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項羽と劉邦の戦い「楚漢戦争」、実は両者だけの争いではなかった!?

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項羽と劉邦の戦い「楚漢戦争」、実は両者だけの争いではなかった!?

前206年から前202年にかけての楚漢戦争の主役・項羽と劉邦は、始皇帝没後に弱体化した秦の混乱の中から登場しました。
では、彼らが本格的に戦争状態に突入するまでを少しご説明しましょう。

項羽は南の大国・楚の名門家系に生まれ、叔父と共に挙兵し、その強さを余すところなく発揮して秦軍に大勝します。しかし、敵に対してかなり残酷な一面を持っていたため、彼に叩きのめされた者たちの中には、不満を持つ者もいました。

一方、劉邦は地方の下級役人の出身で、決して項羽のような武勇の持ち主ではありませんでしたが、兄貴肌で人望には恵まれており、周りに担がれる形で反乱軍へと参加します。彼の下には、後に張良や韓信、蕭何など綺羅星のごとき人材が集うようになりました。

当時、秦の都・咸陽付近は「関中」と呼ばれ、古代よりここを制した者が王であるとも言われる重要な場所でした。
そこへ、劉邦の軍が項羽を差し置いて先に入城してしまったのです。もちろん項羽は激怒し、劉邦を斬ろうとしましたが、彼の卑屈すぎるほどへりくだった態度に矛を収めてしまい、みすみすライバルを排除するチャンスを失うことになったのです。

そして項羽は秦を滅亡させ、故郷の彭城(徐州)に都を置き、自ら「西楚の覇王」と称して諸侯たちに領土を分配したのです。しかし、自分と親密な者を優遇するやり方に不満を持つ分子は多くおり、僻地である漢中(陝西省)に封じられた劉邦などもやがて彼に反抗することとなります。

幾つもの火種がくすぶる中、前206年、斉(山東省)で項羽への反乱が起きると、各地にそれが飛び火します。また、項羽がかつての主でもある楚の懐王を殺害したことを、劉邦は挙兵の口実とし、諸侯へ反・項羽の兵を挙げるよう促したのでした。これが楚漢戦争の始まりです。

攻める項羽、逃げる劉邦

斉の反乱に項羽が手を焼く間に、劉邦は漢中から出撃して関中を手に入れます。いったんは項羽に恭順姿勢を見せつつも、項羽が斉に苦戦すると見るやいなや、劉邦は諸侯と連合し、50万の大軍をもって項羽の本拠地・彭城を落としたのです。
しかし、この大勝に油断した連合軍は、元々まとまりのないものだったため、急いで帰還した項羽軍3万に蹴散らされます。劉邦は子供を馬車から突き落として逃げようとしたほどの大敗であり、父と妻を項羽に捕らえられてしまいました。

しかし、逃げた劉邦は前204年、?陽(河南省鄭州市)で籠城戦を行い、項羽軍の攻撃をしのぎます。結果として防ぎ切れずに関中へといったん退却することとなりますが、この間に劉邦に仕える策士・陳平の謀略により、項羽から軍師・范増を引き離すことに成功しました。これが、項羽の力を大いに削ぐ結果となります。

関中へ退却した劉邦は、蕭何らの後方支援によって軍を建て直します。また、かつて項羽に用いられず、劉邦に仕えるようになった韓信がここで活躍。蕭何にも「国士無双」と評された彼は、項羽を「匹夫の勇、婦人の仁」と一刀両断し、彭城の戦いでの大敗によって劉邦から離反した勢力(西魏・趙・斉など)の討伐に当たり、そのすべてに勝利を収めて大きな貢献を果たします。
この時、韓信が取った策のひとつが、「背水の陣」として現代に伝わっています。

項羽と劉邦と拮抗できる勢力・韓信

韓信は斉を手に入れ、やがて劉邦に斉王として認められます。つまりは、韓信は項羽と劉邦にも対抗できる勢力となったわけです。
韓信の参謀・?通は項羽の西楚・劉邦の漢と並び立ち、天下を三分すべしと進言しますが、劉邦に一応の恩義を感じていた韓信はそれに踏み切ることはありませんでした。

しかし、韓信が完全に劉邦に服従していたわけではないことがわかります。
前203年に項羽と劉邦が一旦は形ばかりの和睦を結んだ際、盟約を破って項羽を追撃しようとした劉邦は韓信らに援軍を要請しますが、韓信は来ませんでした。というのも、恩賞が確約されていなかったからです。このように、要請を一蹴することもできる、一筋縄ではいかない勢力となっていたのでした。

ただ、劉邦が張良の進言により恩賞を約束すると、韓信は30万もの軍を率いて劉邦を救援に現れます。これを劉邦は大いに使い、ついに10万の項羽軍を垓下(安徽省)に追いつめたのでした。これが「垓下の戦い」です。

劉邦が張良ら家臣の意見を容れたからこそ、韓信は劉邦の味方についたわけです。人をうまく使いこなす策を献じた張良、それを容れる度量を持った劉邦、そして約束通りの働きはしてみせる韓信。ある意味でバランスが取れていたからこそ、劉邦の漢軍が勝機をつかんだということですね。

項羽の最期と楚漢戦争の終結

垓下での夜、項羽は自軍を囲む四方から、故郷・楚の歌が聞こえてくるのを確認します。これほど多くの楚人が劉邦に味方しているとは…と、彼は運命が尽きたことを悟ったのでした。これが「四面楚歌」の故事ですね。
そして、項羽は勝利を諦め、逃亡を図ります。追っ手が迫る中、1人で100人を斬るというすさまじい抵抗を見せますが、それでも、もはや彼の運命を変えることはできませんでした。
川の渡し場の長に、早く逃げるようにと勧められても、もう項羽は覚悟を決めていたのです。
追っ手の中に見知った顔を見つけると、彼は「この首をくれてやろう」と言うなり自刎して果てたのです。項羽の死体には、褒美を求めた兵たちが殺到し、結局は首と手足を5人が分け合うことになったそうです。

そして、最後まで降らなかった魯(山東省南部)を劉邦が服従させ、楚漢戦争は終結したのでした。

劉邦は、項羽を手厚く葬った一方で、項羽の伯父には劉姓を与えて家を存続させ、項羽の部下を登用しました。敗者へのこうした態度こそ、劉邦が天下を取れた理由だったのです。

前202年、諸侯たちの推挙により、劉邦は皇帝に即位します。漢・高祖の誕生でした。

さて、韓信ですが、項羽のかつての部下をかくまったことで劉邦と不仲となり、彼の出世を妬んだ輩による讒言によって栄光から転落し、ついには劉邦に反旗を翻します。しかし彼に王たる度量はなく、斬られて最期を遂げることとなりました。

やはり、人の上に立つ者には何よりも度量の広さが求められるということが、楚漢戦争を見ているとよくわかります。毛色の異なる人材を幅広く用い、敗者に寛大な対処を行うことのできた劉邦こそ、最初から勝者だったのではないかとも思えるほどです。
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