阿弥陀如来をはじめとする如来像あれこれ、それぞれの特徴と役割とは?!

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仏にはその悟りの度合いによって4つのランクがあります。そのヒエラルヒー最上位に属するのが如来です。その下に菩薩・明王・天部と続きます。
その最上位である如来像は、ほかの仏像に比べて圧倒的に種類が少なく、レアなものを足しても10体にも満たりません。それに加えてヘアースタイルが独特(螺髪というある意味パンチパーマ)なので、初心者でも見分けやすい仏像です。
今回は如来像の持つ意味から見分け方まで、有名な仏像から順に紹介してゆきましょう。

1.阿弥陀(あみだ)如来像

なぁむあみだぁー(南無阿弥陀仏)とさえ唱えていれば成仏できると教える浄土宗・浄土真宗。阿弥陀如来はそこで祀られる仏像というイメージが強いかと思います。
しかしこれらの宗教では阿弥陀如来像を拝むことはありません。仏像などを拝むことを偶像崇拝と言いますが、禁止行為となっているからです。
実は日本には偶像崇拝を禁止する宗派は多いのです。逆に仏像を積極的に教義に取り入れているのは、密教系寺院だけと言ってもいいぐらいです。

中国の浄土教の開祖・曇鸞(どんらん)大師が、『浄土論註』という本のなかで、阿弥陀は「色もなし形もましまさず」と書いています。それをずっと守っている宗派なのです。

いくら芸術性が高いとは言ってもしょせんは人の彫ったものである。仏そのものではないのにそれを拝むのか?という考えが根本にあります。
ではそれらの宗派の寺では仏像はまったく見られないのか、というと、そうでもないのが日本の宗教のいい加減……懐の深いところです。そのお話はまた別途にいたしましょう。

そのようなわけで、不遇をかこつかのように思える阿弥陀如来像ですが、それでもなお人気は抜群です。
日本にある国指定の重要文化財のなかで、如来像は800体ほどありますが、その内阿弥陀如来像は約4割を占めます。如来像では人気ナンバー1です。
さらに五智如来・胎蔵界五仏・地獄の十王・日本三如来、と数多くのグループに所属し、歌って踊って説法しての大活躍です。
ただし如来には最強の大日如来がいて、センターポジションが取れるのは阿弥陀三尊グループのみです。
大日如来には近づくのも容易ではありませんが、阿弥陀如来は重文指定の像などを除けば比較的近くで見られます。触ったりできるものもあります。え? 罰当たりですか?触りにゆける阿弥陀仏っていいじゃないですか。

隙あらば触りまくってる私ですが、今のところ罰が当たっている形跡はありません。阿弥陀さんも喜んでくれていると思います。一度お試しください。
ただ黙って触ると、罰は当たらなくても寺のご住職さんの雷が落ちることはあるかも知れません。ひと言断ってからにしてくださいね。

そうそう忘れるとこでした。阿弥陀如来像を見分ける方法ですが、指を見てください。親指と、人差し指・中指・薬指のうちのどれかとで輪っかを作っていれば阿弥陀です。
たった2行で分かる阿弥陀如来像の判別法でした。

2.薬師(やくし)如来像

如来像のなかでは阿弥陀に続いてナンバー2の人気を誇り、約3割のシェアを持つのが薬師如来像です。同じ密教でも、空海の建てた真言宗では大日如来を本尊としますが、最澄の建てた天台宗ではこの薬師如来を本尊とします。

仏像の総数では阿弥陀仏に譲っても、庶民の間ではこの薬師如来が古代より一番信仰された仏像です。現世利益感が強く難しい教義がなくて分かりやすいというところが受けたのでしょう。

薬師如来がまだ菩薩だった頃、薬師菩薩(そういう名前の仏像はありません。概念としての名前です)は十二の誓願を立てました。それが下記の一覧です。

01 光明普照(あまねく衆生を悟りに導く)
02 随意成弁(瑠璃の光を通じて仏性を目覚めさせる)
03 施無尽仏(悟りを得るために必要なあらゆる物品を施す)
04 安心大乗(世の誤りを正し、衆生を仏道へと導く)
05 具戒清浄(すべての人に戒律を守れるよう援ける)
06 諸根具足(生まれつきの障害・病気・身体的苦痛を癒やす)
07 除病安楽(すべての人々の病を除き窮乏から救う)
08 転女得仏(成仏するために男性への転生を望む女性を援ける)
09 安心正見(悟りを妨げる魔から救い、菩薩の修行を修習せる)
10 苦悩解脱(重圧に苦しむ衆生から災難や苦痛から解放する)
11 飲食安楽(餓えと渇きから救う)
12 美衣満足(衣類を与え心慰める)

誓願にはよくあるのですが、08転女得仏について、念のために注釈しておきます。これは仏陀の本来の教えでは女性は成仏できなかったため、女性にも仏の道を開かせるために考えられた功徳です。非常に強引な気もしますが、女性の地位がそのぐらい低かったということでしょう。現代では、戦後に強くなった靴下よりも、さらに強くなったなんとやら?

このように薬師如来の誓願には現世利益になるものが多いのですが、そのなかでも特に、06諸根具足と07除病安楽から、病気を治すという徳がクローズアップされて庶民のニーズと合致しました。それがヒットの要因となりました。もちろん最澄が薬師如来像を自分で彫って祀るほど入れ込んでいたことも無視はできません。セレブにも庶民にも必要とされた仏像なのですね。

見分け方としては、左手に薬壺(やっこ)を持っていたら薬師如来です。ただし薬壺の中身は空洞か無垢材がほとんどです。右手は胸のあたりで前に向けて掌を開いている施無畏(せむい)印が多いようです。

3.釈迦(しゃか)如来像

言わずと知れた仏教の開祖・仏陀を描いた像です。創始者なのですから、本来なら釈迦像があらゆる場面で中心になってよいように思われますが、密教の登場により大きく概念が変わりました。

全宇宙の中心である大日如来が、仏陀の姿を借りて(化身となって)人々を教化するためにこの世に現れたという考え方です。そのため釈迦如来像は、中心から追いやられ、あまり人気のない仏像となってしまいました。五智如来や胎蔵界五仏には参加せず、わずかに地獄の十王の2番目という地味な役職をもらっただけでした。

