金沢からくり屋敷「忍者寺」不思議な仕掛けがいっぱいの人気スポットを大紹介!

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石川県金沢市にある忍者寺。
もっとも、忍者が住んでいたからではなく、建物の中が仕掛けの多い構造になっているためそんな通称がつけられました。 正式名称は妙立寺といい、今から400年前に建てられました。

連日多くの人が訪れ、金沢の名所になっています。 しかし、なぜ忍者寺ができたかご存じですか? なぜ、仕掛けが多いのか? 今回はその謎を解きながら、魅力を伝えていきます!!

なぜ、”忍者寺”ができたのか?

妙立寺の山号は正久山といい、宗派は日蓮宗です。日蓮の法孫・日像作の祖師像を安置しています。
天正13年(1583年)、加賀藩藩祖・前田利家が金沢城に入城した際、藩を守護するための祈願所を城内に建立したのが始まりです。 寛永20年(1643年)、加賀藩第三代藩主・前田利常が祈願所を運上町に移し、建立したのが妙立寺でした。 当時、加賀藩は百万石の外様大名で徳川幕府の監視下にありました。 いつ征伐があってもおかしくない……そんな緊張状態の中、利常は幕府の軍勢を迎え撃つ準備もしていました。 数々の寺院は金沢城を挟む犀川と浅野川の外側に移され、城の防備としました。 妙立寺も能登石動山、新堅町、そして現在地へと移され、監視所として移築されました。 そのため、妙立寺は敵を欺くため複雑な造りとなったのです。

そして、戦火を逃れられた妙立寺は開運の祖師として、藩主や前田家家臣から崇拝されました。 また、身分や宗派を問わず、多くの人々が参拝し、『常題目(常に日蓮宗の南無妙法蓮華経が唱えられている)の妙立寺』として多くの人々に愛され続けました。 今ではその複雑な構造がおもしろいと人気を呼び、金沢の名所のひとつとして名前があがっています。

忍者寺の見所とは?

妙立寺はいったいどんな構造になっているのか?
当時、幕府の命令で3階建て以上の建造物を造ることを禁止していました。 妙立寺は見た目は2階建てになっていますが、中は4階建ての7層になっていています。 そして、中2階、中々2階があり、部屋の数はなんと23、階段数は29もあるのです。 堂内は撮影が禁止のため、写真はありませんが見所をご紹介します!

○賽銭箱
本堂の正面入口に埋め込められていて、落とし穴として利用できる仕掛けになっています。その深さはなんと2m以上。落ちると大けがをしかねません。

○隠し階段
物置の引き戸を開け、床板を外すと階段があります。 この階段で外に逃げることができ、外から逃げてきた時には引き戸を閉めて開けないようにします。

○落とし穴階段
本堂左脇にある第2の落とし穴。階段群にある廊下部分の床板をはずすと、落とし穴になっています。この落とし穴は下男部屋に通じており、待ち伏せしている下男に攻撃される危険な穴です。 また、脇にある出入り口は2枚の引き戸があり、左側を開けると外につながり、右側を開けると奥の部屋に続く廊下になっています。 敵が捜索している間に、藩主が逃げることができる構造になっているのです。

○明かりと階段
正面の突き当たりにある階段の蹴込み部分に障子が貼られています。 明かりを採ると、階段の裏側から敵の足影が写るので槍などで突くことができます。

○井戸
坪庭には井戸があり、金沢城へ続く穴があるという伝説があります。 ただ、本当に確かめた人はまだいないそうです。

○武者溜まりの間
中2階にあり、12畳の広さに5つも出口がある部屋です。 押入の奥には階段があり、掛け軸をめくると隠し小部屋もあります。 また、窓からは坪庭に降りることができます。

○謁見の間
襖を隔てて、武者溜まりの間の裏にあります。歴代の藩主が用いられた部屋で、5畳半の大名茶室があります。

○切腹の間
武者溜まりの間から押入の奥の階段をあがると、途中に『切腹の間』があります。 この戸はどんでん返しになっていて、内側からは開けられません。 また、天井も低いため介錯ができません。 切腹の覚悟を決めて入るため、開けられない構造になっているのですね。 しかしながら、実際使われた記録はないといいます。

○茶室『霞の間』
切腹の間の階段を上がり、3階にあるのがこの茶室です。 刀や槍が使えないように、天井が低く作られているのが特徴です。 そして、押入には4階に続く階段があります。 見た目は2階建てですが、4階まであるとは徳川幕府も思っていなかったでしょう。

堂内は迷う構造になっていることはもちろん、一度入ったら出られない部屋もあり、大変危険です。 拝観の際にはガイドさんの言うことを守り、見学してくださいね!

