京都最古のお寺! 広隆寺で歴史の深さを感じてみよう!!

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路面電車の京福電鉄嵐山本線に乗り、太秦広隆寺駅を降りるとすぐに広隆寺があります。
すぐそばには東映太秦映画村があり、観光客でにぎわっています。 広隆寺は真言宗で、京都に都が遷される前に創建されたと言われています。 日本の歴史書『日本書記』にも記述があることから、『京都最古の寺』だと言われていますが、何が有名かいまいちわからない……。
太秦は映画村しか知らない……。
という方々もいるかと思います。
そこで今回は、広隆寺の魅力や見どころをご紹介したいと思います!

広隆寺は聖徳太子ゆかりの寺だった!

広隆寺は聖徳太子が建てた7つの寺院『太子建立七大寺』のひとつに数えられています。 『日本書紀』によると、広隆寺の創建は推古天皇11年(603年)と言われています。 ただし、広隆寺の縁起にまつわる書物によると、聖徳太子の供養のために推古天皇30年(622年)に創建したとも言われていて、ハッキリとした時期はわかりません。

推古天皇11年に建てられたという説では、聖徳太子が「手元にある仏像を祀られる者はいないか?」と諸臣に聞いたところ、裕福な商人で朝廷の財政にも携わっていた秦河勝が「私がやりましょう」と引き受けて、広隆寺の前身である『蜂岡寺』を建てたと伝えられています。

正しい記述が残っているわけではありませんが、聖徳太子が言った『手元にある仏像』というのは、かつてのご本尊だった『弥勒菩薩』像でした。

広隆寺といえば、国宝指定第一号の弥勒菩薩像!!

広隆寺には国宝や重要文化財に指定されている仏像や建造物が数多くあります。 そして、国宝彫刻の部第一号として指定されたのが、この弥勒菩薩像です。 こちらは別名『宝冠弥勒』と呼ばれ、霊宝殿の中央に安置されています。 右手をそっと頬にあて、思索のポーズをとる弥勒菩薩は、ドイツの哲学者カール・ヤスパースが「人間実存の最高の姿」だと称し、その美しさに溜息がでるほどです。

ちなみに平安京遷都前後に広隆寺のご本尊は弥勒菩薩から薬師如来にかわり、現在は聖徳太子がご本尊となっており、秘仏です。 この像は本堂となっている上宮王院太子殿の内陣に安置されていて、毎年11月22日の『聖徳太子御火焚祭』の時だけご開扉されます。

そして、広隆寺にはもうひとつ弥勒菩薩像があり、同じく国宝に指定されています。 その像は通称『泣き弥勒』と呼ばれていて、宝冠弥勒とは違い、少し小ぶりです。 こちらも霊宝館に安置されています。
『泣き弥勒』の由来は、像の顔を見てもわかるように、困ったような悲しそうな顔をしていることからそう呼ばれるようになりました。 ちなみに、この泣き弥勒は聖徳太子の供養のために、生前から親交のあった新羅から送られたものではないか、と言われています。

いずれにしても、造られたのは飛鳥時代ですからとっても貴重な仏像です。 また、広隆寺は弘仁9年(818年)と久安6年(1150年)に火災に遭いましたが、仏像の多くは火から免れたという奇跡の仏像でもあります。

ぜひ、その貴重な仏像をひと目見てみてくださいね!

妊婦さん必見! 腹帯地蔵に安産祈願しよう!

広隆寺の南大門から入り、正面の赤堂の左側に『地蔵堂』があります。
地蔵菩薩は地獄に落ちた人にも手を差し伸べ、救うと言われています。 そして、この地蔵堂には『腹帯地蔵』が安置されています。 腹帯地蔵は、弘法大師空海が安産や子孫繁栄のために作ったと言われているのです。 妊婦さんは出産の時に、大変痛い思いをします……。
その痛みを引き受けてくれるのが、腹帯地蔵なのです。 大きな大きな慈悲を持つ腹帯地蔵。ぜひ、そのご利益を授かってください。

京都三大奇祭のひとつ・牛祭を見てみよう!