それでも、如来像のなかでのシェアは15%を確保しており、揺るがぬ存在感を示しています。釈迦三尊という形で普賢菩薩・文殊菩薩と一緒に拝観できる寺院が多いのはうれしいことですね。

釈迦像で一番多いのは「説法印」です。原図曼荼羅像では、両手を胸につけ、人差し指と小指を立て残りは軽く曲げるとあります。キツネの影絵に似ていますが、指をくっつけないのが正統のようです。しかし、これにもいろいろなバリエーションがあります。

ほかに、寝そべっていたら入滅釈迦像(涅槃仏とも言います)、子どもの体躯で指先が天と地を指していたら誕生釈迦像です。降魔釈迦、苦行釈迦というのもあるのですが、重要文化財に指定されたなかにはまだないようです。とりあえずは覚えなくてもいいでしょう(暴論)。

4.大日(だいにち)如来

さてエースの登場です。密教も顕教も仏教の創始者仏陀さえも従える大エース大日如来です。野球をやったら年間で25勝ぐらいしてしまいそうな大日如来ですが、何故か彫られる仏像としては数が多くありません。一番人気の阿弥陀の2割ほどしか存在しません。どうしてなのでしょうか。

ひとつには、大日如来像を祀るのが真言宗しかないということがあげられます。どの宗派も大日如来には多大な敬意を払っていますが、本尊として拝むのは薬師如来であったり地蔵菩薩であったりするようです。大日如来は遠きにありて思うもの、なのですね。

如来は出家後の釈迦の姿をモデルとしているため、本来装飾品は身に付けていません。しかしこの大日如来だけは例外で、豪華な装飾品や宝冠をつけています。また頭も螺髪(らほつ)ではなく、髪を結い上げています。

結ぶ印は智拳(ちけん)印です。忍者が忍法を使うときに、ちちんぷいぷいと言って指を組みますが、まさしくアレです。厳密に言えば、忍者の指の形から人差し指と中指を少しだけ曲げた状態、それが智拳印です。
この派手な衣装と頭にかぶった宝冠、それに智拳印を見れば、大日如来像の特定は簡単です。ぜひ覚えておいてください。

5.毘盧遮那仏(びるしゃなぶつ)像

大日如来像のこと、と言ってしまうと間違いですが全く別物というわけでもありません。言わば、大日如来の前身に相当する仏像です。もとは6世紀ごろ中国で大流行した仏像で、それが日本にも伝わり、負けじと彫られたのが東大寺の大仏・毘盧舎那仏像です。頭の毘は省略して盧舎那仏と言われることがあります。阿弥陀のことを弥陀と言ったりするのと同じですね。

印については右手は施無畏印、左手は与願印を結ぶのが一般的です。ただ重要文化財(国宝)のなかでは東大寺と唐招提寺ぐらいですので、印だけ覚えてもあまり応用が利きません。寺の名前ごと覚えてしまうほうが早いでしょう。ここ以外で盧舎那仏を見ることはほぼありません。

6.その他の如来像

・宝生(ほうしょう)如来は、金剛界曼荼羅図では大日如来の右に配置されます。印は右手は施無畏印で、左手は何故か自分の衣をつかんでいます。

・阿(あ)しゅく如来は、金剛界曼荼羅図では大日如来の下に配置されます。印は右手の指先が地面に触れています。これは触地印(そくちいん)と言って、誘惑に負けない不動の精神力を意味します。

・多宝(たほう)如来は、多宝塔の中に安置されることが多く、日の目を見ることが少ない仏像です。

・不空成就(ふくうじょうじゅ)如来は、金剛界曼荼羅図では大日如来の左側に配置されます。宝生如来の反対側です。印は宝生如来と同じです。
大学で東洋美術を学び仏像ガールとして知られる女優のはなさんは、仏像の魅力はと聞かれてこう答えています。「かっこいいから」。
カワイイが全盛の時代にあって、かっこいいが注目を集める日がもうすぐそこに来ているのかも知れませんね。
自分の好きなものを、かっこいいと言える人はかっこいいと思います。

如来の中でも人気度抜群?阿弥陀如来の意外な話

単体では3つと最多記録を誇ります。何の話かって?阿弥陀如来が単体でご本尊を務める宗派です。
ほかの仏様と共同でも、片手に納まらないほどご本尊として崇められているのが阿弥陀如来。西方極楽浄土の主にして、極楽往生時には迎えに来てくれる仏様。「南無阿弥陀仏」のお経を唱えるだけで極楽往生させてくれる仏様。そんな阿弥陀様の意外なお話やちょっとしたお話、お届けします。

もと王子説アリ

もとはインドの王子だった、とする説があります。
『無量寿経』という経典によれば、王にまでなったものの世自王如来の説法に感化されて出家したとのこと。出自だけだとお釈迦様と一緒じゃないかと思われそうですが、いろいろと途方もない伝説をお持ちです。ちなみに、修行中の名前は宝蔵菩薩。

修行時代に200億を超える浄土を全て見る

浄土という言葉、今でこそ極楽を想像される方もいるでしょう。
しかし実際には如来・菩薩の住まう清浄なる土地全般を指し、宝蔵菩薩が修行を始めた時には200億もの浄土が存在。「どこにそんな空間が」なんて野暮なツッコミはさておき、若き阿弥陀仏こと宝蔵菩薩は師匠、世自王如来に尋ねました。「浄土はどのくらいあるんですか?どのくらいの仏がいるんですか?」初々しいですね。
世自王如来は弟子の質問、浄土を見たいという要望に応え、全ての浄土、諸仏を見せるのでした。圧倒的な浄土の数に、若き宝蔵菩薩は打ちのめされて、熟考を開始します。長い長ーい時間をかけて。

熟考しすぎて大変なことに

熟考の果て、宝蔵菩薩はまず衆生を救おうと考えます。
その為の四十八の誓いを立てました。これが『四十八願』というものです。
しかし、練りに練ったのでしょう。何せ浄土に住む仏たちには、人間と違って時間がたっぷりあります。そのため、この誓いを立て終わるころにはすっかり髪が伸びてしまっていました。考えていた期間、実に五劫。どのくらい?と聞かれれば、「劫」の定義が経典によって違うので一概には言えませんが、1辺20kmほどの岩を、100年に一度降りてきた天女が削り、岩が完全になくなって1劫。これを5つ分。ずーっと考えていたわけです。
非常に真面目です。見習いたい姿勢ですね。この五劫思惟は像として残っています。しかも、1体や2体じゃない上に、奈良の大仏で有名なあの東大寺にもあります。

