西本願寺には御朱印もお守りもなく祈りも捧げない? 『他力本願』の教えとは
関連キーワード
京都駅から徒歩15分、市バスでは『西本願寺前』で下車すれば、西本願寺があります。
西本願寺は浄土真宗本願寺派の本山です。 正式な寺名は『本願寺』です。
境内にある建造物のほとんどが国宝や国の重要文化財に指定され、『古都京都の文化財』として世界遺産にも登録されている由緒あるお寺です。 しかし、西本願寺は『お西さん』と親しく呼ばれるまでたくさんの困難や試練がありました。 今回は西本願寺の歴史から教えや活動をご紹介します!
西本願寺は浄土真宗本願寺派の本山です。 正式な寺名は『本願寺』です。
境内にある建造物のほとんどが国宝や国の重要文化財に指定され、『古都京都の文化財』として世界遺産にも登録されている由緒あるお寺です。 しかし、西本願寺は『お西さん』と親しく呼ばれるまでたくさんの困難や試練がありました。 今回は西本願寺の歴史から教えや活動をご紹介します!
浄土真宗の教えは『他力本願』!?
『他力本願』というと、『他人に力にすがること』を言い、いい意味では使われません。
しかし、浄土真宗では『阿弥陀如来の本願(衆生のすべてを救いたいという思い)にすがり、極楽往生する』と説いたのが『他力本願』です。 ちなみに、阿弥陀如来は浄土真宗のご本尊です。
そして、『絶対他力』の思想のもと、『阿弥陀如来の本願を信じ、お任せし、阿弥陀如来に対し報恩感謝を称えて生活を送ること』を説いています。 さらに、『阿弥陀如来を信心することも自分からそうしたのではなく、阿弥陀如来からいただいたものだとしていて、信心をした時点で往生は決まっている』と、教えているのです。
では、本願寺の起こりをご紹介します。
浄土真宗の宗祖は親鸞(1173年~1262年)です。
親鸞は浄土宗の法然の弟子となり、専修念仏(ただひたすら念仏を唱えること)の門に入りました。 ところが、専修念仏を説いた法然たちは旧仏教教団から弾圧を受け、法然は四国に流罪、親鸞も越後に流罪され、還俗させられたのです。 そして、親鸞は豪族の娘・恵信尼と結婚しました。 当時、僧侶が結婚を公然とすることは画期的であり、禁じられていた肉食も解禁し、親鸞は自分を『頭を剃ったが、戒律を守れない愚か者=愚禿』だと言いました。 それから親鸞は42歳のころ、常陸(今の茨城県)に向かい、関東で『絶対他力』の思想を説いていきました。 62歳で娘の覚信尼とともに京都に戻り、目立った活動はせず、著述による指導することに専念しました。 そして、親鸞は90歳で亡くなりました。
覚信尼は親鸞の遺骨を大谷の地に石塔を建てて納めました。 10年後には、大谷の西側にある吉水の北に位置する地に六角の廟堂を建てて、親鸞の遺影を安置して遺骨も移しました。 覚信尼は廟堂の管理を自分の子孫があたるという了承を関東の門弟たちから得て、留守職として務めることにしました。 そして、覚信尼の孫・覚如が大谷廟堂を寺院化を試みて、『本願寺』が成立しました。
しかし、浄土真宗では『阿弥陀如来の本願(衆生のすべてを救いたいという思い)にすがり、極楽往生する』と説いたのが『他力本願』です。 ちなみに、阿弥陀如来は浄土真宗のご本尊です。
そして、『絶対他力』の思想のもと、『阿弥陀如来の本願を信じ、お任せし、阿弥陀如来に対し報恩感謝を称えて生活を送ること』を説いています。 さらに、『阿弥陀如来を信心することも自分からそうしたのではなく、阿弥陀如来からいただいたものだとしていて、信心をした時点で往生は決まっている』と、教えているのです。
では、本願寺の起こりをご紹介します。
浄土真宗の宗祖は親鸞(1173年~1262年)です。
親鸞は浄土宗の法然の弟子となり、専修念仏(ただひたすら念仏を唱えること)の門に入りました。 ところが、専修念仏を説いた法然たちは旧仏教教団から弾圧を受け、法然は四国に流罪、親鸞も越後に流罪され、還俗させられたのです。 そして、親鸞は豪族の娘・恵信尼と結婚しました。 当時、僧侶が結婚を公然とすることは画期的であり、禁じられていた肉食も解禁し、親鸞は自分を『頭を剃ったが、戒律を守れない愚か者=愚禿』だと言いました。 それから親鸞は42歳のころ、常陸(今の茨城県)に向かい、関東で『絶対他力』の思想を説いていきました。 62歳で娘の覚信尼とともに京都に戻り、目立った活動はせず、著述による指導することに専念しました。 そして、親鸞は90歳で亡くなりました。
覚信尼は親鸞の遺骨を大谷の地に石塔を建てて納めました。 10年後には、大谷の西側にある吉水の北に位置する地に六角の廟堂を建てて、親鸞の遺影を安置して遺骨も移しました。 覚信尼は廟堂の管理を自分の子孫があたるという了承を関東の門弟たちから得て、留守職として務めることにしました。 そして、覚信尼の孫・覚如が大谷廟堂を寺院化を試みて、『本願寺』が成立しました。
西本願寺と東本願寺?
