東大寺で金剛力士像を見るなら立寄りたい。杖型折りたたみ椅子持参! 立ち寄りスポット3選!

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東大寺には金剛力士像以外にも見どころがたくさんあります。また、東大寺から歩いていける距離にも、「奈良公園」「依水園」「元興寺」など、奈良県を代表する名所が多々存在しています。
今回はそんな東大寺と東大寺近辺のおすすめ観光スポットとその魅力を紹介していきましょう。

上記が歩いて回る、おすすめの立ち寄り観光スポットのコースと所要時間となります。

南大門からまっすぐ歩いて、世界最大級の木造建築物・大仏殿で奈良の大仏にご挨拶

東大寺と言えば金剛力士像も見どころのひとつですが、まず人々の足行く先となるのは「奈良の大仏」ではないでしょうか。かの有名な「奈良の大仏」は、東大寺の入り口である南大門からまっすぐ8分ほど歩いた先にある「大仏殿」で拝むことができます。

大仏殿は「奈良の大仏」が竣工した後、789年に創建されました。しかしその後、2度にわたって焼失の被害に遭い、鎌倉・江戸時代に再建され今に至ります。大仏殿は現在も世界最大級の木造建築物とされていますが、創建当時は今の1.5倍以上もの大きさだったそうです。「奈良の大仏」と対面する前に、ぜひまずは国宝にも認定されている大仏殿の建物もじっくりとご覧になってみてください。
そんな大仏殿の中に入ると、奈良の大仏がお目見えします。奈良の大仏は正式名称を「廬舎那仏像(るしゃなぶつぞう)」と言い、聖武天皇の命により747年に起工、752年に完成しました。大仏殿と同様2度の焼失にあっており、お尻や頭部、肩、胸、背中、両腕は再建されたものとなっています。ちなみに大仏の台座や足の一部は奇跡的に当時のまま残されているそうです。

大仏殿で迫力ある「奈良の大仏」に挨拶した後は、境内を散策してみてはいかがでしょうか。東大寺には有名な「奈良の大仏」や金剛力士像のほかにも、貴重な仏像が何体も保管されています。

例えば大仏殿の西側に6分ほど歩いた場所に、県の指定重要文化財に指定されている「戒壇堂」があります。755年に日本初の正式な授戒の場として建立された「戒壇堂」には貴重な四天王像が安置されています。これらは現在「戒壇堂」に安置されているものの、実は本来はどこにあったのか判明していないというミステリアスな仏像でもあるとか。

また、戒壇堂から大仏殿を挟んで反対側には、「法華堂(三月堂)」という名の風情ある建物が佇んでいます。こちらは東大寺にある建築物の中でも最も古い建物で、もともとは「不空羂索観音(ふくうけんさくかんのん)」を祀るためのお堂でした。現在は本尊不空羂索観音菩薩、梵天、帝釈天、金剛力士(阿吽)、四天王、執金剛紳(秘仏)という10躯の諸尊像が安置されています。

このように東大寺には見どころが多くありますが、すべて観るとなると歩く距離も結構なものに。じっくりと時間をかけて楽しみたいという方には、折りたたみ椅子を持参して休憩を挟みながら名所を楽しむのがおすすめです。しかし折りたたみ椅子は休憩する際は便利ですが、持ち歩くには荷物になりますし不便ですよね……。「Ta-Daチェア」は、歩く時は杖として、疲れたらワンタッチで椅子として使える持ち運びがとても簡単な新感覚チェアなのです。
特に「法華堂」があるエリアは美しく咲き誇る桜を観ることができる穴場スポットでもあるので、ぜひ「Ta-Daチェア」に腰を下ろして絶景を楽しんでみてください。

東大寺から歩いて立ち寄れる名所3選「奈良公園」「依水園」「元興寺」

東大寺から歩いてすぐの距離にある名所をいくつか紹介してきましょう。

東大寺の法華堂から歩いて10分ほどの距離に有名な奈良公園があります。奈良公園では約1100頭の鹿が暮らしており、その可愛らしい姿を間近で見ることができます。奈良公園は年間を通じて修学旅行生や外国からの観光客も多く訪れる一大観光スポットであり、春には桜の名所としてお花見を楽しむ人もたくさん見受けられます。 ちなみにお馴染みの鹿が闊歩しているエリアだけでなく、通常は東大寺や春日大社、奈良国立博物館、そして世界遺産である「元興寺」を含めた総敷地が奈良公園として位置づけられています。