OKマークが見分け方、阿弥陀様の印相

四十八の誓いを成し遂げ如来となり、阿弥陀の名を名乗るようになります。
如来像は基本的に質素な服装、髪型パンチパーマ風が基本ですが、阿弥陀様はOKマークのような印を結ぶという特徴があります。たまに手をひねったりして分かりにくいこともありますが、実は鎌倉大仏も牛久大仏も阿弥陀仏です。このOKマークも説法印、来迎印など全部で9種類存在。
しかもそれは「どのくらいで極楽に着けるか」の印でもあります。
来迎、つまりお迎えに来られた際、「あなたはこれだけ徳を積んだから、早く連れて行ってあげよう」といったことが、一目で分かります。「言葉でなくて目で語る」なんて言いますが、阿弥陀仏は手で語ります。
この印は九品(くぼん)と言い、最も徳が高い人物は上品上生という印で迎えられて、最短での到着が可能。

ファッションリーダーとあみだくじの原型

厳密には阿弥陀様の後光が、ひとつのファッションになっているということ。
帽子などの被り物を、斜めに引っ掛けるようにして被ることを「阿弥陀被り」と言います。前から見ると後光がさしているように見えるからとのことですが、後光を背負った仏様はいくらでもいるのに何故阿弥陀被り?実は、あみだくじと関係がありました。今でこそ縦に線を引きますが、かつてのあみだくじは放射状でした。
これはもともと、四十八願にかけて後光の光の線を四十八本引く浄土真宗の本尊に由来します。アフロになったリ帽子の被り方のもとになったり、結構近しいところで慕われていますね。

阿弥陀人気の立役者、法然と他力本願の本来の意味

他力本願、という言葉を聞くと皆さん「人に頼って何もしない」といったイメージをお持ちではないでしょうか。
この言葉、もともとは仏教用語です。そして、阿弥陀仏の人気が上がった理由のひとつでもあります。
時代は平安時代。名前とは裏腹に、世はお先真っ暗の状態でした。当時仏教が幅を利かせていたがため、「蒙古の時代で仏様の功徳は終わり。世界も終わり」という末法思想がはびこり、貴族も庶民も「オシマイダ」と頭を抱える事態。貴族はまだお金や余裕があるので、お寺や仏像を建て、お経を読むことである程度の功徳を積むことも可能ですが、庶民恥も読めない、お金もない。修行方法も分からない。

そこに現れたのが、僧侶法然です。
「阿弥陀様が、自分で仰っている。
『誰であろうと、自分(阿弥陀仏)を信じ、自分の名を唱ええれば、極楽浄土に迎え入れる』と」これは、菩薩時代に立てた誓いのひとつ、十八願がもとになっています。本願とは仏の願い。他力は本願の力を示す。
これが本来の他力本願です。つまり、阿弥陀仏を信じて「南無阿弥陀仏」と唱えれば誰だって極楽往生できる、と説いたわけですね。「阿弥陀様って優しい」と思った人がいたのか、人気が出て浄土真宗(浄土宗の後継のようなもの)や時宗などで本尊に祀り上げられます。ただし、極悪人は駄目だそうです。

建立数もナンバーワン

平安時代に人気に火がついた阿弥陀仏は次々と像が作られて、気が付けば最も多く建立されていました。
信仰心恐るべし。現世利益ではなく、極楽往生に期待した浄土宗ですが、末法思想だけでなく、世間も相当暗かったようですね。
それをいかに明るくするか。人々を救うか。幼児期両親を惨殺されたという過去を持つ法然だけに、人々の苦しみを救いたい気持ちが強くあったのでしょう。阿弥陀様としては像が多く作られていたりありがたがられたりすることより、功徳を積んでくれる方が嬉しかったかも知れません。
それが、「地獄に堕ちたくない」という気持ちからであっても。
極楽浄土は、六道、つまり人間界も含めた6つの苦しみの世界から脱却して行く場所。せっかく悟りを得ても、金銀キラキラの楽しいだけの場所にいたら悟りの心も信心もなくなるのでは、と思うところですが、阿弥陀様の説法する場所でもあります。
一度得た悟りは、中々抜けないものなのではないでしょうか。
しかしそんなことは、悟って極楽往生してみないと分からないものですね。何事も、経験した方がよく分かるものです。
極楽往生でなくあらゆることに言えることですが、無茶は禁物。ともすると、豪勢な極楽浄土は悟りを得た人物の心を表しているのかも知れません。

「真理、真実」に到達した究極の「仏」如来様

『銀河ヒッチハイクガイド』というSFコメディ小説のなかに、こんなエピソードがあります。「人類の究極の幸福とは何だろう?」と考えた宇宙人たちが、スーパーコンピュータを建設。「神」に対し「本当の幸せ」について計算させます。はじき出された答えは「42」。いくら計算しても、答えは「42」でしかない。「究極の問いが分からないから、この答えの意味も分からない」とそのコンピュータは言いました。究極の問い、真理は「自分よりあとに作られる、自分より優れたコンピュータでないと計算できない」と付け加え、更なる究極のコンピュータが作られることとなったのでした。これは劇中でも示唆された通りキリスト教におけるヨセフとキリストの関係を下敷きにしたものと思われます。どの宗教でもいつの時代でも、「真実とは何ぞや」と人々は考えていたわけですね。

こちらは大日如来様。「運形式」で作られたもので、お寺に祀られている如来様ではありません。しかしどうです、この堂々とした表情。仏教ではその「真理、真実」に到達した方々がいます。如来様です。

「如来」という言葉には「如(にょ)という真理の世界から来た者」という意味があるそうです。修行の果てに得た真実、真理を持って苦しむ衆生を救うべく奮闘しておられるわけですが、そんな如来の方々を主軸に、脇侍、眷属の方々も含め、鑑賞ポイントなどついてご説明いたします。

脇侍と眷属

常に、というわけではありませんが、如来様にはそれぞれ眷属・脇侍という仏がつき従っております。脇侍というのは仏教というより仏像用語に近いかもしれません。仏様の左右に位置し、衆生の救済を共に行ういわばサポート役。「三尊像の両脇にいる仏様」と見てよいと思われます。眷属も意味は大体同じですが、こちらは各如来、菩薩の部下のような存在の意味合いが強いです。脇侍との違いは「脇にいるか否か」と言ったところでしょうか。

