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破天荒で実は臆病?福沢諭吉の履歴書『福翁自伝』"

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一万円札のおじさん、福沢諭吉。お財布に入っていると嬉しく、お別れするのはちょっとさびしい福沢諭吉さんですが、諭吉さんがどんなおじさんだったか、ご存知でしょうか。多くの場合は、慶應義塾の創設者、あるいは「天は人の上に人を造らず人の下に人を造らず」(『学問のすすめ』)を言った人、というように記憶されていると思います。日本史を勉強した方ならば、咸臨丸で洋行し、『西洋事情』や『文明論之概略』を通じて開明派として幕末から明治にかけて活躍した人物というイメージをお持ちだと思います。

しかし、福沢諭吉の人柄はほとんど知られていません。人柄を知るには伝記を読むのが一番。幸いなことに私たちには、福沢諭吉本人が波乱万丈の人生をカジュアルな口調で回顧した『福翁自伝』が残されています。自伝文学の傑作『福翁自伝』から、歴史の教科書やお札からは決してうかがえない、大胆不敵で本当は臆病な諭吉の人柄が伝わるエピソードをご紹介します。

引用文は『福翁自伝』(富田正文校訂、岩波文庫、2008年改版)に拠り、『福翁自伝』がもともと口述であったことと読みやすさを考慮して、一部漢字をひらがなに直しています。 なお、現在のお札は2024年度上半期までで刷新されることになっています。新一万円札には「日本の資本主義の父」と呼ばれる渋沢栄一が採用されます。

1. お札を踏む福沢諭吉

福沢諭吉はとにかく合理主義者だったようです。幼少期からその片鱗を見せています。諭吉12歳のころの話。兄が反故を整理しているところを諭吉が通ります。すると兄が諭吉を一喝。諭吉が踏んでしまったのは、殿様の名前の書いてあったお札(おふだ)だったのでした。ペコペコ謝る諭吉ですが、心の中では「殿様の頭を踏みはしなかろう、なのに書いてある紙を踏んだからって構うことはなさそうなものだ」(p.25)、とケロッとしています。

殿様のお札がダメなら神様のお札も踏んではならないのか?と疑問に思った諭吉は、神様の名前のあるお札を持ち出してきてわざと踏みつけます。そして一言。「ウム、何ともない」そしてさらに一言。「コリャ、面白い、今度はこれを手水場に持っていってやろう」そして、便所でも何もないことを確認した諭吉は一人満足するのでした。(p.26)

成長して度胸のよくなった諭吉はさらに大胆な行動に出ます。あるときは稲荷の社に祀られている石をその辺に転がっている石と交換し、またあるときは、ご神体の木の札も捨て、祭りのときには諭吉が交換したその辺の石をそうとは知らずに町人が拝んでいるのをみて嬉しがる。諭吉曰く、「幼少期のときから神様が怖いだの仏様が有難いだのいうことはちょいともない」(p.26)。のちに儒教を厳しく批判することになる福沢の片鱗が、早くも表れているエピソードです。福沢諭吉は小さいときから福沢諭吉だったのでした。

2. お酒とタバコと福沢諭吉

福沢諭吉が好きで好きでやめられなかったのがお酒。若いころ、勉強のかたわらお酒を楽しみ、朝昼晩、ときを構わず飲むほどの酒豪ぶりを見せた諭吉ですが、30代になると健康のためにと、禁酒を決心します。そして「口と心と相反して喧嘩をするように争いながら」酒の量を減らしていき、3年かけて人並みの量で満足できるまでになったそうです。

お酒に関する失敗談もあります。諭吉が禁酒を決心したときのこと。諭吉が酒を飲まないことを不審に思った適塾の仲間は「いつまで続くやら」とバカにします。なかには、こんなことを言う者もいました。「たとえ悪いことでも、いきなり禁ずるのは体によくない。どうだ、酒の代わりにタバコをやってみないか」

諭吉はタバコが大嫌いで、「こんな無益な不養生なわけの分からなぬものをのむ奴の気が知れない」(p.92)などと思っていましたが、塾仲間が親切にもタバコやらキセルをくれるので、それなら、とタバコを吸ってみることにしました。するとどうでしょう、はじめこそ不味くてたまらなかったタバコもだんだんと美味くなる。一ヵ月もすると諭吉はもう立派な喫煙者になっていました。実は、塾生仲間が諭吉にタバコを勧めたのは親切からではなく、日頃タバコを嫌っている諭吉めを喫煙者にしてやろう、という策略だったのでした。策略にまんまとはまった福沢諭吉、結局お酒のほうもやめられませんでした。前述のとおり、のちにお酒を減らすことには成功した諭吉でしたが、タバコとは生涯のつきあいとなってしまいました。そんな自身の喫煙について福沢諭吉はポツリと一言。「衛生のため自らなせる損害と申して一言の弁解はありません」(p.93)