近くにある兼六園にも行ってみよう!

妙立寺から北に進むと、兼六園があります。兼六園は日本三名園のひとつです。
延宝4年(1676年)、加賀藩第4代藩主・前田綱紀が、作事所を城内に戻し自身の別荘を建て、周りを庭園にしたのが始まりだと言われています。 兼六園は季節ごとに姿が変わり、桜や梅、紅葉の名所となっています。

また、兼六園周辺には石川県立美術館や金沢21世紀美術館があり、観光にはもってこいの場所になっています。 ぜひ、金沢に行った際には訪れてみてくださいね!

いかがでしたか?
妙立寺は金沢の観光名所です。 敵に侵入されないための工夫が施され、緊迫した歴史を感じることができます。 戦国の世を生き抜いた前田家が編み出した技術をご覧になってください。 金沢へは北陸新幹線の開通でアクセスが大変便利になっています。 ぜひ、遊びにいってくださいね!

■所在地
〒921ー8031
石川県金沢市野町1ー2ー12

■拝観料
大人(中学生以上)1000円
小学生700円

■拝観時間
9:00~30分毎に説明案内をしてくれます。
※要予約
入場は予約時間の10分前なので、余裕を持って行きましょう。
最終入場時間は16:30(冬季は16:00まで)
受付は3ヶ月前から

不思議な仕掛けがいっぱい!からくり屋敷の忍者寺!

日蓮宗について

からくりにばかり目が行ってしまい、お寺であることが忘れられがちな忍者寺。
れっきとした日蓮宗の寺院になりますが、日蓮宗について理解されていない読者さんもいらっしゃると思いますので、初めにここで日蓮宗について解説をしておきたいと思います!

日蓮宗は鎌倉時代に日蓮が開いた宗派であり、「法華経」を絶対の教え(妙法)とし、永遠の真理として生き続ける久遠の釈迦を本仏とします。
この本仏・妙法に基づいて積極的な実践を行い、究極的にはそれに基づいた仏国土を現実に建設することを理想とします。そのため、国家が一丸となって「法華経」を信仰することを説きます。
また、日蓮は「法華経」を信じない者からは施しも受けず、施しもしない、という「不受不施」の思想も説きました。このことは「法華経」を取り入れない国家への対決姿勢として現れ、「不受不施」を厳格に守った宗派は江戸時代にキリシタンとともに激しい弾圧に会いました。
日蓮が没した後は、6人の本弟子を定めて日蓮の菩提を弔いつつ、その教えを継ぎました。
その後、日蓮宗は様々な分派に分かれながら、現在に継承されていくこととなります。
元を辿れば、在家信仰団体の霊友会や創価学会なども日蓮宗に基礎を置いているとされています。

歴史

まずは忍者寺と呼ばれるようになった背景など、妙立寺の歴史を紹介します!

1643年に前田利常が金沢城近くから移築建立したのが
妙立寺の始まりとされており、多くの武士が居住することができる寺院群(これが現在の寺町寺院群です)を新築し、その監視所的な役割として妙立寺が建立されました。
そのため、
妙立寺は複雑な建築様式で建てられており、隠し階段・隠し部屋・落とし穴・見張り台・金沢城へ続く地下通路など外敵から身を守るための様々な仕掛けがあります。その建物全体の複雑さゆえに、今日では「忍者寺」の別称を持つに至っています。
現在でも身分や宗派を超えて数多くの参拝者が訪れており、「常題目の
妙立寺」として親しまれてきました。

忍者寺の見どころ

それでは、忍者寺の歴史、そして日蓮宗についてを理解して頂いたところで、忍者寺の見どころを紹介していきたいと思います!数々のからくりは必見ですよ!