初期仏教とメジャーな「如来」の紹介

まず頭に浮かぶのはお釈迦様こと釈迦如来。仏教の開祖何で当たり前と言えば当たり前ですね。仏教が日本にやってくる前、如来とは「お釈迦様オンリー」という考えがあったため仏像も釈迦如来のみ。「ほかにも如来がいる」との考えが生まれた大乗仏教でも、初期は釈迦如来の像しかありませんでした。その後、お釈迦さま以前の如来たる過去七如来(お釈迦様も含めた7人)・盧舎那如来・阿弥陀如来・薬師如来が考案されます。密教が生まれると、大日如来が完成し、現在ある仏教の原型が出来上がりました。

「如来」の持つ三十二の相を分かりやすく

「仏像」と聞いて想像するのがまず「パンチパーマで、額に何かあって……」というところでしょう。これは32体存在する「如来の特徴」のうちの3つ、肉髻(にくけい)・螺髪(らほつ)・白毫(びゃくごう)です、肉髻とは、盛り上がった頭部のこと。螺髪はパンチパーマ状に見える髪型、白毫とは額にある右巻きの白い毛を示します。他の29体に関しては「やたら舌が大きい」とか、「皮膚に汚れがつかないほどなめらか」とか、パッと見で分かりにくい特徴であるため、「比較的分かりやすい」特徴として上の3つが如来像の基本として挙げられるのです。パンチパーマっぽく見えなくとも、額の白毫や頭頂部の肉髻部分で分かるはず。いやその前に、各如来の特徴の要点を知っておけば「ええと、どなたでしたっけ」となることはありません。

過去七如来とスローガン

お釈迦さまと、その出現前にいたとされる7人の如来です。七仏通戒偈(しちぶつつうかいげ)という共通のスローガンを掲げておられます。それ即ち「諸悪莫作(まくさ)・衆善奉行・自浄其意・是諸仏教」……意味を訳せば、「諸々の悪事を行わず、全ての善行を成し、自身の心を浄く保つ」となります。

開祖・釈迦如来

ということで、仏教の開祖にして仏像のベースでもある釈迦如来像から。「釈迦」という言葉は「シャカ族」という部族から来ており、「お釈迦様」ご本人の俗名はゴータマ・シッダールタ。王族に生まれながら、それでも逃れられない苦しみ、出家したことで知られる方です。

「釈迦如来像」特有の特徴として「何も持ってない、装飾品すらない」ことが挙げられます。「如来は装飾品がない」という知識を持っている方からすると「当たり前でしょう」となるところでしょうが、有名な如来像の中に刃物を持ったり装飾品を付けたりする方がおられるのです。もっとも皆が皆そう、というわけではないのでご注意を。では、本当にお釈迦さま特有の鑑賞ポイント、見分け方は何か?と問われれば、印相と従えている脇侍です。「釈迦三尊像」で両脇に並んでいるのが文殊菩薩(お釈迦様の知恵を表す)・普賢菩薩(お釈迦様の慈悲を表す)、もしくは梵天や帝釈天なら、お釈迦様と見て間違いありません。

「文殊菩薩と普賢菩薩の区別は?」と聞かれれば、お釈迦様から見て右側に位置し、象に乗っているのが普賢菩薩。左側で獅子に乗っているのが文殊菩薩です。独尊の場合は印相で見分けます。施無畏印(「怖れなくともよい」という意味)、与願印(「願いを聞き入れる」)が基本。説法を説く説法印や、禅宗では定印(禅定印。現代の禅僧も組むが、悟りへと向かう印とされる)と呼ばれる印を組むこともあります。両手の人差し指で天と地を指し示した「天上天下唯我独尊」のポーズをとる誕生仏も存在します。

仏の教えの体現者・盧舎那如来

続いて廬舎那仏。「毘盧舎那」とも呼ばれる、東大寺の「奈良の大仏様」でもあります。あまり聞き慣れない名前ですが、「仏の教えを具現化」した仏様です。こうした仏像は法身仏(ほうしんぶつ)と呼びます。

仏教界の擬人化第一号、と言いたくなりますが、スケールやご利益はけた違いです。無限の時間、宇宙の広がりを意味し、万物の中心で知恵と全てを照らし出す仏様でもあります。そのため大仏として作られることも多いのだとか。お釈迦様の化身と言っても過言ではないので、施無畏印・与願印・説法印を結びます(ただ、指を曲げていたり、指先の向きをそろえていなかったり、複雑なポージングをとっていたりすることもあります)。

盧舎那如来独自の特徴とはと言われれば、光背部分に小さな仏像を従えていることと蓮華座に座っていること、でしょうか。この小さな仏像、全てお釈迦様だそうです。盧舎那如来が統治しているのは蓮華蔵世界という場所とされています。

蓮華台、つまり蓮華は1000の花びらを持ち、その花びら一枚に100億の世界、100億のお釈迦様がおられ説法をされている。経典ではそう伝えられています。

宇宙そのものを表す如来の王・密教生まれの大日如来

出典:https://ja.wikipedia.org/|https://ja.wikipedia.org/wiki/%E5%A4%A7%E6%97%A5%E5%A6%82%E6%9D%A5#/media/File:Dainichi_Nyorai_Unkei_Enjoji_2.jpg

生まれた順番としては最後ですが、今度は密教会のトップに注目。その名は大日如来。

サンスクリット名マハー・ヴァイローチャナ。漢字にすると「摩訶毘盧舎那仏」。名前だけでも先の廬舎那如来と相通じるものを感じますね。密教では如来も菩薩も明王も、全てが大日如来の化身ということになっているようです。これを「三輪身(さんりんじん)」と言います。ほかの如来に転じることは自性(じしょう)輪身と呼ばれます。真理の体現者としての姿です。菩薩は衆生に教えを説くための姿であり、菩薩に変化することを正法(しょうほう)輪身と呼びます。

「従え!」と怒りの力を必要とするときは教令(きょうりょう)輪身として明王に変化するのです。こうした3種の仏を守護するのが天部の役目、というのが密教での考えです。

密教会には金剛界、胎蔵界というものが存在しています。大日如来は両方の世界で、これまたそれぞれ金剛大日如来(知恵の象徴)、胎蔵大日如来(慈悲を表す)と変化するのです。どこで見分けるかと言えば、やはり印相。金剛大日如来は「智拳(ちけん)印」を結び、胎蔵大日如来は「法界(ほっかい)定印」を結びます。智拳印は特徴的な印ですので、見分けやすいかと存知ます。
これが「智拳印」。この像は大阪の金剛寺にあります。

