者もいました。

一方、劉邦は地方の下級役人の出身で、決して項羽のような武勇の持ち主ではありませんでしたが、兄貴肌で人望には恵まれており、周りに担がれる形で反乱軍へと参加します。彼の下には、後に張良や韓信、蕭何など綺羅星のごとき人材が集うようになりました。

当時、秦の都・咸陽付近は「関中」と呼ばれ、古代よりここを制した者が王であるとも言われる重要な場所でした。
そこへ、劉邦の軍が項羽を差し置いて先に入城してしまったのです。もちろん項羽は激怒し、劉邦を斬ろうとしましたが、彼の卑屈すぎるほどへりくだった態度に矛を収めてしまい、みすみすライバルを排除するチャンスを失うことになったのです。

そして項羽は秦を滅亡させ、故郷の彭城(徐州)に都を置き、自ら「西楚の覇王」と称して諸侯たちに領土を分配したのです。しかし、自分と親密な者を優遇するやり方に不満を持つ分子は多くおり、僻地である漢中(陝西省)に封じられた劉邦などもやがて彼に反抗することとなります。

幾つもの火種がくすぶる中、前206年、斉(山東省)で項羽への反乱が起きると、各地にそれが飛び火します。また、項羽がかつての主でもある楚の懐王を殺害したことを、劉邦は挙兵の口実とし、諸侯へ反・項羽の兵を挙げるよう促したのでした。これが楚漢戦争の始まりです。

攻める項羽、逃げる劉邦

斉の反乱に項羽が手を焼く間に、劉邦は漢中から出撃して関中を手に入れます。いったんは項羽に恭順姿勢を見せつつも、項羽が斉に苦戦すると見るやいなや、劉邦は諸侯と連合し、50万の大軍をもって項羽の本拠地・彭城を落としたのです。
しかし、この大勝に油断した連合軍は、元々まとまりのないものだったため、急いで帰還した項羽軍3万に蹴散らされます。劉邦は子供を馬車から突き落として逃げようとしたほどの大敗であり、父と妻を項羽に捕らえられてしまいました。

しかし、逃げた劉邦は前204年、?陽(河南省鄭州市)で籠城戦を行い、項羽軍の攻撃をしのぎます。結果として防ぎ切れずに関中へといったん退却することとなりますが、この間に劉邦に仕える策士・陳平の謀略により、項羽から軍師・范増を引き離すことに成功しました。これが、項羽の力を大いに削ぐ結果となります。

関中へ退却した劉邦は、蕭何らの後方支援によって軍を建て直します。また、かつて項羽に用いられず、劉邦に仕えるようになった韓信がここで活躍。蕭何にも「国士無双」と評された彼は、項羽を「匹夫の勇、婦人の仁」と一刀両断し、彭城の戦いでの大敗によって劉邦から離反した勢力(西魏・趙・斉など)の討伐に当たり、そのすべてに勝利を収めて大きな貢献を果たします。
この時、韓信が取った策のひとつが、「背水の陣」として現代に伝わっています。

項羽と劉邦と拮抗できる勢力・韓信

韓信は斉を手に入れ、やがて劉邦に斉王として認められます。つまりは、韓信は項羽と劉邦にも対抗できる勢力となったわけです。
韓信の参謀・?通は項羽の西楚・劉邦の漢と並び立ち、天下を三分すべしと進言しますが、劉邦に一応の恩義を感じていた韓信はそれに踏み切ることはありませんでした。

しかし、韓信が完全に劉邦に服従していたわけではないことがわかります。
前203年に項羽と劉邦が一旦は形ばかりの和睦を結んだ際、盟約を破って項羽を追撃しようとした劉邦は韓信らに援軍を要請しますが、韓信は来ませんでした。というのも、恩賞が確約されていなかったからです。このように、要請を一蹴することもできる、一筋縄ではいかない勢力となっていたのでした。

ただ、劉邦が張良の進言により恩賞を約束すると、韓信は30万もの軍を率いて劉邦を救援に現れます。これを劉邦は大いに使い、ついに10万の項羽軍を垓下(安徽省)に追いつめたのでした。これが「垓下の戦い」です。

