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「二代目はツラいよ」曹丕のいいトコ・悪いトコ徹底解説!

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偉大すぎる父・曹操の影で…

曹操の息子・曹丕は、魏王としては2代目ですが、実は彼が魏王朝の皇帝としては初代なんですよ。
偉大なる父・曹操の存在のせいか、彼はどうしても比べられ、悪評高い人物とされているのが一般的。しかし、彼にもいいところはありました。魏の初代皇帝として、彼の治世はとても安定していたのです。
もちろん悪いところもありましたが、それは人間ですからね…。

できるだけフラットな目で、曹丕という人物を紹介し、いいところも悪いところも知っていたければと思います。

どこまでも付いて回る「曹操の息子」のレッテル

曹丕が生まれたのは187年。父は曹操、母は卞氏で、実質上の三男でした。幼い頃から文武に優れていたと言われています。
まだこの頃の曹操は魏を建国したわけでも何でもなく、後漢衰退のきっかけとなる黄巾の乱を平定したばかりでした。

しかし、197年、曹操の跡継ぎと目された長兄の曹昂が、曹操の身代わりとなって戦死してしまいます。すると、曹昂の育ての母であり曹操の正室だった丁氏がそれに怒り、曹操と離婚してしまったのです。
このため、曹丕の実母・卞氏が曹操の正室となり、曹丕は嫡子の座につくことができたのでした。

以後、曹丕は父の片腕として副丞相に任命され、時には留守を任されるまでになります。曹丕が留守役をしている間、曹操は劉備や孫権と熾烈な戦いを繰り広げていたわけですね。

そして、217年に曹丕はついに太子となり、正式に曹操の後継者として認められます。この時すでに彼は30歳になっていました。
太子の座を巡っては、同母弟の曹植と争ったとも伝わっています。曹操が文才あふれる曹植を寵愛したということもありますが、酒好きで型にはまらない曹植よりも、常に冷静で判断力を失わない曹丕を結局後継者に据えたのは、自然の成り行きとも考えられます。

魏王から皇帝へ

220年に曹操が亡くなると、曹丕は魏王の座を継ぎました。そして同年、まだ一応は健在だった後漢の献帝から禅譲を受け、正式に皇帝として即位したのです。これが、魏王朝の成立でした。ということはつまり、曹丕が魏の初代皇帝というわけになるんですね。後の文帝です。

禅譲という、皇位を譲り渡す形ではありますが、半ば迫るようにして奪ったという感は否めません。すでにこの時の後漢は末期的であり、献帝はただの人も同然でしたから…。
禅譲の際、曹丕は18回も辞退した末にようやく受けたという話ではありますが、こうした場合にいったん辞退するのは形式的によくあることで、とりあえず簒奪ではないということを後の世にも伝えるためだったと考えられます。

とはいえこうして皇帝となった曹丕。
実は、ここからが歴史上では「三国時代」となるんですよ。
ふだん、私たちが三国時代と想定している「三国志(演義)」の世界は、あくまで後漢末期のことなんですね。
曹丕が皇帝となったことを受けて、221年には劉備が、229年には孫権が皇帝を自称しています。

皇帝としての曹丕の手腕

曹丕は3回ほど呉に対して外征を行いましたが、この点に関しては成功したとは言い難いかもしれません。

ただその一方で、彼が力を入れたのは内政でした。
後漢末期に王朝を衰退に追い込んだ原因を徹底的に排除したのです。

宦官の出世を制限したり、太后への直接の上奏を禁じたり、外戚の政治関与を禁じたり…と、後漢末期に起きたことすべては禁じられました。
また、九品官人法というものを制定し、官僚となる有能な人材獲得に乗り出しました。これは、今までの地方主導で人材が登用され中央に送られていたシステムを、政府に任命された役人が人物を9等に分けて評価し、直接政府に推挙するという政府主導型に変えたのでした。

こうした内政尽力により、曹丕の治世は短いながらも安定していました。そのため、蜀の諸葛亮による北伐も、曹丕の没後にしか決行されることはなかったのです。

司馬懿という得難い人材らを登用し基盤を固めた彼ですが、即位後の206年、風邪をこじらせて肺炎にかかり、そのままあっけなく死を迎えてしまいます。享年39と、あまりにも早すぎる死でした。
彼がもう少し長生きしていたら、魏の行く末も違ったのかもしれない…そう思います。

曹丕の悪評の原因 1.妻・甄氏への仕打ち

曹丕の評判があまり良くないことは最初に述べましたが、その原因のひとつが、妻・甄氏への仕打ちです。

元々、曹操と対抗した袁紹の息子の妻だった甄氏ですが、曹操が袁氏を攻めた際、父に先んじて敵方へ乗り込んだ曹丕が彼女に一目ぼれし、連れて帰り妻としたのでした。
曹丕と甄氏の間には一男一女が生まれますが、やがて曹丕の寵愛は新たな側室へと移っていきます。
甄氏がそのことに対して恨みごとをつい漏らすと、それが曹丕の癇に障ったのか、彼は激怒し、彼女に死を命じたのでした。

甄氏が恨みごとのひとつも言いたくなるのもわかります。しかしそれに対しての返答が死とは…曹丕の冷酷さが垣間見えてしまったわけです。
救いといえば、彼女の息子・曹叡が次の皇帝になれたことでしょうか…。

曹丕の悪評の原因 2.于禁への仕打ち

かつて曹操に仕えた重臣・于禁は、蜀の関羽に降伏した後、呉へ引き渡されていました。そして、老いた彼が呉から送還されてくると、曹丕は彼を曹操の墓へ連れて行きます。

するとそこには、関羽が勝ち、同僚だった?徳は降伏を拒否したのに対し、于禁が降った様子を描いた絵があったんです。
それを見た于禁は、恥と怒りに打ち震え、間もなく亡くなってしまったのでした。

曹丕は、かなり根に持つタイプで、陰険な部分があったことがうかがえます。

みなぎる文才と後世への影響

冷酷で陰険な部分があったとは言っても、曹丕は文人としては超一流でした。
父・弟と共に「三曹」と呼ばれ、詩作には相当の腕を持っていたのです。
詩に関して言えば、隋・唐以前の優れた文学作品集である「文選」に彼の詩が採用されていますし、その詩風も、性格とは裏腹に繊細で美しいものでした。夢見がち、とでも言えばいいのでしょうか。
実は、そうした彼の繊細さは、人付き合いにも表れており、いちど心を許せば身分の貴賤を問わずに親しく付き合ったということなんです。繊細だからこそ、自分を守るために冷酷であろうとしていたのかもしれません。

また、彼は中国史初の文学論「典論」を自ら著したことでも知られています。
ここに書かれている「文学は治国と同様の大事であり、文学が栄えれば国は安定し平和になる」という「文章経国」の思想は、やがて日本にも伝来し、桓武天皇・嵯峨天皇のころに取り入れられたのです。

冷酷で繊細、相反する2つの顔を持った皇帝

冷酷さが際立つ曹丕ですが、皇帝としては一流だったと考えて良いでしょう。
もう少し彼の在位期間が長ければ、司馬懿が台頭することもなかったか、あるいはもっと遅くなったのではないかと思います。
後に、曹丕はもう少し広い度量と徳さえあれば、古代の王たちと遜色ない名君になっただとうと評されています。確かにその通りだと思います。しかし、現代に生きる身としては、彼の欠点を見て「困った奴だな…」と苦笑してやりたいと思うのですが、いかがでしょうか。
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