大日如来には、「如来らしからぬ」点も。それ即ち「装飾具をつけている」こと。金剛界でも胎蔵界でも、各々の曼陀羅において中央に位置します。脇侍や眷属の類は密教ご出身の明王や、金剛界では普賢菩薩と同一視される金剛薩捶が。胎蔵界では般若菩薩という菩薩などが挙げられます。

五智如来、一字金輪仏頂尊、多宝如来など

密教の金剛界には「五智如来」という如来が存在します。

大日如来:智慧により真理の本性を照らし出し、明らかにする法界体性智(ほっかいしょうち)を体現。五智如来曼陀羅では中央に位置します。

阿?如来:「あしゅくにょらい」と読み、鏡のように森羅万象を表す智慧の力大円鏡智(だいえんきょうち)の象徴です。曼陀羅では大日如来から見て東方に位置する存在。

宝生如来:あらゆる法の平等さを説く平等性智を担当。大日如来の南方が定位置です。

阿弥陀如来:密教ではありとあらゆる方を正当に追い求める妙観察智を担当。西方に位置します。

不空成就如来:五感の働きに惑わされずに悟りを求める智、成所作智を担当。南方に位置します。

これらの「智」とは頭がいいという意味よりも、悟りに至る精神状態を表します。密教にはあらゆる如来の合体バージョン、一字金輪仏頂尊という者まで存在。法華経の世界においてはお釈迦様の説かれた法華経が「正しい」ことを証明させるために地中から他方を出現させて、「半分はあなた(お釈迦さま)がお座りなさい」と示した他方如来も存在します。仏教も密教も、悟った身ともなると合体してみたり地面から宝塔を出してみたりと、かなりアグレッシブです。

極楽浄土へご案内・阿弥陀如来

「あみだくじ」などでも有名、阿弥陀如来。「阿弥陀」とは、無量、「量れないほどに無限」という意味。西方極楽浄土に負わし、「南無阿弥陀仏」と唱えるだけで極楽往生ができると信じられてきました。

平安時代より、民衆に信奉されてきたためか、未だ本尊に据える宗派は多いようです。広く信奉される前、奈良時代からのトレードマークでもある指でつくる「輪」ですが、全部で9種類あります。滋賀県の慈恩寺というお寺におられる如来像です。

脇侍や眷属として観音菩薩、勢至菩薩が挙げられます。ただこれは浄土宗の三尊像の場合。浄土真宗では独尊で祀られるようです。ほかの眷属として二十八部衆。これはもともと阿弥陀如来の脇侍である千手観音を守る武神で、阿修羅王・金剛力士・毘沙門天王というそうそうたるメンバーが名を連ねています。

病気平癒が役目です・薬師如来

続いて薬師如来。薬師経では当方の浄瑠璃世界の主とされており、本名は薬師瑠璃光如来というそうです。

悟りを開く前から「病気を治してあげよう」との誓いを立て、晴れて如来となったのちは名前に「薬」を冠するようになられました。ほかの如来像との見分けポイントは、ずばり薬壺。これはいくら使ってもなくならない上に、何にでも効く万能薬でもあります。時折薬壺を持っていない薬師如来もいますが、それは作られた年代によるもの。

平安時代以降「これが定義」とハッキリした特徴がようやく日本に伝わったそうです。見分けは印相でしょうか。平安時代以降の作では左手に薬壺を持ち、右手は施無畏印でした。それ以前の作は左手が与願印で、何も持っていなくとも指が下を向いているものが多いようです。また大抵三尊像でつくられ、従える脇侍は日光菩薩、月光菩薩です。見分けポイントは、日光菩薩の場合向かって右に位置し、日輪、つまり太陽を施した宝冠を被るか日輪を乗せた蓮華の茎を持っています。単体で祀られることはまずありませんが、輪廻の暗い道を照らし出す役目を担っています。反対側に位置する月光菩薩は金剛界曼荼羅に於いては賢劫十六尊のひとりとして数えられることもあります。月をイメージしており、月を持ったり月輪をあしらった宝冠を被ったりと、日光菩薩とは対照的な印象です。 眷属として、十二神将がいます。十二神将は薬師如来及び信者を守るのが務め。平安時代以降十二支と結びつけられて、方角も守るようになりました。平安時代って仏様的に急に仕事が増えましたね。末法思想(この世の終わり)のせいでしょうか。それはともかく十二神将メンバーは皆武装しています。十二支の順番でいえば、名前は毘羯羅(びから)、招杜羅(しゃとら)、真達羅(しんだら)、磨虎羅(まこら)、波夷羅(ばいら)、因達羅(いんだら)、珊底羅(さんてら)、あに羅(あにら)、安底羅(あんてら)、迷企羅(めきら)、伐折羅(ばさら)、宮毘羅(ぐびら)となります。最も経典や寺によって名前も異なるようで、こちらは岐阜県願福寺のものです。

気が早いぞ平安人・弥勒如来

先に上げた「世の終わり」末法思想により生まれた如来もいます。またの名を「未来仏」とも称されるその名は弥勒如来。現段階では菩薩ですが、気が早いと言うか不安に駆られた平安時代の人が作っちゃったわけですね。悟りを得て衆生を救うのが56億年後なんて、別の意味で絶望に感じたのかも知れません。気持ちは分かります。「お釈迦様の後継者」なので、印相はお釈迦様と同じく施無畏印・与願印のほか、魔を払う降魔印が挙げられます。

また首に3本線があるのもお釈迦様と同じ。弥勒菩薩の方は須弥山(仏教の中心地とも言える山)で修行中です。未来仏の為か、脇侍も眷属もいないようです。

仏教世界を分かりやすく。有名経文ご紹介!【物語と阿弥陀如来と心理学編】

仏典シリーズ第三弾。分かりやすくも面白い仏典ですが、今回は物語性の強い経典や浄土三部経、心理学的側面を持った経典をご紹介します。

大乗仏教、菩薩のあるべき姿を面白く説く、『維摩経』

これまたストーリー仕立ての面白い経典です。維摩居士という人物を主人公に据え、仏弟子をはじめ有名な菩薩に至るまで論破されるわけですが、その様が何だか痛快な経典なのです。それでいて、しっかりと「大乗仏教とは」「菩薩とは」どうあるべきかを教えてくれています。文殊菩薩との論争が特に有名です。居士とは、俗世の身で仏道修行をする人のこと。