広隆寺には『牛祭』という不定期の祭があります。
牛祭は、鞍馬の火祭・今宮神社のやすらい祭とともに『京都三大奇祭』のひとつになっています。 元々、広隆寺の境内社であった大酒神社の祭礼でした。 大酒神社のご祭神は秦の始皇帝で、中国の王様だった人が祀られているという珍しい神社です。

その他には、弓月王、秦酒公が祀られ、相殿には兄媛命、弟媛命が祀られています。 仲哀天皇8年(356年)、始皇帝の12世孫にあたる巧満王が、始皇帝の神霊を勧請したのが大酒神社の始まりです。巧満は漢士の兵乱を避けて日本にやってきたため、「災難除け」や「悪疫退散」のご利益があります。 現在では広隆寺の東隣に鎮座していますが、明治時代の神仏分離が行われる前は広隆寺の桂宮院内に鎮座し、鎮守する神社でした。

そして、毎年10月12日(旧暦の9月12日)の夜に『牛祭』が行われていました。 お面をつけ、装飾をつけた摩(ま)多(た)羅(ら)神(じん)役の人が牛にまたがり、赤い鬼と青い鬼の仮面をつけた四天王が松明を持って従い、境内と周辺を回ります。 それから、薬師堂の前で独特の祭文を読み、終わると堂内にとびこんで五穀豊穣や悪魔退散を祈願しました。

牛祭の始まりは長和元年(1012年)までさかのぼります。
天台宗の僧侶・恵心僧都が、極楽浄土にいる阿弥陀如来を拝することができるように、と祈願していました。 そんなある夜、夢の中で「広隆寺の絵堂(現在の講堂)のご本尊を拝めばよい」というお告げを受け、広隆寺にお参りをしました。 夢のお告げに喜んだ恵心僧都は、阿弥陀の三尊の像を手彫りして常行念佛堂を建立して、念仏会を修しました。 そこで、念仏守護の神である摩多羅神を勧請して祈祷したのが、牛祭の始まりと言われています。

さて、この摩多羅神はとても謎の多い神様です。
一説では天台宗の一派であった玄旨帰命壇のご本尊だとか、阿弥陀経や念仏の守護神だとか、ミトラ教の太陽神・光明神であるミトラ神だとも言われています。 同じく阿弥陀如来も光明神なので、同じ性質のミトラ神が名前を変えて阿弥陀如来に習合したのではないか、と言われています。

牛祭は明治に入ってからは中断していましたが、復興してからは毎年行われていました。 ただ、現在は牛の調達が難しいため、不定期開催となっています。 三大奇祭のひとつとして貴重なお祭りですから、開催された時にはぜひ、見てみてくださいね!

いかがでしたか。
火災を免れた仏像や奇祭がある広隆寺は、京都の観光名所のひとつで人気の高いお寺です。 飛鳥時代の歴史を感じ取れ、いくつもの国宝や重要文化財を一度に見られるのは広隆寺だけではないでしょうか。 京都最古のお寺としてふさわしい姿を、ぜひご覧になってくださいね。

■所在地
〒616‐8162
京都府京都市右京区太秦蜂岡町32

■拝観料
なし
※ただし、霊宝殿の参拝料は有料
大人・大学生700円(団体30名~650円)
高校生500円(団体450円)
中学生・小人400円(団体350円)
未就学児無料

■拝観時間
9:00~17:00(12月~2月末は16:30終了)

飛鳥時代から俗世を見守る弥勒菩薩と広隆寺

京都市にある広隆寺は、聖徳太子にゆかりのある寺院。安置された弥勒菩薩半跏像は、飛鳥時代に作られた貴重な仏像として、国宝の第一号に指定されています。
日本の仏教の黎明期から続く広隆寺には、時代ごとの貴重な仏像や建築物が残され、日本の美術史がつまった寺院です。

仏教伝来の初期に作られた寺院

広隆寺があるのは京都市右京区太秦蜂岡町。最寄り駅のJR「太秦」駅からは徒歩13分、市バスや京都バスを利用すれば、「太秦広隆寺前」バス停より徒歩1分と、アクセスも良い場所にあります。

真言宗別格本山で山号は蜂岡山。蜂岡寺や太秦寺などの別称があります。寺院のある太秦は、渡来氏族の秦氏が古来より住んでいた土地で、秦氏と関わりの深い寺院です。広隆寺の元となった蜂岡寺を創建したのも秦河勝。蜂岡寺が建てられた経緯には、2つの説が唱えられています。

1つは聖徳太子から賜った尊仏を安置するため、秦河勝が自らの本拠地の太秦の蜂岡に建立したという説。もう1つは、聖徳太子が見た夢の話を聞いた秦河勝が、自分達の住む土地に似ていると太子を蜂岡へ連れて行った際、ハチの飛び交うその土地を気に入った太子が、楓野別宮と仮宮殿に定め蜂岡寺の建立を命じ、そこに安置する尊仏を下賜したというものです。いずれにせよ蜂岡寺の建立には秦河勝と聖徳太子が関わっているのは間違いないようです。

仏教の伝来と聖徳太子

日本に仏教が登場したのは、欽明天皇へ百済から経典が献上された552年と言われています。仏教の伝来により、神道を擁護し排仏を推した物部氏と、仏教を擁護する蘇我氏の二大勢力が対立するようになりました。仏教推進派の蘇我氏が勝利したことと、用明天皇が神道だけではなく仏法も学ぶようになり、仏教は次第に広く浸透していきます。