さて、これまで本願寺の成立をご紹介しましたが、今回ご紹介している西本願寺の東側に『東本願寺』があるのはご存じでしょうか?
実は本願寺が成立した後に、浄土真宗は東西に分裂してしまうのです。 覚如が本願寺を成立したのちは一時衰退してしまう浄土真宗でしたが、『中興の祖』を言われる第8宗主・蓮如による布教活動のおかげで、浄土真宗の名を広めることができました。
ところが、比叡山が反発し、本願寺も襲撃されたりと被害を受けることになるのです。 蓮如は越前吉崎(福井県)に逃げ、道場を構えるようになりました。 すると、たくさんの人々が参詣し、信仰が広まっていきました。 蓮如は京都の山科に本願寺を再建し、五男の実如に任せ、自分は大坂に寺を建てて隠居しました。これが後の石山本願寺になります。 室町時代の末期には、勢力を拡大している本願寺に対してまたも圧力が加わるようになりました。 石山本願寺では織田信長と11年も戦いました。(石山合戦) ついに第11代宗主・顕如は石山本願寺を明け渡し、和歌山の鷺森に移りました。 ところが、長男の教如は最後まで信長に対抗しようとしていて、顕如は教如と親子の縁を切ってしまったのです。 親子の縁を切られた教如は、それでも石山本願寺に立てこもり抵抗しました。しかし、結局戦いに破れ、石山本願寺は焼かれてしまいました。
その後、『本能寺の変』で信長が自害すると、後陽成天皇は顕如に「教如との親子の縁を再び結んではどうか?」と提案します。 縁を再び取り戻した顕如と教如は一緒に住むようになり、石山本願寺の末寺だった貝塚(大阪府)の願泉寺に移りました。 そして、豊臣秀吉の寺地寄進を受け、寺を大坂の天満に移しました。 秀吉は京都市街の経営計画を打ち出し、再び本願寺は京都に戻ることになりました。 顕如亡き後、教如が跡を継ぎますが、弟の准如が跡を告ぐという顕如の遺言が残されており、教如は隠退して『裏方』と呼ばれるようになりました。 そして、教如や強硬派の僧侶や末寺は本願寺を離脱しました。 関ヶ原の戦い後、教如は徳川家康から京都の烏丸七条に寺地を寄進してもらい、お寺を建てました。 これが『東本願寺(大谷派)』です。
こうして、本願寺は『西本願寺』と『東本願寺』に分かれ、現在ではおもだった10の宗派は『真宗十派』と呼ばれています。
実は本願寺が成立した後に、浄土真宗は東西に分裂してしまうのです。 覚如が本願寺を成立したのちは一時衰退してしまう浄土真宗でしたが、『中興の祖』を言われる第8宗主・蓮如による布教活動のおかげで、浄土真宗の名を広めることができました。
ところが、比叡山が反発し、本願寺も襲撃されたりと被害を受けることになるのです。 蓮如は越前吉崎(福井県)に逃げ、道場を構えるようになりました。 すると、たくさんの人々が参詣し、信仰が広まっていきました。 蓮如は京都の山科に本願寺を再建し、五男の実如に任せ、自分は大坂に寺を建てて隠居しました。これが後の石山本願寺になります。 室町時代の末期には、勢力を拡大している本願寺に対してまたも圧力が加わるようになりました。 石山本願寺では織田信長と11年も戦いました。(石山合戦) ついに第11代宗主・顕如は石山本願寺を明け渡し、和歌山の鷺森に移りました。 ところが、長男の教如は最後まで信長に対抗しようとしていて、顕如は教如と親子の縁を切ってしまったのです。 親子の縁を切られた教如は、それでも石山本願寺に立てこもり抵抗しました。しかし、結局戦いに破れ、石山本願寺は焼かれてしまいました。
その後、『本能寺の変』で信長が自害すると、後陽成天皇は顕如に「教如との親子の縁を再び結んではどうか?」と提案します。 縁を再び取り戻した顕如と教如は一緒に住むようになり、石山本願寺の末寺だった貝塚(大阪府)の願泉寺に移りました。 そして、豊臣秀吉の寺地寄進を受け、寺を大坂の天満に移しました。 秀吉は京都市街の経営計画を打ち出し、再び本願寺は京都に戻ることになりました。 顕如亡き後、教如が跡を継ぎますが、弟の准如が跡を告ぐという顕如の遺言が残されており、教如は隠退して『裏方』と呼ばれるようになりました。 そして、教如や強硬派の僧侶や末寺は本願寺を離脱しました。 関ヶ原の戦い後、教如は徳川家康から京都の烏丸七条に寺地を寄進してもらい、お寺を建てました。 これが『東本願寺(大谷派)』です。
こうして、本願寺は『西本願寺』と『東本願寺』に分かれ、現在ではおもだった10の宗派は『真宗十派』と呼ばれています。
浄土真宗にはお守りも御朱印もない!?