・本堂
忍者寺のメインの建物です。実は本堂にも仕掛けが隠されており、外見から見ると2階建てに見えるのですが、内部は4階建ての7層構造となっており、29の階段と23の部屋が存在します。これは、当時幕府の命令で3階建て以上の建物を建立することが禁じられていたからとされています。禁止されていたからこそ、外観からはわからないように4階建ての本堂を建立したのですね!

こちらの本堂の中にからくりがたくさん仕掛けられています。では、からくりを1つ1つ紹介していきます!
・仕掛け賽銭箱
本堂に入ると正面にすぐ見えるのがこの仕掛け賽銭箱です。入口からすぐが落とし穴になっており、先鋒の足軽を落とすことが目的とされていました。しかし、現在は一般参拝客のために閉鎖されています。

・落とし穴階段
入口の仕掛け賽銭箱の落とし穴に続き、本堂の階段群の渡り廊下に落とし穴階段が存在します。一見普通の床に見えますが、床板を外すと階段が現れます。この階段は下男部屋に通じており、外敵がこの落とし穴に落ちると階下の下男部屋で待ち構えていた家来に攻撃されるという仕組みになっています。

・隠し階段
一見すると物置の入口のような場所ですが、戸を開けて床板をまくると屋外へ脱出できる階段が現れます。

・井戸
寺の中心に位置する井戸は深さ25メートルで、途中には金沢城へと通じる抜け道である横穴が空いているとされています。敵に攻められた際の逃げ道であったと伝えられており、その証拠に各部屋はこの井戸を中心に設計され、どの部屋からもロープを用いてこの井戸に逃げ込むことができます。

・二枚戸
2枚並んだ戸のうち、左側は外に通じ、右側は奥の部屋に続く廊下に続いています。

・武者隠し
本堂の本尊の右手の部屋が、武者隠しと呼ばれている部屋です。明るい本堂から中の様子が見えにくく、逆に本堂中からは明るい本堂が見渡せるようになっており、ここに家来が隠れて、本堂になにかあればいつでも飛び出して相手を襲撃することができます。

さて、からくりがいっぱいの忍者寺、いかがでしたでしょうか?
金沢観光に行った際には、にし茶屋街を散策するついでに是非とも訪れてみてくださいね!
事前予約もお忘れなく!

<基本情報・アクセス>
※忍者寺の入寺には事前予約が必要なため、下記の電話番号に連絡して、あらかじめ予約をするのを忘れないようにしてくださいね!

住所:石川県金沢市野町1-2-12
TEL:076-241-0888(要事前予約)
ホームページURL:
http://www.myouryuji.or.jp/
拝観時間:9:00~16:30
拝観料:1000円(未就学児の入寺は不可)
アクセス:北鉄バス・広小路バス停下車徒歩3分
駐車場:極楽寺駐車場を利用とのこと(75分500円)

金沢の観光名所といえば、なぜかしら忍者寺です

金沢で観光するときは、日本三名園の一つ兼六園、国の重要文化財の石川門がある金沢城などを思い浮かべますが、なぜかしら忍者寺が人気です。北陸新幹線の開業でぐっと身近になった金沢を観光するなら、ぜひ忍者寺に足を運んでみてください。

これが忍者寺?見た目は普通のお寺ですが?!