用明天皇に厩戸豊聡耳(ウマヤドノトヨトミミ)皇子が生まれたことで、仏教はその後隆興の一途をたどることになります。厩戸皇子は若干20歳で推古天皇の摂政宮(せっしょうのみや)を務め、その後30年にわたり政治や宗教を支えてきました。

とくに仏教への帰依は有名で、四天王寺・法隆寺・中宮寺・蜂岡寺・橘寺・池後寺・葛木寺の日本7寺と呼ばれる寺院を建立したことも知られています。

深いつながりを持つ秦氏と聖徳太子

秦氏が日本に渡来してきたのは、283年の応神天皇の御代の頃。弓月君が百済の国から大勢の人々を引き連れて渡ってきたのが最初とされています。秦氏は持ち前の土木技術で葛野の地を開拓し、養蚕をその地に広めていき、秦酒公の頃に大量の絹を天皇に献上しました。その際に「禹豆麻佐(うづまさ)」の号を賜り、のちの「太秦」の地名になったと言われています。

秦河勝は酒公から数えて6台目にあたる人物で、聖徳太子の側近として活躍しました。すでに太秦のある山城国一帯に勢力を広げていた秦氏は、蜂岡寺を建立したことでさらに位も上がり、ますます財力を蓄えていったようです。聖徳太子はこの財力を利用して仏教の伝播などの諸活動を行い、秦河勝は太子の威光で財産の保護と拡大を行ったというのが、二人の関係とみられています。

再建を任された道昌僧都

聖徳太子の系譜は残念ながら、その後蘇我氏によって滅ぼされてしまいます。蜂岡寺も818年(弘仁9)に堂塔・仏像・経典のことごとくを、不幸にして消失してしまいました。その再建にあたったのが、9代別当に任ぜられた道昌僧都でした。

道昌は秦氏の一族ですが、生まれたのは讃岐国。その地で仏道に帰依し、明澄や弘法大師に指示して真言宗をおさめました。その後39歳の時に蜂岡寺の別当に任ぜられます。偶然とはいえ、秦氏にゆかりのある蜂岡寺に住持するとは、なんとも不思議な因縁です。道昌は藤原氏の援助で、往時の伽藍をしのぐ立派な寺院を再建し、名も「広隆寺」と改めました。この時を広隆寺の中興開山としています。

弥勒菩薩半跏像などの文化財の宝庫

幾度も災厄に見舞われた広隆寺ですが、弥勒菩薩半跏像をはじめとする、飛鳥時代から江戸時代までの仏像や殿舎などの建造物の多くが、現在でも良い保存状態で残っています。その多くは国宝や文化財に指定され、その数は100を優に超えまさに日本美術史の宝庫です。重要な資料が残っているだけではなく、仏教を交流し文化の向上を図った、聖徳太子や秦氏の功業が偲ばれる点からも、重要な遺跡と言っていいでしょう。

弥勒菩薩半跏像は秦河勝が聖徳太子から賜ったと言われる貴重な仏像。蜂岡寺の創建時に登場する仏像と、同じものが現存しているとほぼ断定されています。貴重な飛鳥時代の仏像として、第一号に指定された国宝です。

広隆寺にはもうひとつ国宝に指定された弥勒菩薩像があります。同じく半跏思惟像なのですが、こちらの弥勒菩薩は目が潤み泣いているような姿勢に見えることから、なき弥勒とも呼ばれる宝冠弥勒です。年代特定が難しい仏像のようですが、どちらの弥勒菩薩もほぼ同時期の飛鳥時代に作られたと考えられています。

同じく国宝に指定されている「桂宮院本堂」は、鎌倉時代に建てられた法隆寺夢殿にも見られる八角堂。夢殿が大陸から伝わった姿を残しているのに対し、桂宮院本堂はより日本の住宅様式に近づいた建築になっています。聖徳太子をお祭りするにあたって、住みやすさが追求されたと考えられる建築物です。

薬師如来の守護神を務める十二神将像は、全国でも数少ない12体揃って平安時代に作られた像です。中でも広隆寺の十二神将は、表現に誇張が少なく優雅な姿が特徴です。特に宮毘羅(くびら)・安底羅(あんてら)・珊底羅(さんてら)・摩虎羅(まこら)の4体は、忿怒の表情に優れ、獅子のバランスも完全な、極めて出来の良い像と評価されています。

他にも講堂の阿弥陀如来像や、不空羂索観音像・千手観音像など、国宝だけでもかなり見応えのあるラインナップが揃っています。国宝以外の重要文化財を含めると、仏像専門の美術館を見ているようです。日本美術史の宝庫を巡りながら、古に思いをはせるひと時を味わえます。
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