千体千手観音像の煌びやかな姿に圧倒! 国宝・三十三間堂に行ってみよう!!

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京都に行くなら必ず行くべき!三十三間堂基礎知識

JR京都駅からバスに乗って行ける三十三間堂は、国宝に指定されている仏堂です。
一度消失したのものの、鎌倉時代に再建されたものが現存している、歴史の古い建物です。 特に有名なのが1000体もある千手観音像。
しかし、誰が何のために作ったのかご存知ですか? 今回はその謎と三十三間堂の魅力をたっぷりとご紹介します!

三十三間堂の歴史とは?

三十三間堂の創建は1165年(長寛2年)です。
正式名称を『蓮華王院本堂』と言い、京都市東山区にある天台宗妙法院の境外仏堂です。 ご本尊は千手観音で、『三十三』というのは、観音菩薩が33の姿になって衆生を救うことからきていて、お堂内陣の柱間も33ある作りになっています。

三十三間堂は平安時代後期、院政を行った後白河上皇が平清盛の資財協力を得て、創建されました。 ところが、80年後の1249年(建長元年)には火災で焼失してしまいます。 現在の本堂は、1266年(文永3年)に再建されたもので、堂内の花や雲文様の極彩色は今も名残があります。

『会いたい人の顔をした』千手観音像を探してみよう!

三十三間堂と言えば、整然と並ぶ1000体の千手観音立像です。
そして、1000体の千手観音立像に囲まれるように、ご本尊の千手観音坐像が安置されています。 42ある手は『千手』を表していて、全体に漆箔が施されています。 鎌倉時代の再建時に完成され、国宝にも指定されている大変貴重な仏像です。

1000体の千手観音立像は階段のようになった仏壇の各10段5列に500体ずつ並んでいます。 また、千手観音坐像の後ろにも1体あるので、正確には合計1001体あります。 1001体の千手観音立像にはそれぞれ40の手があり、1本の手は25種類の世界を救ってくれるものです。 ですから、千手観音菩薩は40×25=1000の救いをしてくれる、と言われています。 もともと、観音菩薩は宗派を問わず信仰されていて、その姿は出家する前の釈迦であると言われています。 また、観音菩薩は『大慈大悲』で衆生を救うことを本願としています。
大慈とは『他者に利益や安楽を与える』、大悲とは『苦を憐れんで取り除く』という意味です。 後白河上皇がいた平安時代末期は『末法の世』だと言われ、人々を救ってきた仏教が衰え、仏法が滅びると考えられていました。 そこで後白河上皇は、1000の救いをしてくれる千手観音を1000体作ることで、無限の大慈大悲で衆生を救う と考え、作らせたのです。 1000というのは数字ではなく、『無限』という意味があるのです。

そして、千手観音立像は1体1体が違った顔をしており、同じものはないと言われています。 『必ず会いたい人に似た像がある』と伝えられていて、参拝者の人々は仏像の顔を見つめながら、両親や兄弟・恋人など、会いたい人の顔に似た千手観音像を探します。
慶派や院派、円派の仏師たちが国家的規模で参加していた仏像作り。 煌びやかで見る者を圧倒させる千手観音像をぜひ、その目で確かめてみてください。

三十三間堂は頭痛持ちの強い味方!?

三十三間堂のご利益はなんと、『頭痛平癒』。 その由来は創建した後白河上皇にあります。

後白河上皇は大変な頭痛持ちだと言われ、悩んでいたそうです。
熊野参詣をした際に「頭痛が治りますように」とお願いしたところ、熊野権現という熊野の神様から「洛陽因幡堂の薬師如来に祈りなさい」というお告げがあったのです。 そこでさっそく、因幡堂に出向いてお願いをすると、後白河上皇の夢のなかに僧侶が現れ「あなたの前世は熊野の蓮華坊という僧侶でした。前世の行いのおかげで天王に生まれ変われたのですが、蓮華坊のドクロが岩田川の底に沈んだままなのです。その目から柳が生えて風が吹くと柳が揺れて頭を刺激するので頭痛が起きるのです」とお告げをしました。 後白河上皇が岩田川に遣いを向かわせると、本当にドクロがあったのです。