3.ビビる諭吉

大胆な行動家のように見える福沢諭吉にも、実は臆病な一面もあります。『福翁自伝』において諭吉は自身の恥ずかしいところも赤裸々に語っています。

福沢諭吉は武士の生まれですが、実は血がダメでした。諭吉はこう言います。「私は少年の時から至極元気のいい男で、時として大言壮語したことも多いが、生まれつき気の弱い性質で、殺生が嫌い、人の血を見ることが大嫌い」(p.158)

採血のときには目をつぶり、怪我で血が出ると顔面蒼白、死人の話を聞くだけで気分が悪くなる、ロシアでは手術を見学して失神。とにかく血が嫌いな諭吉、どこか可愛らしくさえありますね。

ここで福沢諭吉の小心者エピソードをもうひとつ。江戸時代末期のこと。開国文明論の論者として知られた福沢諭吉は、いきおい、攘夷派に狙われることになりました。さあ、こうなったら昼夜を問わず暗殺のことで気が気ではありません。家には脱出用の逃げ道を押入に設け、外に出るときは偽名を語ります。とにかく暗殺が心配でたまらない諭吉にとって夜道は大敵です。しかし、あるとき集会が夜まで続き、新橋から新銭座までの夜道を諭吉ひとりで歩かなければならなくなります。キョロキョロと人影に注意しながら歩く諭吉でしたが正面からは人影が。逃げきれぬと観念し、あくまでも堂々とすれ違うことを決心し、お互い刀に手をあてた一触即発の戦闘体制でした。ところが、すれ違ってもお互い刀を抜きません。すっかり肝をつぶして走り逃げる諭吉でしたが、ふと後ろをみると先ほどの人影も一目散に逃げています。実は相手も臆病者だったのでした。そのすれ違った相手について諭吉は一言。「生きているなら会うてみたい」

4. 小ネタ

・福沢諭吉の肖像が一万円札に選ばれたのはなぜか。
お札の肖像はどのようにして決められるのでしょうか。国立印刷局のホームページ(http://www.npb.go.jp/)内の「お札に関するよくあるご質問に」コーナーはこうした質問に答えてくれています。肖像の選定に関しては、
「日本国民が世界に誇れる人物で、教科書に載っているなど、一般によく知られていること。」
「偽造防止の目的から、なるべく精密な人物像の写真や絵画を入手できる人物であること。」
を基準にして選ばれるそうです。また、二千円札を除いて人間の肖像画を使っているのは、「人の顔や表情のわずかな違いにも気がつくという人間の目の特性を利用」した、偽造を防ぐ狙いだそうです。

・慶應大学では『福翁自伝』が配られるらしい。
この記事のネタもとである『福翁自伝』ですが、福翁こと福沢諭吉が創設した慶應大学では、入学式において配布されるそうです。たとえば、[特集] 慶應義塾と福澤諭吉-今、改めて学ぶ(2)という慶應義塾のサイト内の1ページ(https://www.keio.ac.jp/ja/news/2015/osa3qr0000012hr0.html)には「入学時に配布された『福翁自伝』」と書かれています。近くに慶應大学に通っている・通っていた、方がいたら、本当かどうか聞いてみてください。

福澤諭吉は1835年(天保5年)12月12日、豊前中津藩(大分県中津市)の下級藩士である「福澤百助」の末子として、大坂にある藩の蔵屋敷にて誕生しました。

諭吉の名の由来は、諭吉の父・百助が、清国第6代皇帝「乾隆帝」在位中の法令を記録した、「上諭条例」を手に入れた晩に誕生したことから名付けたそうです。

そんな百助は、出張先の大坂で藩の勘定方として勤めていましたが、諭吉誕生の翌年に亡くなってしまったため、故郷の中津に戻ることになりました。

幼い時の諭吉は学問が嫌いでしたが、自分だけ学問に励まないのは世間体がよろしくないとの理由から嫌々始めたところ、いつの間にか頭角を現すようになり、「漢学者の前座ぐらい」は勤まるようになった。というのは本人の自伝より。

そんな諭吉は、漢籍だけではあき足らず、1854年(安政元年)19歳のときに長崎で蘭学を学び、1857年(安政4年)には大阪で蘭学者・緒方洪庵の開いた適塾の教頭を、最年少の22歳で勤めるなどさらに学問に磨きをかけます。