忍者寺を作った2代目藩主前田利常の時代背景とは

「加賀100万石」で有名な加賀藩は、豊臣政権の五大老の一人であった前田利家が一代で築き上げたものです。
毎年石川県金沢市で開催される「金沢百万石まつり」は、加賀藩の祖である前田利家が、天正11年(1583年)6月14日金沢城に入城したことにちなんだもので、入城の行列を再現したまつりとして知られています。家督を継いだのは、前田利家の長男である前田利長です。利長は関ヶ原の戦いでは現地へ出陣する事はありませんでしたが、東軍について北陸の関ヶ原とも言える浅井畷(あさいなわて)の戦いなどで西軍の丹羽長重に勝利します。
利長はその武勲により、外様大名でありながら加賀、越中、能登を合わせて122万5千石を所領する日本一の加賀藩主となったのです。この間すべてが順風満帆だったわけではありません。前田利家、利長ともにこの時代の覇者である徳川家康とは一触即発の状態でした。利長は慶長4年(1599年)父利家が病死したあとその跡を継いで五大老の一人になりますが、党派抗争が激化して反徳川の急先鋒的立場となってしまいます。
慶長の危機といわれるこの局面では、実母のまつ(利家の妻)を江戸の家康に人質として差し出し、異母弟で養嗣子としていた利常と家康の孫娘珠姫(たまひめ、徳川秀忠の娘)の婚約で難を逃れます。この時利常は6歳、珠姫は3歳です。
慶長10年(1605年)に44歳の若さで利長は隠居し、12歳の利常が家督を継いで加賀藩第2代藩主となります。慶長19年(1614年)利常が21歳の時に大坂冬の陣で、姻戚関係にある徳川方として参戦して大坂方の真田信繁軍と戦います。
元和9年(1623年)に利常の義弟でもある徳川家光が将軍となります。
寛永8年(1631年)には前将軍秀忠の病中にもかかわらず、利常は金沢城を補修したり他国より船舶を盛んに購入したりしたため、寛永の危機といわれる謀反の嫌疑をかけられる事件が起こりますがここもなんとか乗り切ります。
利常は寛永16年(1639年)46歳の時に嫡男の光高に家督を譲り、家光の制止も聞かずに小松に隠居しますが依然として権力は握ったままです。利常は寛永20年(1643年)金沢城内にあった藩を守護する祈願所を移し、忍者寺の別称を持つ
妙立寺を運上町に創建します。
加賀藩は諸大名の中でも最大の102万5千石を所領し、極官も他の大名よりも高く伺候席も大廊下であるなど御三家に準ずる待遇であり、将軍家にとっては他の外様大名とは別格の扱いでした。にもかかわらず、外様で最大の所領を有していたために常に監視下に置かれていたのです。
これまでにいくつもの危機を乗り越えてきたとはいえ、徳川幕府の圧力に常にさらされかなりの緊張状態であったと想像できます。

どうして忍者顔負けのお寺ができたのでしょう

こうした背景にあって前田利常は、金沢の街を中心として徳川幕府の軍勢を迎え撃つ準備を整えていきます。
福井
方面から幕府軍が侵攻すると想定して、現在の犀川大橋以外には橋を架けず渡し船を使う周到さです。
金沢城を挟む犀川と浅野川の両河川の外側には、多くの武士が起居できる寺町寺院群を新築しその中心に監視所として妙立寺を据えたのです。万一の時に備えて、寺町寺院群に出城の役目を持たせたわけです。
お寺は2階建ての外観ですが内部は4階建て7層の作りで中2階、中々2階があり、本堂の屋根の望楼は見張り台として常に加賀平野を監視できました。
お寺の内部には、落とし穴として利用される仕掛け賽銭箱や外敵の足影を見て槍などで攻撃する明かりとり階段、階下へ逃げる通路が隠された隠し階段、本堂階段群にある落とし穴、いくつもの隠し部屋などがあります。これらの各種の仕掛けが施された
妙立寺は、忍者寺の名にふさわしいお寺なのです。

今は観光名所になっている忍者寺ですが、徳川幕府を恐れこの地を必死で守ろうとする加賀藩の本気度がわかりますね。忍者寺に入場するには電話予約が必要ですが、当日空きがあれば当日の入場もできます。建物を保存するために、各時間に定員があり定員になり次第締め切りとなります。堂内を同伴してくれる案内人の説明を聞きながら建てられた当時をしのんでください。

金沢の観光名所といえば、なぜかしら忍者寺です

これが忍者寺?見た目は普通のお寺ですが?!