そして、三十三間堂の千手観音の頭部に納め、生えていた柳の木を三十三間堂の棟木に使用しました。 するとたちまち後白河上皇の頭痛は治り、以来、三十三間堂は『頭痛封じのお寺』として『頭痛山平癒寺』と呼ばれ、信仰されるようになりました。 ちなみに正式名称の『蓮華王院』とは、後白河上皇の前世である蓮華坊からとったものです。

そして、毎年1月中旬の日曜日には『楊枝のお加持大法要』が行われます。

この日は境内が無料開放され、観音菩薩に祈願した法水を楊枝で参拝者の頭に数滴降り注ぐ行事が行われます。 無病息災のご利益があり、後白河上皇の頭痛を治したことから特に頭痛平癒に霊験あらかたな行事となっています。
また、『頭痛封じのお守り』もあります。
頭痛にお困りの方はぜひ、平癒を祈願してみてください。

権力者と関連深い三十三間堂

宗教と権力。それはときに結び付き、ときに悲劇をももたらすことになります。ただ、権力者の気まぐれや利用がもとであっても、素晴らしい歴史的建造物、芸術作品として残るのはいいことでしょう。ずらっと千手観音像が並ぶ三十三間堂にも権力者が関わっていました。場所は京都市の東山区。またの名を、蓮華王院。名前からして荘厳ですが、内部はもっと権威が漂っています。

創設者は千手観音ファンの上皇

創設者は後白河法皇。千手観音の大ファンで、千手観音の化身とされる熊野権現に三十三回も参詣した人物です。
ちょっと歴史の話になりますが、平安時代末期頃より院政というものがはやりだしました。

当時政治は天皇が行っていたのですが、生前譲位が普通だったこともあり、「もうちょっと政治やりたい」との気持ちから「天皇を辞めても政治の一線から退かなくてもよい」との、ある意味画期的なアイディアを出したのが、白河天皇でした。ここから上皇という位が生まれて、「幼いうちに天皇の位を譲り、上皇が政治をする」のが当たり前になっていきました。

上皇が更に出家すると法皇と呼ばれるようになりますが、三十三間堂を作ったのが法皇なわけです。厳密には創設時の身分は上皇。誰かと問われれば後白河上皇です。時代的には源平合戦頃の人物。
平清盛が焼き討ちを命じた東大寺の大仏の開眼供養を行ったとされています。つまり、自らで目を入れたわけです。本当は仏師がやる仕事。しかも、そのころ奈良や京都は地震が頻発していて、目を入れている最中地震が起きたら戦になることはほぼ確実。当然皆止めます。
しかし、仏門に入って久しい我らが後白河法皇は聞き入れず。開眼を実現させました。

上皇の熱血ぶりには地震もなりをひそめたようです。
院政を始めた白河天皇と名前が似ていますね、実は、院政を復活させたのです。清盛が自分の娘を天皇に嫁がせて権力を掌握していたため、貴族たちに協力呼び掛けるなどしました。
「上皇様が仰るなら」と貴族らが応じ始めるや、平氏に目を付けられます。平氏も自分の娘を安徳天皇の准母(天皇の義母のようなもの)に据えたり源氏を味方に付けたりなどしているうちに清盛が死に平氏は滅亡してしまいます。そして院政復活となったわけです。大仏の開眼時満年齢で58歳。

建築に当たっては、のちに敵対する清盛に材料の運搬を頼んでいます。完成したのは1165年(長寛3年・永万元年)。壇ノ浦の合戦で平氏が滅びる、たった20年前でした。

秀吉公による再建

そんな三十三間堂も1249年(建長元年)には焼け落ちてしまいます。
この火災で、もともとあった五重塔は失われてしまい、今は本堂のみとなっています。
再建を行ったのは、戦国時代一の成り上がり(褒め言葉)豊臣秀吉公です。なお、奈良大仏のオマージュは東山大仏とも称される方広寺のこと。このお寺の敷地が驚くほどに広く、三十三間堂の敷地ものまれるように吸収されます。
復活には秀頼公の時代までかかったものの、完成。

【方広寺オマケ話】
こちらの釣り鐘の文字が秀吉の死後家康が豊臣家に戦を仕掛けるための口実にされたことは有名な話です。
「国家安康」を「名前切り離すな」、「君臣豊楽」を「豊臣家の繁栄がそんなに嬉しいか」というように、無理な理由をこじつけて戦を仕掛けたわけです。本来の意味は「正しい政治により、国が安定」「主君も臣下も、どの身分も豊かに楽しく暮らしましょう」。家康だって武士の出、本来の意味くらい当然知っていました。幼児期に人質にされて苦労したとは言え、そこまでして権力を得たかったのでしょうか。