次に、奈良公園から歩いて15分ほどの距離に、国の文化財にも指定されている「依水園」があります。江戸時代に造られた前園と明治時代に造られた後園の2つの庭園から成り立っているという珍しい池泉回遊式庭園です。前園は後園と比べてこじんまりとしていますが、「三秀亭」という風情ある茶室が置かれているほか、近くに古代中国の青銅器や日本の茶道具などが所蔵・展示されている「寧楽美術館」があります。それぞれで趣が異なる景観を楽しむことができますが、3400坪もの広大な面積を誇る園内をくまなくご覧になるのはなかなか大変だと思いますので、ぜひ「Ta-Daチェア」で休憩しながら散策を楽しんでみてください。

そして、依水園から、最後の立ち寄りスポットである「元興寺」へは歩いて25分ほど。「元興寺」とは日本最古の本格的仏教寺院である「法興寺」が平城京遷都に伴い飛鳥から移転された寺院で、奈良時代には東大寺と並ぶ広大な寺院であったと言われています。現在は国宝に指定されている極楽坊本堂と禅室を残すところのみとなっていますが、境内では四季折々の景観や厳かな雰囲気を楽しむことができます。

東大寺、奈良公園、依水園、元興寺はすべて徒歩圏内にはありますが、すべてじっくりと楽しむとなるとかなり時間がかかりますし、歩く距離も結構なものになります。そのため散策の際はできることなら折りたたみ椅子を持参して休憩を挟みながら行った方が良いでしょう。しかし折りたたみ椅子は休憩する際は確かに便利ですが、持ち歩くには荷物になりますし不便ですよね……。先ほど紹介したワンタッチで杖から椅子になる「Ta-Daチェア」なら、移動時は杖として、疲れたら椅子として使えるので非常におすすめです。ぜひ奈良散策のお供に活用してみてください。

東大寺の謎に迫る!

奈良県奈良市にある東大寺は、華厳宗の大本山です。
東大寺は平成10年(1998年)に『古都奈良の文化財』の一部として、ユネスコの世界遺産に登録されました。 しかし、なぜ奈良のど真ん中に大仏さまを作ったのでしょう。そしてなぜ、大きくしなければならなかったのか?
今回は東大寺の謎を解きながら、見所をご紹介します!

『奈良の大仏さん』は宇宙を表している!

東大寺は神亀5年(728年)に、聖武天皇が1歳の誕生日を迎えずに亡くなった皇太子・基親王の冥福を祈るために、金鐘寺というお寺を建てたのが始まりです。 天平13年(741年)、聖武天皇は国家の安寧と隆昌を祈願し、全国に国分寺や国分尼寺建立の詔(天皇のおことば)を発しました。 金鐘寺は昇格し、大和金光明寺と名前を改めました。これが東大寺の前身寺院とされています。

天平12年(740年)、河内国にある知識寺に詣でた聖武天皇は、『華厳経』の教えに基づいて民間の人たちが『盧舎那仏』を造立しているのを見ました。 盧舎那仏は大乗仏教における仏のひとつで、宇宙の真理を体得した釈迦如来の別名です。 すべての人々に光を照らし、世界を照らし、悟りに導くといわれています。 聖武天皇は「大きな盧舎那仏を作りたい」と願うようになり、天平15年(743年)に『大仏造顕の詔』を発しました。

この頃、日本は凶作に遭い、地震や天然痘がはやっていて、苦しいときを過ごしていました。 『華厳経』を政治の中心にし、さまざまな政策をした聖武天皇には、「国民ひとりひとりが思いやりの心を持って絆を深め、平和を導きだそう」という想いがありました。 盧舎那大仏=宇宙そのものであり、広い慈悲の心を表そうとしたのです。

そして、華厳経において数字の『十』とは、宇宙に拡大できる特別な数字であるといわれています。 仏像の寸法は基本的に『1丈6尺(約4.85m)』で、座った状態だと半分の『8尺(約2.43m)』になるので、盧舎那大仏の寸法はこれを10倍したのではないか、と考えられています。