しかし1859年(安政6年)、黒船を受け入れた幕府の開港した横浜を訪れた諭吉は、そこにいる外国人達に驚いてしまいました。

何とそこでは蘭学のために学んだオランダ語が全く通じなかったのです。

代わりにそこでは「英語」が用いられており、看板の文字すら読めない諭吉は、これからの時代は英学を学ばねばならないと悟ります。そして幕府艦の咸臨丸がアメリカに派遣される話を聞いた諭吉は、従者としてアメリカに渡米することになりました。

そこで英語を学んだ諭吉は幕府の翻訳方として今度はヨーロッパに派遣され、先進国の文明をどんどん吸収して帰ってきます。

ときは幕末。海外事情に精通した諭吉は幕府の旗本に取り立てられましたが、討幕運動が盛んになるなかで新政府からの出仕を辞退し一切官職に就こうとしませんでした。

ここから諭吉は教育者として名を馳せていくことになるのです。

福澤諭吉の名著「学問のすすめ」

教育者となった諭吉は1868年(慶応4年)に、今も連綿と続く「慶應義塾」を開きます。

諭吉の著した「学問のすすめ」は、1872年(明治5年)から1876年(明治9年)に全17編にわたって著されたものを1880年(明治13年)に一冊に集約されたものを言います。

もともとは、故郷の中津に学校を開くにあたって著されたものでしたが、それを見た諭吉の友人が中津の人達だけに見せるのではもったいないと自身の慶應義塾で印刷して出版されました。

それが発行9年で何と70万冊の大ベストセラーとなりました。今より100年以上も昔にそこまで読まれた書物は「学問のすすめ」くらいだったのではないでしょうか。

「天は人の上に人を造らず……」からで始まるフレーズで有名な「学問のすすめ」ですが、ここでは諭吉がどのようなことを著していたのか現代語訳して何篇か紹介します。

第3編 愛国心のあり方

Q なぜ、駿河の今川義元は織田信長に討ち取られ、その後の今川家があっけなく滅んだのに対し、フランスはプロシアに滅ぼされかけても独立を維持できているのか?

A 駿河の民はただ義元一人にすがって自分は客人のつもりで駿河を自分の国と思うものがいなかったのに対して、フランスでは国を思うものが多く、国難を自ら引き受けて、自分の国のために戦ったからこのような違いが出たのだ。

独立の気概がないものは、必ず人に頼ることになる。人に頼るものは、必ずその人を恐れるようになる。人を恐れるものは、必ずその人にへつらうことになる。

第10編 学問にかかる期待

今、我が国で雇っている外国人は、わが国の学者が未熟であるため、しばらく代役で物事を教えているのである。

今、我が国で外国の製品を買うのは、我が国の工業レベルが低いために、しばらく金で代用しているのである。

外人を雇ったり、機械を買ったりするのに金を使うのは、我が国の学術がまだ西洋に及ばないために、我が国の財貨を外国へ捨てることと同じであり、国のためには惜しいことであり、学者としては恥ずかしいことである。

第12編 品格を高めるには

物事の様子を比較して上を目指し、決して自己満足せぬようにすることである。

第14編 世話の意味

世話という言葉には二つの意味がある。一つは「保護」であり、もう一つは「命令」である。

「保護」というのは、人がやることを見守り、時には守り、時には与え、時には時間を費やし、その人が利益や面目を失わないように世話することである。

「命令」とは、その人のためを考えて、その人の利益になるであろうことを指図して、ためにならないと思われることには意見をし、心から親切に忠告することだ。

これもまた「世話」という意味である。

第17編 交際はどんどん広げるべし

人間多しといえど、鬼でも蛇でもないのだ。わざわざこちらを害しようなどというものはいないものだ。

恐れたり遠慮したりすることなく、自分の心をさらけ出して、さくさくとお付き合いしていこうではないか!

交際の範囲を広くするコツは、感心を様々に持ち、あれこれをやって一所に偏らず、多方面で人と接することにある。

福澤諭吉が教えたかった事

「学問のすすめ」を何編か見ても分かる通り、諭吉は非常に実学を重視し、古来の日本人に蔓延していた、きれいごとの多い儒教的要素をほとんど排除した内容になっています。

福澤諭吉は「学問のすすめ」をはじめ、数々の著書をこの世に残しました。

「学問のすすめ」だけを取っても、現代でも十分に通用する内容がぎゅっと詰まっており、人生の道しるべに相応しい一冊となっています。

飾りを取り除き、生きるための「実学」を重視した福澤諭吉。
そんな福澤諭吉は学問を通じて西洋文明との橋渡しの役目に多大な貢献をした、近代日本のリーダーといっても過言ではありません。

日本国の一万円札の肖像画が福澤諭吉であること自体がその貢献を最も称えていると言えるでしょう。
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