【病気の振りをする維摩】
維摩居士が病気になった、との知らせが仏の世界にも届きますが、未来の救世主弥勒菩薩でさえ「あの人トラウマです。いろいろ言われて軽くうつ状態です」と尻込みしてお見舞いに行きません。何せ維摩居士は、頭は切れるし、超能力まで得ているし、言いすぎること以外取り立てて日の打ちどころのない人物。名乗りを上げたのは、菩薩でも特に知恵者の文殊菩薩。「文殊ならいけるか?」と、大勢の菩薩が見物に来ました。ちなみに、維摩居士が病気になったと言っても、仮病です。
「どうしてあなたは病気なのですか?」との問いに、維摩は鼻で笑って答えます。「世間が病気だからだよ。衆生は病んでいるのだ。この病が治れば、私もたちどころに病が治るだろう」と。つまり、世間は煩悩まみれで、それを病に例えたようです。

【やたら高い椅子を出した不可思議品】
仏弟子のひとりが言いました。「あの、座りたいのですけど……」そこにピシャリと維摩居士の言葉が飛んできます。「お前は座りに来たのか、法を求めに来たのか」と言って、椅子を32000も出しました。ちなみに、場所は維摩居士の家で、どちらかと言えば狭い方です。この椅子はとんでもなく高く、維摩居士同様神通力を持った菩薩は座れましたが、ただの仏弟子には座れませんでした。須弥灯如来なる仏に拝謁してやっと座ることができたとか。

【花びらで「空」を語る観衆生品】
維摩居士が衆生というものをいかにして観察し、導くかについて説法していると、「あなたは立派ですね」と天女が現れて花びらのシャワーを降り注ぎました。菩薩の方には花がくっつくことはありませんでしたが、仏弟子の方にはなぜかくっついてしまって取れませんでした。「仏弟子としてこれはよろしくない。何とかして取らないと」と、身についている神通力で落とそうとしますがこの花が頑固な汚れのごとく落ちません。洗剤のCMに出したいくらいに。「なぜですか?」と困っていると、天女は言いました。「『仏弟子として』などと考えているからですよ。周りの状況をいちいち気にしているからくっつくんです」つまり花と仏道はふさわしくない、だからとろうという考えが、仏弟子の体に花を貼り付けたままにしているということのようです。これは、あらゆる物に対する執着から解き放たれることの重要性を説く「空」の思想を表します。

極楽往生の段階を説く、『無量寿経』

「〜三部作」という物がありますが、経典にもありました。その名も、浄土三部作。
阿弥陀如来の住まい、極楽浄土に関する経文を記すのが浄土三部経であり、『無量寿経』はその一作目に当たる物。出家して宝蔵菩薩と名乗り修行期間を経て自らの浄土を得るまでを描いた物です。「私の浄土に生まれたいと思う者すべてを受け入れるまで如来にはならない」という決意を始めとする四十八の誓願を果たすのは、まさに途方もない時間でした。極楽浄土の様子のほか、衆生の生前の行いにより3つの段階にランク付けした「三輩往生」についても書かれています。

【上輩】
出家僧。

【中輩】
出家をしていなくとも、仏像づくりなどをして徳を積む者。

【下輩】
出家しない、徳も積まない、しかしわずかでも往生を願う者。

シンプルな往生経典、『阿弥陀経』

またの名を『小経』。『無量寿経』に対しこの名前が付いたのですが、単に内容が短めでシンプルなため、こう呼ばれているのです。お釈迦様がまだ生前、弟子たちに「阿弥陀如来の極楽浄土に生まれなさい」と説く様子などが描写されます。どちらかと言えば短めの経文で、「阿弥陀様のお名前を一日、もしくは七日間念じ続ければ極楽往生できますよ」とのキャッチコピーまであるのです。

浄土宗関連の最終形態、『観無量寿経』

三部作のラストを飾る経典です。通称は『観経』。
観想する、つまり心に極楽往生並びに阿弥陀如来を思い描くことを説きます。
「南無阿弥陀仏と唱えれば極楽に行ける」というのは、この『観無量寿経』にて初めて描かれていることなのです。この観経、冒頭にて阿闍世王子が父王を幽閉し、餓死に追い込もうとする物語が存在。こっそり体に密を塗って夫を助けたことで自らも幽閉されてしまい、親子での殺し合いに哀しむ韋提希望夫人が苦しみのない世界を望み、お釈迦様が「極楽往生を思い描きなさい」と説くお話です。

お釈迦様入滅後のストーリーを2パターンで描いた、『涅槃経』

正式名称は『大般涅槃経』。上部座バージョンと大乗バージョンがあります。

【上部座版】
お釈迦様が最晩年にどういうことを行ったか。入滅後荼毘に付されて8つのストゥーパに仏舎利(遺骨)を分けるまでの経緯をこと細かく書いています。
お釈迦様の最期も感動的です。「いいか。存在する物はいずれ滅んでいく。それでも怠ることなく、精進を続けよ」と。お釈迦様しか仏はいない!というのが上部座仏教ですので、その入滅に重きを置いています。

【大乗版】
入滅、分骨がクライマックスになっている上部座版とは違い、ややあっさりした印象です。「重要なのは、そこから。仏様はいつだっているし、誰だって仏様になれる」との考えから、不滅の仏、その仏性は誰にでもあり、仏こそが本来の姿なのだとしています。

心理学的『唯識三十頌』

唯識。それは「色々な出来事は心の持ちよう」という意味です。
心とは目・耳・鼻・舌・身・意識の6つが従来の教え、「六識」です。唯識では自我意識(末那識)と潜在意識(阿頼耶識)が加わった「八識」が心であるとしています。「阿頼耶識は過去の行い、業がもとで生まれる。これは善でも悪でもなく、全ての源」です。煩悩とは阿頼耶識の産む流れを母体に、自我である末那識で発生。六識に影響を及ぼした物なのと説明されます。この八識論のほか、世界の見方、三性説も存在。

1、遍計所執性:世俗で経験する、俗人が認識する事物。

2、依他起性:他との因縁により起きていると認識する、相対的な事物。

3、円成実性:悟った状態で見た世界や存在。真の存在であり、絶対的な物。

いろいろな考えが垣間見られますが、シンプルでも難解でも、込められた想いや気概は伝わりますね。続いては、密教と日本人にはお馴染み、アノ行事に関係する経典をご紹介します。

【日本仏典編】

海外出店の書ばかりでなく、日本でも多く仏典は記されてきました。ラストを飾るのは、我が国日本の仏典です。いろいろな宗派がありますが、経典はどのようなものがあるのでしょうか?