実は、西本願寺にはお守りや御朱印はありません!
ご本尊の阿弥陀如来は常に私たちを見守り、救おうとしてくれています。その願いの中で私たちは生きているので、お守りは必要ないという考えだからです。 生活の中で感謝の気持ちを持つことを大切にしています。 また、御朱印はありませんが、参拝記念スタンプはありますので、参拝した時はスタンプを押してみましょう。
それから浄土真宗は、亡くなった時に仏の弟子だと証明する戒名も『法名』と言います。
そして、法名は仏門に入りながらも社会生活を営む人に授けられる名前のことです。 亡くなってからの名前ではなく、現世で授かることで阿弥陀如来の願いに救われ、生かされていることを常に心に留めておくための名前なのです。
また、祈りを捧げない宗教でもあります。
『自分たちの身勝手な願いを阿弥陀如来に託すより前に、すでに阿弥陀如来が衆生を救おうとしているので祈る必要はない』と、説いています。 自分以外の人の祈りでも、『他人も阿弥陀如来が救おうとしているので祈らなくても大丈夫、感謝するとよい』と、しています。
ご本尊の阿弥陀如来は常に私たちを見守り、救おうとしてくれています。その願いの中で私たちは生きているので、お守りは必要ないという考えだからです。 生活の中で感謝の気持ちを持つことを大切にしています。 また、御朱印はありませんが、参拝記念スタンプはありますので、参拝した時はスタンプを押してみましょう。
それから浄土真宗は、亡くなった時に仏の弟子だと証明する戒名も『法名』と言います。
そして、法名は仏門に入りながらも社会生活を営む人に授けられる名前のことです。 亡くなってからの名前ではなく、現世で授かることで阿弥陀如来の願いに救われ、生かされていることを常に心に留めておくための名前なのです。
また、祈りを捧げない宗教でもあります。
『自分たちの身勝手な願いを阿弥陀如来に託すより前に、すでに阿弥陀如来が衆生を救おうとしているので祈る必要はない』と、説いています。 自分以外の人の祈りでも、『他人も阿弥陀如来が救おうとしているので祈らなくても大丈夫、感謝するとよい』と、しています。
心のより所にしてほしい・・・本願寺の「いのちと念仏」相談センターとは?
阿弥陀如来の慈悲を広めた浄土真宗では、『教学相談』や『心の悩み相談』を受け付けています。
西本願寺総合研究所の『いのちと念仏』相談センターの専用ダイヤルにて、浄土真宗の教えから家族のこと、人生のこと、様々な悩みを聞いていただけます。 どうぞ、1人で抱え込まずにまず、電話してみてくださいね。
○教学相談(真宗学や仏教学について)
075ー371ー5024
○心の悩み相談(家族関係や人生の不安、ただ話を聞いてほしい・・・など)
075ー371ー5811
いかがでしたか。
西本願寺は末寺が1万を越え、信者の数もほかの宗派より一番多いお寺です。
京都にたくさんあるお寺の中でも人気のお寺で、京都駅からのアクセスも便利、国宝もたくさんあります。 ぜひ、京都へ旅行に行った際にはぜひ参拝してくださいね!
■所在地
〒600ー8501
京都市下京区堀川通花屋町下ル
西本願寺総合研究所の『いのちと念仏』相談センターの専用ダイヤルにて、浄土真宗の教えから家族のこと、人生のこと、様々な悩みを聞いていただけます。 どうぞ、1人で抱え込まずにまず、電話してみてくださいね。
○教学相談(真宗学や仏教学について)
075ー371ー5024
○心の悩み相談(家族関係や人生の不安、ただ話を聞いてほしい・・・など)
075ー371ー5811
いかがでしたか。
西本願寺は末寺が1万を越え、信者の数もほかの宗派より一番多いお寺です。
京都にたくさんあるお寺の中でも人気のお寺で、京都駅からのアクセスも便利、国宝もたくさんあります。 ぜひ、京都へ旅行に行った際にはぜひ参拝してくださいね!
■所在地
〒600ー8501
京都市下京区堀川通花屋町下ル