当時、聖武天皇は近江国甲賀郡(現在の滋賀県甲賀市)の紫香楽宮におられたため、大仏さまは東大寺ではなく、紫香楽宮近くの甲賀寺に造られる予定でした。 しかし、周辺の山火事や天災が相次いでしまい、都が平城京に戻されると同時に、大仏さま鋳造も東大寺で行われることになりました。 この頃から、大和金光明寺は『東大寺』と呼ばれるようになったといいます。

大変な工事の中、大仏を鋳造し、天平勝宝4年(752年)に『大仏開眼供養会(魂入れの儀式)』が行われました。 そして、大仏を納めるための大仏殿が造立されたのです。 その後、地震や火事などの受難を迎えたりしましたが、その度に大仏さまを信仰する人々の手により、復興してきました。

東大寺のご本尊は言うまでもなく、この盧舎那仏です。 左手は宇宙の智慧、右手は慈悲を表しています。

東大寺のお水取りに行ってみよう!

東大寺は大仏さまも有名ですが、『お水取り』もとっても有名です! お水取りは、『練行衆』と呼ばれる精進潔斎(肉食を断ち、心身を清めて行いを慎むこと)をした11人の僧侶たちが、人々に代わって罪を懺悔し、天下泰平や五穀豊穣を祈る行事です。

お水取りは『修二会(しゅにえ)』といい、東大寺の二月堂で毎年3月1日~14日まで行われます。 もともと、旧暦の2月1日から行っていたため、”二月に修する法会”から「修二会」といわれています。二月堂の由来も修二会が2月に行われるからです。 お水取りは東大寺を開山した良弁の高弟・実忠が大仏開眼のときに始めた行法で、開始以来1200年以上の間、やめることなく続けられています。

練行衆は前年の12月に決められ、翌年の2月20日から末日まで『別火』とよばれる俗界と火を別にした精進生活を送り、準備を行います。これを『前行』といいます。 そして、3月1日に『本行』が執り行われます。 毎夜、練行衆は高さが6mもある松明10本に火をつけて二月堂に入り、祈りを捧げます。 お水取りの中でも有名なこの時間は、『お松明』とよばれています。 この松明は舞台の欄干に掲げられ、降りそそぐ火の粉は『無病息災』のご利益があるといわれています。 とくに、12日の松明は一回り大きな『籠松明』で、本数も11本あります。 北の回廊からお堂に駆け上がり、その姿を一目見ようとたくさんの人々がかけつけます。

そして、13日未明には、練行衆が二月堂の下にある若狭井から水をくみ、ご本尊の十一面観音にお供えされます。 これがお水取りの儀式であり、くんだお水を『香水』と呼びます。 香水は内陣須弥檀下の石敷きに埋め込まれた甕(かめ)に納められます。 そのうちの1つは『根本香水』と呼ばれ、毎年継ぎ足しされています。 この甕には1200年の歴史が詰まっているのです。 また、その年のお水取りでくんだ水を入れる甕があり、『次第香水』と呼ばれています。 この次第香水は、二月堂の湯屋の井戸水で割ったものが参拝者の方々に分け与えられます。

お水取りは神秘的で厳かな雰囲気があり、毎年たくさんの人々がかけつけます。 とくに、12日は2万人~3万人が訪れ、入場規制がかかるほどです。 東大寺を代表する行事であり、奈良の人々にとっても春の訪れを告げる大切な行事なのです。

ぜひ、お水取りをご覧になってはいかがでしょうか。

大仏さまはどうやって掃除をするのか?

15mもある大仏さまが汚れてしまった時、どうするのかご存じですか?
東大寺では『お身拭い』といって、8月7日の午前7時から行われます。 僧侶や信者たち約150名ほどが白衣を着てわらじを履き、殿内で大仏さまの魂を抜く儀式を行います。その後、マスクをつけ、手ぬぐいを頭に巻いて、一斉に大仏さまについたほこりを払っていきます。 膝元や両手には自力でよじ登り、天井から吊したゴンドラに乗って目や鼻、螺(ら)髪(はつ)のひとつひとつを丁寧に拭い、きれいにしていきます。