民衆にも親しみある寺に

江戸時代ともなると「三十三間」という距離(120mほど)で、どれほど長く矢を飛ばせるか、という「通し矢」なる行事が行われるようになりました。各国、いや各藩から選りすぐりの弓自慢が集まってその腕を競ったわけです。ルールとしては、お堂の橋に的と人を置き、弓矢を放つというもの。軒下に当たらず、ヒュッと飛ばして距離を競うんですね。これは現代でも行われています。弓道の心得ある新成人が、成人式に行う儀式として残っているわけです。

あなたは1000本派?それとも42本派?

千手観音の腕は、実際には42本のものが大多数ですが、なかには本当に1000本の腕を持つものもあるのです。
無数の腕は、衆生、誰かを救うための慈悲の腕です。小さく見えても頼りがいのある、差し伸べられた手なのです。
ちなみに合掌している腕が千手観音自身の腕、とよく聞きます。ではほかの腕は?「救う」ための言わば、能力的なものを視覚化したものではないかという説があります。42本の千手観音像の手に乗っているものが、その能力を表しているのかも知れません。

三十三間堂裏におわす、触れる千手観音

仏像にしろ他種の芸術作品にしろ、展示物に触れるのはタブー。
まして仏像です。気軽に触れるわけないですし、触ろうとも思いません。しかし、無数の千手観音像が立ち並ぶ三十三間堂の出口付近。ご本尊の裏手辺りに、その像はあります。
どちらかというと目の不自由な方の為の像だったと思いますが、「ご自由に触れてください」とありました。ここぞとばかりに触れてきました。仏像や仏様というとどこか身構えてしまう方なので、こういった気遣いはうれしいと思いました。「救う」仏様千手観音らしいと言えばらしいですね。「仏様」と平伏するのではなく、ときには触れ合いも大事、と言うことでしょうか。
「そんなに気構えなくていいんだよ」と言われている気持ちにもなります。

とある千手観音のお手入れ方法から、「構造」を知る

確か日光の三仏堂だったと思うのですが、テレビの取材で図らずも千手観音像の「構造」を知ることができました。
巨大な千手観音像、実は腕が数本ずつ束になって背中辺りに差し込む構造になっていたんですね。すべての千手観音像がそうかは分かりませんが、これは意外でした。
差込口込みで本体を作り、しかるのち、別に作っていた数本の腕を差し入れる。そんなところでしょうか。
腕には差し込み棒のようなものがありました。広げた新聞紙の上に腕を乗せてのお手入れの風景は、何だか新鮮でした。

二十八部衆プラス風神雷神

千手観音と、その信者を守るための天部です。武装している者もいれば、そうでない者もいますが、老婆姿だろうと何だろうと、千手観音像の前、もしくはご本尊たる坐像の周囲で独特の気迫を放っています。梵天・帝釈天といった天部のトップだけでなく、四天王・八部衆・鬼子母神夫妻などが勢ぞろい。天候を操る風神雷神まで参加しているため、厳密には30体ですが、この迫力には妙なお得感さえ覚えてしまいます。

阿修羅

戦闘狂からの護法神に華麗なる転職を果たした代表格、阿修羅も二十八部衆の一員です。細身で憂いを含んだ美少年顔で人気の興福寺のものとは違い、コワモテの上にバーニングな後光を背負っています。左右の顔もやや小さめ。お釈迦様の説法で改心した、という説話がありますが、それでも「顔が怖い」のは、仏敵に対しにらみを利かせているためです。

迦楼羅王

ヒンドゥー教ではガルーダという名を持つ鳥で、シヴァ神の乗り者とされています。鳥頭人身という点は興福寺と同じですが、興福寺のいかにも「鳥!」といった風貌に比べると、表情が人間寄りです。なぜか横笛まで備えていて優雅です。龍を食べ、火を噴くという豪快な伝承(しかも破壊神の乗り物)の割にどこか理知的な感じもしますね。