劉邦が張良ら家臣の意見を容れたからこそ、韓信は劉邦の味方についたわけです。人をうまく使いこなす策を献じた張良、それを容れる度量を持った劉邦、そして約束通りの働きはしてみせる韓信。ある意味でバランスが取れていたからこそ、劉邦の漢軍が勝機をつかんだということですね。

項羽の最期と楚漢戦争の終結

垓下での夜、項羽は自軍を囲む四方から、故郷・楚の歌が聞こえてくるのを確認します。これほど多くの楚人が劉邦に味方しているとは…と、彼は運命が尽きたことを悟ったのでした。これが「四面楚歌」の故事ですね。
そして、項羽は勝利を諦め、逃亡を図ります。追っ手が迫る中、1人で100人を斬るというすさまじい抵抗を見せますが、それでも、もはや彼の運命を変えることはできませんでした。
川の渡し場の長に、早く逃げるようにと勧められても、もう項羽は覚悟を決めていたのです。
追っ手の中に見知った顔を見つけると、彼は「この首をくれてやろう」と言うなり自刎して果てたのです。項羽の死体には、褒美を求めた兵たちが殺到し、結局は首と手足を5人が分け合うことになったそうです。

そして、最後まで降らなかった魯(山東省南部)を劉邦が服従させ、楚漢戦争は終結したのでした。

劉邦は、項羽を手厚く葬った一方で、項羽の伯父には劉姓を与えて家を存続させ、項羽の部下を登用しました。敗者へのこうした態度こそ、劉邦が天下を取れた理由だったのです。

前202年、諸侯たちの推挙により、劉邦は皇帝に即位します。漢・高祖の誕生でした。

さて、韓信ですが、項羽のかつての部下をかくまったことで劉邦と不仲となり、彼の出世を妬んだ輩による讒言によって栄光から転落し、ついには劉邦に反旗を翻します。しかし彼に王たる度量はなく、斬られて最期を遂げることとなりました。

やはり、人の上に立つ者には何よりも度量の広さが求められるということが、楚漢戦争を見ているとよくわかります。毛色の異なる人材を幅広く用い、敗者に寛大な対処を行うことのできた劉邦こそ、最初から勝者だったのではないかとも思えるほどです。

垓下の戦いと最期

前203年、項羽はついに垓下(安徽省北部)で劉邦軍に包囲されました。
すると、四方から項羽の故郷・楚の歌が聞こえてきます。それを耳にした項羽は、こんなにも楚人が劉邦側についているとは…と自分の敗北を悟りました。これが「四面楚歌」の故事です。

そして覚悟を決めたこの夜、彼は愛妾・虞美人を傍に呼び、家臣たちと最後の宴を催しました。その席で、彼は虞美人への思いを詩に詠んでいます。彼女はこの後自殺したとも行方不明になったとも言われていますが、彼女の墓に咲いたヒナゲシの花を、別名「虞美人草」と呼ぶようになったのでした。

夜が明けると、項羽はわずかな兵を率いて包囲網を突破し、何とか長江の渡し場までたどり着きます。しかし、追っ手はすぐに追いついてきました。
そこで彼は「自分が滅びるのは天命によるもの。決して自分が弱いからではない」と渡し場の役人に言い残し、追っ手の只中へと駆けて行きました。
そして、敵の中に旧知の者を見つけると、「お前にこの首をくれてやろう」と自ら首を掻き切って最期を遂げたのです。享年31。

諦めさえしなければ、劉邦のように何度でもどん底から這い上がる粘り強ささえあれば、彼は再起できたはずです。しかし、彼は捨てるべきプライドを捨て去ることはできず、死を選ぶしかなかったんですね。潔さの漂う最期ではありましたが、彼のこうした為人こそ、彼を最後まで真の英雄にすることはできなかった理由でしょう。

けれど、鮮烈に散った彼の生き様は、私たちを魅了します。欠点さえも魅力になるほどの強さを持った猛将・項羽。天下を取れなかったからこそ、私たちは彼に引きつけられてしまうのでしょうね。
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