もともと、住職の任期中に1度だけ行われていましたが、1963年からは8月7日と日にちを決めて、1年に1度行われるようになりました。

さっぱりとして気持ちがいいお顔になった大仏さまを見にいくのもいいかもしれませんね。

いかがでしたか。
東大寺の大仏さまは世界でも類をみない、日本が誇る仏さまです。 毎年のお水取りはもちろん、普段でもたくさんの観光客でにぎわいます。 大仏さまを見上げていると、自分の悩みなんてちっぽけだったと気づかされます。 きっと、大仏さまから放つ慈悲の心がそうさせてくれるかもしれません。 ぜひ、奈良に訪れた時はお参りしてくださいね!

■所在地
〒630ー8587
奈良県奈良市雑司町406ー1

■拝観時間
11月~2月 8:00~16:30
3月 8:00~17:00
4月~9月 7:30~17:30
10月 7:30~17:00

■入堂料
大人(大学生以上)500円(団体30名以上450円)
高校生500円(団体400円 教職員は無料)
中学生500円(団体300円 教職員は無料)
小学生300円(団体200円 教職員は無料)

世界遺産の東大寺には幻の七重の塔が存在した

知らない人のいない奈良の大仏さまが安置されているのが東大寺です。今回はあまり知られていない、大人だからこそ楽しめる東大寺の魅力に迫ります。

聖武天皇の理想の世界を具現化しようとした東大寺

東大寺は聖武天皇の勅命により建設が始まりました。きっかけは天皇が仏教を布教していた僧侶、行基に出会ったことだとされています。行基が、民衆からの寄付や協力を得て造った大阪の知識寺を訪れ、そこに安置された毘盧遮那仏を拝した天皇は行基の活動に共感。国民が力を合わせて知識寺を作っていくことは、仏教的な理想の世界を人間界に具現化するために必要だと感じたことがきっかけと伝えられています。

さて、東大寺は最初から奈良での建設が計画されていたわけではありませんでした。当初は恭仁京や難波宮が挙げられていましたが、造立が始まったのは近江国紫香楽宮。甲賀寺で骨組みまで建設が進んでいましたが、度重なる山火事により造立が断念されます。現在の若草山の丘陵地帯が選ばれたのは、唐で造立された盧遮那大石仏像が、川に面した龍門山の中央にあったからと言われています。唐時代の彫刻の頂点と呼ばれ、理想美が集約された仏像の姿は、まっすぐに正面を見据え、キリッと口元を引き締めた表情で、凛々しくもありどこか優しさも感じさせる美しさを秘めています。どことなく奈良の大仏様にも面影が残っているようです。

度重なる天災や襲撃で姿を変えてきた伽藍

仏教の理想の世界を現実世界に生み出そうとした聖武天皇は、壮大な規模の伽藍の造立を計画し実行しました。天平文化と呼ばれる貴族・仏教文化が花開き、勢いを増してきた大和の国として、当時の最先端であった唐やペルシャなどの国々に負けない文化水準を作りたいという願いも込められていたようです。中心にある大仏殿を日本に見立て、四隅に護国の神々を鎮座さした、理想国家の形という見方もあります。

現在の東大寺の伽藍の形が整ったのは、18世紀の後半に入ってから。16世紀後半に三好・松永の乱によってほとんどが焼失してしまった東大寺は、その後約120年間に渡って大仏さまも雨ざらしの状態でした。東大寺はその規模の大きさから、歴史上焼き討ちにあうことが度々あり、その度に多くの建物が被害に遭っています。17世紀後半に公慶上人が江戸幕府から許可をもらい、勧進のために全国を行脚しました。そのおかげで18世紀後半になり、中門・東西廻廊・東西楽門・両脇侍などが造立され、現在の姿が出来上がります。その後も天災で一部の建物が倒壊する災難もありましたが、その度に再建されてきました。

平安時代に入り都が平安京へ移ってしまうと、東大寺を管理していた造東大路所が廃止されてしまいます。その上暴風や落雷・失火などで講堂や三面僧房、西塔や南大門・鐘楼が倒壊してしまいます。また南都焼討により、大仏殿を始め多くの堂塔を失ってしまいました。その後、鎌倉幕府の全面的なバックアップにより、当時の中国から伝わった最新の建築様式で作られた南大門や、運慶・快慶らによる勇ましい仁王像など、多くの傑作を生み出しながら復興が進んでいきます。13世紀後半には東塔も再建され、新たな繁栄期を迎えました。