摩候羅王

別名、摩ご羅迦王。琵琶を持ち、頭に蛇を載せています。帝釈天の眷属で、蛇の化身とも言われる存在。興福寺では畢婆迦羅という名前で知られますが、音楽を奏でるミュージシャンである点では「鳩槃荼の方じゃないの」とする向きもあります。頭部が蛇とされますが、三十三間堂では全身人間です。

緊那羅王

摩候羅王と同様、帝釈天に仕えるミュージシャンです。男性は半人半馬(頭が馬か、体が馬かは資料によります)、女性は美女という男女差別感を覚える種族ですが、何語でも「キンナラ(人ではない)」という名前で通る、珍しくも面白い種族でもあります。アーティストらしく、鼓所有。楽器の選定がいかにも和風です。

乾闥婆王

像としてはひとりにまとめられていますが、実は大人数。しかも、楽団です。インドの悪鬼は意外と音楽好きが多いのです。女好きな半面、豪快な紳士でもあります。ソーマという神々の酒を守るのも役目で、食糧は香りです。サンスクリット名はガンダルヴァ。彼らは体から微かに香りを発するのですが、あまりに微かすぎてどこにいるのか、ととらえどころがないなど、特徴が多すぎでもあります。そのため、蜃気楼に住むなどという伝承が生まれたり、手品師なども「ガンダルヴァ」の愛称で呼ばれることがあります。

畢婆迦羅王

先の摩候羅王と同一視されることもありますし、興福寺ではこの名前です。どういった経緯で同一視されるに至ったかは不明ですが、摩候羅王が楽士であるのに対し、こちらは完全武装。インドの女神、ドゥルガーの化身とする説もありますが、男性の姿です。

沙羯羅竜王

天竜八部衆とされる場合の「龍」にあたる、とされます。別の三十三間堂では「難陀竜王」という名前。蓮華王院では、片手に剣、片手に蛇を持ちます。こちらも摩候羅王と同一視されることがあり、結構ややこしいです。

五部浄居天

天竜八部衆の「天」にあたるとされており、巧妙や清浄など、5つの義を持つとのこと。天地における中心人物的な存在でもあります。興福寺では頭絡む部分、右腕しか残っていませんが、三十三間堂では全身揃ってます。しかも、担当と長剣をそれぞれの腕に持ち、交差させ全面を睨み据えるなどカッコいい様相です。諸説ある為、8人を超えてしまいますが、同一人物と思われることを踏まえていただければと思います。

風神雷神

屏風絵のもと。屏風では、雨風を連想させる物がそれぞれ描かれています。雷神の役目は雷だけじゃないんですね。

琳派の描いた『風神雷神図屏風』のもととされるのがこちらで、連なった太鼓を背負った雷神と、袋を持った風神です。屏風絵同様、躍動感のあるポージングをしています。風神雷神は恐れられると同時に、雨や適度な風ももたらし、結果として五穀豊穣の神と見なされることもあるようです。

大梵天

宇宙を神格化された姿、梵天。仏教がこの世にあるのは、この方のおかげです。悟りを得たお釈迦様に「あなたが悟ったことを皆に伝えなさい」と口添えをしたのが仏教のはじまり。これが梵天勧請という逸話です。インドにいたころは創造の神ともされており、維持する神ヴィシュヌ神、破壊する神シヴァ神と、「創造、維持、破壊」を司るトリオでした。仏教入りしてからは、何故か特に接点のなかった帝釈天と一対にされています。像容は唐時代の服装で羽衣のような天衣を着け、左手に小さな壺を持っています。

帝釈天

インド名インドラ。このころは雷をつかさどっていましたが、経典や人間の人気によって役割や活躍に波があり、神様界の酸いも甘いも経験しています。同じくバラモン出身の神様同様十二天と呼ばれるグループにも属し、東方守護を担当しています。中国風の着物の下に鎧を着ており、よく見ると右手に宝鏡(悟る為の知恵を授ける為の法具)と呼ばれるものを持っています。

散脂大将

鬼子母神に比べると、一般的な知名度はやや少ないのが、夫の散脂大将です。子どもを食べるような奥さんを持つだけあって、この人はもともと夜叉という鬼神でも高位の八大夜叉大将に所属していました。あらゆる夜叉を部下に据える毘沙門天が仏教入りしたため、自分も仏教に帰依。1000人の子の父親でもあります。