真言宗は他とは違う!空海作の『秘蔵宝鑰』

空海による著作です。
830年(天長7年)、淳和天皇が「仏教も宗派が多いから、宗派ごとに教義をまとめてきなさい」と仰せになります。
空海は『秘密曼荼羅十住心論』なる著書を撰進(天皇に提出すること)。『秘蔵宝鑰』はその簡略バージョンです。
空海はこの書物のなかで、天台宗や華厳宗といったほかの宗派を顕教という密教とは違う教えだとし、真言密教との違いとしてあらゆる心の状態を十段階に分け、記しました。
これは空海だけの考えではなく、『大日経』などの経典を参考にしたものです。「羊みたいに貪り食らう心」こと第一往心(またの名を「異生羝羊心」)は煩悩まみれで宗教心もない状態。そこから段階的に儒教やインドの哲学、老荘思想、上部座仏教のはじまり、極意。大乗仏教の始まり、極意と言った具合に進化。「最高なのは真言宗であり、大日如来様の説かれる、最上の悟りを得られる」との結論に至る経典です。

天台宗発・極楽行くなら念仏を!『往生要集』

著者は源心という天台宗の僧侶。
いろいろな経典からの引用を駆使して念仏や極楽往生についてまとめたものです。源心自身の著というより、要約版と言ったところですね。

この著書が出た当時は末法思想が大流行。
「2012年(平成24年)に世界が終わる。だってマヤ暦のカレンダーがそこで終わっているもの」という、あの頃にも似た恐怖心が、人々のなかにはありました。そんななかで生まれたこの『往生要集』は「仏教には8つの地獄がある。こわいよ」という「厭離穢土」という章からはじまります。第1章「厭離穢土」で地獄(やその他の六道世界)の様をこれでもかと描き、第2章「欣求浄土」で極楽浄土の素晴らしさを描いているわけですが、重要なのは第4章。「正修念仏」です。
これは「素晴らしい極楽浄土に生まれる為の念仏の仕方」を説いています。ただ「南無阿弥陀仏」というだけでなく、阿弥陀様を真から礼賛し、悟りの気持ちを起こし、阿弥陀様のお姿を観想すること。
よき結果に向け、悟るために精進することの重要性も解いているのです。この書は後代の仏教に多大な影響を与え、経典のみならず美術にまで影響を及ぼした、静かに重要なものでした。第5章以降では、念仏による修行の方法や念仏による功徳、包容性などを説き、最終章では念仏こそが最高の者であるとしています。

弟子が起こした親鸞語録集『歎異抄』

仏教自体の初期仏典は、お釈迦様のお言葉を記したものが中心でした。
ある意味それと同じことが日本でも起こったのです。

この『歎異抄』、浄土真宗を開いた親鸞和尚のお言葉を弟子たちがまとめたもの。著者は唯円という人物です。
親鸞の死後、彼の教えに異義(誤植ではありません)申し立てをする弟子が出はじめました。それだけならまだしも、「親鸞様のお教え」と称してまるっきり違うことを言ってのける人物もいたようです。半ば怒りに震え、半ばため息をつきながら「師匠、私があなたの正しい教えを守ります」と記したのが、この『歎異抄』です。初めの10章(通称師訓編)は師匠の言ったことを書き留め、残りは意義に対する批判(通称異義編)でまとめています。
主に悪人正機について書かれており、念仏信仰というのはこういうものなのだ、と、「真の念仏信仰」を説いているのです。ただ、悪人の往生に関しては「悪いことした奴は極楽往生できません」と親鸞が語っているにもかかわらず、『歎異抄』では「悪党の皆さん、ちゃんと悔い改めなさいね」程度にとどめ、「極楽往生できない」とは書いていないようです。ただ100%ではないにせよ、それに近い精度で師匠の言葉を解いていることに間違いはなく、現在でも広く慕われているようです。以下、阿弥陀信仰の用語を少し書いておきます。今、世間一般で使われている言葉とは意味が違います。

【悪人】
悪行を成したものではなく、自分で修行できない人のこと。阿弥陀如来にすがるしかできない人を示します。

【他力本願】
阿弥陀如来の本願により、極楽往生すること。

【「南無阿弥陀仏」の意味】
「阿弥陀如来様に帰依する」という意味。

曹洞宗の教科書、日本語で書かれた初の仏典『正法眼蔵』

曹洞宗の祖、道元著。
曹洞宗の教科書とも言える存在であり、全87巻という非常に長い経典です。正法は仏法を表し、眼蔵とは眼のようにくまなく仏法を見、蔵のように仏法の全てを収めるということ。仏法の宝庫と言っても過言ではないかも知れません。
主な主張は、ひたすら座禅を行う「只管打坐」と、その結果見えてくる「修証一等」。これは修行そのものが悟りの境地なので、座禅を組むときに「仏にならなくては!」と考えることはないとも説いています。

流人時代に書いた日蓮の著『観心本尊抄』

日蓮の代表作です。
日蓮はいっとき佐渡に流罪になっていたことがあり、そのときに書いたとされています。正式なタイトルは『如来滅後五五百歳始観心本尊抄』。この長いタイトルには、「今はもう末法の世。正法を説かなくてはならない時期」という意味があります。内容は問答の形を取っています。天変地異が多く、「世界の終わりだ」となるのも無理からぬことで、「末法の世が訪れた今こそ、歓心と本尊という教義を世に現し、広める」ことが、この経典に記された日蓮の覚悟、決意です。

【歓心】
「『法華経』に帰依する」という「南無妙法蓮華経」を心に浮かべ、口に出し、体で行動することを指します。

【本尊】
お寺の本尊である仏像、ではなく信仰の大将である仏や神々を大曼荼羅の形で表したものです。
娑婆(この世界)の地面が割れて、そこから上行菩薩をはじめとする多くの菩薩が湧いて出、『法華経』を広める、と後半部分で記されており、自分が上行菩薩だととれる文面も見受けられます。「それだけの覚悟があったということですね。