今は見ることのできない壮大な伽藍に立つ幻の七重の塔

度重なる災難で幾度も姿を変えてきた東大寺の伽藍ですが、創建当時はどのような姿だったのでしょう。現在でも圧倒されるほど立派な規模の伽藍ですが、当時は今以上に荘厳な姿を誇っていました。南大門から金堂と呼ばれる大仏殿・講堂までが一直線に並び、東西に2つの塔院を備えた東大寺式と呼ばれる七堂伽藍は、中国から伝わった伽藍様式をさらに発展させた巨大な様式でした。

特に南大門と中門の間に配置された東西の塔院は、それぞれが七重塔を持つ巨大な建造物で、南大門を入るとまず目を奪われるほどの規模を誇っていました。その高さは実に100メートルを超えていたと言われています。塔を囲むように塔院が建てられた七重塔は、現存していれば法隆寺の五重塔を抜いて、日本最大の木造建築となっていたはずです。西塔は約200年後の934年の落雷による火災で回廊とともに消失。東塔は1227年に一度は再建されますが、1362年にやはり落雷で消失してしまいます。巨大な塔を再建するための木材の調達が難しかったことも一因ですが、当時は落雷を回避する有効な手段がまだなかったために、再建してまた消失してしまうくらいなら、その費用を他の建造物の再建に当てた方が有意義だったというのが、現在東西の塔が残っていない一番の理由のようです。

各時代の特徴を残す瓦が面白い

何度も復興を遂げてきた東大寺ですが、創建当時の天平文化の名残や、鎌倉時代の大復興の面影・江戸時代の再建の特徴を、それぞれの建物から伺い知るのも、東大寺を訪れた時に味わいたい楽しみ方です。細部に注目すると楽しみ方も一味違ってきます。

東大寺の伽藍を構成する数多くの建物の「瓦」は、建築様式などあまりよくわからなくても、それぞれの特徴をつかんでおくだけで、その建物がいつごろできたものなのか、一目で判断できる材料の1つです。軒瓦と呼ばれる軒先に見られる瓦を見ると、色々なデザインが施されているのがわかります。また邪悪なものを避けると考えられている鬼瓦にも、様々な表情のものが見受けられます。このデザインに各時代の特徴が表れているのです。

天平鬼の瓦には8枚の花弁を持つ蓮花をかたどった「八弁蓮花文」や、珠が連なった「連珠文」を組み合わせた意匠。鎌倉期には蓮花文や連珠文に梵字を組み合わせた意匠が多く使われています。その後は唐草文や巴文が寺院の瓦の主流になっていきました。天平時代の鬼瓦は平面的で、表情も単調なものが多いのですが、鎌倉期以降になると立体的なものが増え、その表情も様々なものが作られるようになります。どんぐり眼だった天平時代に比べると、邪悪なものを寄せ付けないような厳しい表情が特徴です。

土塀や石灯籠にも色々なデザインがある

境内の土塀にも作った人の意向が伺える、色々なデザインが見受けられます。特に面白いのが瓦の混じった土塀。瓦の並べ方にその人の特徴が見え、どんな人が作ったのか想像しているだけでも、歩くのが楽しくなってきます。

二月堂の表参道に並ぶ献灯も有名ですが、境内各所に散らばる石灯籠にも様々なデザインがあって、見ている人を楽しませてくれます。大仏殿の参拝を済ませたら、美術館や博物館をめぐる気持ちで、ゆっくりと境内の細部を見て回るのも面白そうですね。

天平時代の創建期、鎌倉時代の復興期、江戸時代の再建期と、時代ごとに変遷を見せてきた東大寺。今となってはもう見ることのできない、巨大な塔を備えた壮大な伽藍に思いを馳せながら、境内の随所に散りばめられたそれぞれの時代の名残を見つけて、当時の人々の想いに触れてみてください。子供の頃に一度見たことのある人も、大人になった今見る盧遮那仏の表情に、記憶の中のものとは違う別の姿を見ることができるかもしれません。
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