忍者寺を作った2代目藩主前田利常の時代背景とは

「加賀100万石」で有名な加賀藩は、豊臣政権の五大老の一人であった前田利家が一代で築き上げたものです。
毎年石川県金沢市で開催される「金沢百万石まつり」は、加賀藩の祖である前田利家が、天正11年(1583年)6月14日金沢城に入城したことにちなんだもので、入城の行列を再現したまつりとして知られています。家督を継いだのは、前田利家の長男である前田利長です。利長は関ヶ原の戦いでは現地へ出陣する事はありませんでしたが、東軍について北陸の関ヶ原とも言える浅井畷(あさいなわて)の戦いなどで西軍の丹羽長重に勝利します。
利長はその武勲により、外様大名でありながら加賀、越中、能登を合わせて122万5千石を所領する日本一の加賀藩主となったのです。この間すべてが順風満帆だったわけではありません。前田利家、利長ともにこの時代の覇者である徳川家康とは一触即発の状態でした。利長は慶長4年(1599年)父利家が病死したあとその跡を継いで五大老の一人になりますが、党派抗争が激化して反徳川の急先鋒的立場となってしまいます。
慶長の危機といわれるこの局面では、実母のまつ(利家の妻)を江戸の家康に人質として差し出し、異母弟で養嗣子としていた利常と家康の孫娘珠姫(たまひめ、徳川秀忠の娘)の婚約で難を逃れます。この時利常は6歳、珠姫は3歳です。
慶長10年(1605年)に44歳の若さで利長は隠居し、12歳の利常が家督を継いで加賀藩第2代藩主となります。慶長19年(1614年)利常が21歳の時に大坂冬の陣で、姻戚関係にある徳川方として参戦して大坂方の真田信繁軍と戦います。
元和9年(1623年)に利常の義弟でもある徳川家光が将軍となります。
寛永8年(1631年)には前将軍秀忠の病中にもかかわらず、利常は金沢城を補修したり他国より船舶を盛んに購入したりしたため、寛永の危機といわれる謀反の嫌疑をかけられる事件が起こりますがここもなんとか乗り切ります。
利常は寛永16年(1639年)46歳の時に嫡男の光高に家督を譲り、家光の制止も聞かずに小松に隠居しますが依然として権力は握ったままです。利常は寛永20年(1643年)金沢城内にあった藩を守護する祈願所を移し、忍者寺の別称を持つ
妙立寺を運上町に創建します。
加賀藩は諸大名の中でも最大の102万5千石を所領し、極官も他の大名よりも高く伺候席も大廊下であるなど御三家に準ずる待遇であり、将軍家にとっては他の外様大名とは別格の扱いでした。にもかかわらず、外様で最大の所領を有していたために常に監視下に置かれていたのです。
これまでにいくつもの危機を乗り越えてきたとはいえ、徳川幕府の圧力に常にさらされかなりの緊張状態であったと想像できます。

どうして忍者顔負けのお寺ができたのでしょう

こうした背景にあって前田利常は、金沢の街を中心として徳川幕府の軍勢を迎え撃つ準備を整えていきます。
福井
方面から幕府軍が侵攻すると想定して、現在の犀川大橋以外には橋を架けず渡し船を使う周到さです。
金沢城を挟む犀川と浅野川の両河川の外側には、多くの武士が起居できる寺町寺院群を新築しその中心に監視所として妙立寺を据えたのです。万一の時に備えて、寺町寺院群に出城の役目を持たせたわけです。
お寺は2階建ての外観ですが内部は4階建て7層の作りで中2階、中々2階があり、本堂の屋根の望楼は見張り台として常に加賀平野を監視できました。
お寺の内部には、落とし穴として利用される仕掛け賽銭箱や外敵の足影を見て槍などで攻撃する明かりとり階段、階下へ逃げる通路が隠された隠し階段、本堂階段群にある落とし穴、いくつもの隠し部屋などがあります。これらの各種の仕掛けが施された
妙立寺は、忍者寺の名にふさわしいお寺なのです。

今は観光名所になっている忍者寺ですが、徳川幕府を恐れこの地を必死で守ろうとする加賀藩の本気度がわかりますね。忍者寺に入場するには電話予約が必要ですが、当日空きがあれば当日の入場もできます。建物を保存するために、各時間に定員があり定員になり次第締め切りとなります。堂内を同伴してくれる案内人の説明を聞きながら建てられた当時をしのんでください。
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