阿弥陀如来の基礎知識

お経のなかに名前を読み込まれる阿弥陀如来について、まずは基礎知識からお話します。サンスクリット名はアミターバ。またの名を無量寿如来とも言い、そちらはアミターニスとなります。「あみだ」という名前はサンスクリット語をそのまま漢字にしたもので、無量寿如来の方は意味を訳した名前になります。意味としては、十方を照らすほどの計り知れない光といったところです。

そんな阿弥陀如来は、極楽浄土と関係深いことで知られています。正確には関係深いどころではなく、極楽浄土の主です。もともと浄土とは、数多い仏様の土地のことで、極楽浄土もそのひとつに過ぎません。
それでも阿弥陀如来が有名なのは、「全ての衆生を救う」という途方もない誓いを立てたためでした。

日本においては、平安時代に「阿弥陀如来を思い浮かべて、念仏を唱えるだけで救われる」とのシンプルな教えが庶民層に受け入れられました。浄土宗や時宗などの出現であっという間に広まったのです。
阿弥陀如来像は、坐像立像関係なく、どちらかの手の親指とほかの指が輪を作っているので、そこで他の如来との見分けることができます。この手の形は来迎印との名称です。胸の前で両手の親指と人差し指で輪を作っていることもありますが、これは転法輪印と言います。この名前は、「『ありとあらゆる雑念、妄念を砕いて、悟りの障害となるものを除きましょう』と説いています」との意味です。

ちなみに、何故極楽は西にあるのか、と言えば古来より日の沈む西が死を連想させてきたためです。極楽往生する前に、一旦今までの肉体を捨てる、つまり死ぬことになるので、西方がイメージされたようです。あまりイメージはないかも知れませんが、「楽しいところに連れて行くよ」と言われればあまりこわくはないですね。ただし、阿弥陀如来直々に迎えに来るのは高僧レベルの人物のみです。

生前の行いによって決まりますが、来迎には格差が存在します。無間地獄に堕ちても極楽に活かせてくださるのですから、そこは感謝をしましょう。もっとも、この場合にはお迎えはありません。

十八番の由来は阿弥陀如来

得意なことを十八番、もしくは「おはこ」と言います。この言葉は、元々阿弥陀如来と関係がありました。歌舞伎が関わっているとの説もありますが、仏教においても重要な意味がありました。

それは、阿弥陀如来が宝蔵菩薩という名前だった頃。先に述べた通り、如来となる目標の為に誓いを立てます。宝蔵菩薩は「どんな誓いがいいかなあ、どうしたら皆を救済できるかなあ」と考えました。

菩薩は人間より長生きなので、時間はたっぷりあります。インドの王族の生まれともされる宝蔵菩薩はたいそう真面目だったようで、考えに考え抜きました。その時間、何と五劫(ごこう)。人間時間に換算すると216億年です。
人間だったら正気を失うレベルですが、菩薩なのでそんなことにはなりません。髪が伸びるだけにとどまりました。しかも、誓いを48にまとめることができたのです。この誓いをこれまた真剣に実践した結果、阿弥陀如来となり今に至ります。

この48の誓いのうち18番目が特に重要視されたことから、重要なもの・得意なこと、を「十八番」と呼ぶようになりました。
この18番目の誓いとは、「私を想って念仏する者を、私の浄土に生まれさせる」というものです。ここで言う「私の浄土」こそ極楽浄土であり、そこに生まれることを極楽往生と言います。場所は仏国土という仏様のニュータウンの西方です。

極楽浄土は修行の場。「極楽往生」の真の意味とは

「善いことをすれば、極楽に行ける」「悪者でなければ極楽に行ける」極楽往生に対し、そんな認識をお持ちではありませんか?
確かに、極楽浄土には苦はありません。しかし、それは煩悩から解放された状態であって、極楽浄土に行けばずっと遊んで暮らせるとか、よほど悪いことをしなければ大丈夫などということはないのです。
極楽浄土は修行の場です。阿弥陀如来様が直々に迎えに来るような人物であっても、修行をしなくてはなりません。

よく死者が出ると「迷わず成仏をしてください」と言いますが、そもそも「成仏」の見解も間違っています。成仏とは完全なる悟り、解脱を果たして仏と成るとの意味で、「死んであの世に行く」ということではありません。
どちらかと言えば往生の方が「あの世(別の世界)に行く」との意味になります。これは本来、輪廻思想を表す言葉でした。浄土宗の広まりによって、「極楽という世界に行きましょう」との意味合いで、極楽往生の言葉が誕生したのです。現在往生の「往」は極楽行きを示し、「生」は生まれ変わることを意味します。極楽浄土には両親に当たる存在はありません。蓮華のなかから化生します。

極楽浄土は六道輪廻からは外れますが、往生のもとの意味を考えると、やはり輪廻の輪から抜け出せていません。「苦しいことは何もないよ、楽ばっかりだよ」と言われますし、いかにも快適そうな場所ですが、「じゃ、この居心地のいい場所で修行をしようね」というのが極楽浄土の実像です。これが俗世なら「話が違う!」と訴えに出る人もいるかも知れませんが、そんな人はまず極楽往生などできません。

ところで、先に挙げた48の誓願ですが、ちょっとした矛盾が存在していました。この誓願のなかで、「女の人は極楽行かせない」との文言が存在するのです。ところが特に有名な18番目の誓願では「私の浄土に来たい者は全部来させる」と言っています。「女なのに行きたい場合はどうなるの?」と言われれば、「一旦男になって生まれる」とされた時代があったようです。
もともと初期仏教において、「女性には仏の教えは理解できない」との偏見めいた考えがありました。納得のできない方もおられるかも知れませんが、仏教の考えには「諸行無常」があります。絶対の真理以外は変化するとの考えです。これによってでしょうか、時代がさがるにつれて女人往生も許されるようになりました。

今では、極楽往生した途端に性別だの何だのと言った垣根も超えてしまいます。真の解脱は、何もかもを超越した状態のことです。
一心不乱とまではいかずとも熱心に阿弥陀如来を拝み念仏を唱えるだけで往生は叶うのです。ただ、生前の罪やどれだけ信仰が厚かったかによってお迎えの方法も違ってくるようです。
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