大弁功徳天

吉祥天と目されています。福徳を授ける神様で、独尊の場合は願いを叶える宝珠をお持ちです。しかし右手には剣。そして、バーニング後光背負っている点は、阿修羅や他の武装した神々と同じ。実は、一説には弁財天とする説もあるらしいのです。そもそも、吉祥天と弁財天を同一視する向きもあります。弁天様、今でこそ芸術や学問を担当していますが、昔は戦闘の神様で、初期の像様では八本腕の上、全部の手に武器をこれでもかと持っていました。二十八部衆としては同僚ですが、かつては阿修羅と戦い、しかも勝ったという鉄の女神なのです。三十三間堂では腕が二本で武装もしていませんが、炎ちらつく後光がやっぱり戦闘神時代の凄みを思わせます。片手に剣、片手に願いを叶える宝珠を持つ辺り、両方の面を併せ持っているのでしょうか?もっとも吉祥天だとしても、武装していることに説明はつきます。一説によると、吉祥天は鬼子母神の娘だそうです。父親は勿論散脂大将。つまり、両親ともに、元鬼神。福徳神としてだけでなく、両親から受け継いだ荒っぽい面を表しているのかも知れませんね。

摩醯首羅王

別名自在天。一般的にはあまり有名じゃないかも知れませんが、サンスクリット名を聞けば納得できるかも知れません。ヒンドゥー教最高神、シヴァ神です。最強の破壊神ですが、仏教入りした経緯がかなり物騒で、護法神としてスカウトに来た降三世明王と戦うも、戦闘神でもある妻と共に一回殺されて生き返らされての護法神入りです。経典によって性格が違うので何とも言えませんが、そのまま負けを認めて仏教入りした潔さには感心しますね。ちなみにシヴァ神は最終的に大黒様にもなっています。

何故惹かれる?

漫画やダンスのモティーフになるほど惹きつけられる千手観音。
その魅力の正体は、「救い」を求めている人の心。そこから来るものなのではないでしょうか。そのインパクトのあるビジュアルに目を奪われて、その上での「菩薩顔」に実際救われた気持ちになるのかも知れません。
「衆生を救う」、その役割を知らずとも無数の手は「守ってくれる」という気持ちを誘発させる何かを持っているようにも思えます。三十三間堂の表側では堂々とした大きな坐像としておわしながら、同時に裏手では実際触れ合える仏様としておわします。漫画のなかでは人間と同じく悩み、迷い落ち込むこともある仏様。
手の形も優しげで、数ある仏像のなかでも特に異形性抜群です。それでいて同時にどこか親しみも持てるのは、「救う」という大きな特徴をその手に乗せているからなのかも知れません。

女性のための春桃会に行ってみよう!

三十三間堂の代表的な年間行事で、もうひとつ有名なのが『春桃会』です。 春桃会は『3』が重なる3月3日の桃の節句に行われ、この日も拝観料無料となります。

元々、桃の節句は『上巳』という斎日で、禊ぎを行って邪気厄災を払う行事です。 桃は『悪災を除く仙果・聖樹』と言われ、食べるだけでなく、枝を軒先に刺して厄除けに、花をお酒に浮かせて飲めば無病息災に、と厄を払って病気にならないように祈願するのです。 そして、三十三間堂では女性だけに特別な『桃のお守り』を授与していただけます!

そのほかには、瀬戸内寂聴さんの青空説法や献花式、華展、さらに千体観音像を特設の高壇から遙拝できるなど、たくさんの催しがあります。 ぜひ、3月3日にもお参りしてみてくださいね! 三十三間堂は教科書にも記載され、遠足や修学旅行には欠かせない仏堂として、私たちのすぐそばにありました。 1001体の千手観音像を見ていると、心が安らぎ心を打たれることでしょう。 ぜひ、京都観光の際には三十三間堂にお参りしてみてくださいね!

■所在地 〒605ー0941
京都府京都市東山区三十三間堂廻町657

■拝観料
大人・大学生600円(団体25人以上で550円)
高校生・中学生 400円(団体350円)
小人 300円(団体250円)
障害者の方は半額

■開門時間
8:00~17:00
(11月16日~3月は9:00~16:00)
受付終了は閉門時間の30分前
年中無休
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