仏像

観音様はみんな同一人物!? 三十三の変化パターンの見分け方

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多少なりとも仏像についてかじっている人ならば、仏像、と言うよりも仏様にも位のようなものがあることをご存知かと思います。如来・菩薩・天などなど。なかでも菩薩と言えば、比較的身近なものと感じる方も多いのではないでしょうか?「菩薩のよう」「菩薩顔」なんて言葉があるくらいですし、「悟りを得るために修行中」ということにも、ひたむきさを感じます。そこに一種の共感を覚える人もいるでしょう。「ところで、菩薩と言ったら「観音様」を思い浮かべる方も多いのではないでしょうか。でも菩薩のすべてが「観音様」というわけではないんです。

他の「菩薩」との違いは?

他の菩薩との違いとして
1. 何にでも変化可能。(パターンは三十三)
2. 現世でもご利益がある。(観音という名には、苦しむ衆生の声を広く聞き、観ると言う意味がある)
等が挙げられます。他の菩薩も修行と並行して衆生の救済を行っていますが、観音様の場合はさらに踏み込んだところまで来る、といった感じでしょうか。また阿弥陀如来の脇侍(部下のようなもの)にして慈悲の部分をつかさどる一種の分身との見方もあるため、「阿弥陀三尊像」では必ず阿弥陀様の右側に位置します。(左には勢至菩薩)

鑑賞のポイントは、
1. 基本的に豪勢な衣装。これは「まだ煩悩から抜け出せていない」ということではなく、菩薩全体が修行時代、或いは修行前の、王子だった頃のお釈迦様を模しているため。
2. 頭部の冠に「化仏(けぶつ)」がある。この「化仏」と呼ばれる小さな仏像が観音方の菩薩かを見分けるポイントです。「化仏」の正体は何か、と言われたら、ずばり阿弥陀様です。阿弥陀様の脇侍として、共に極楽往生の際に現れる観音様は、その御印を頭部に頂くわけですね。

結構すごい?観音様のご利益パワー

三十三もの変化パターンがありますが、「能力」にも相当なパターンがあり、超常的なものがあります。ざっと挙げただけでも、
1. 洪水に飲み込まれても浅瀬に着く。
2. 火事になっても焼けない。
3. 刃を持った悪党に襲われても、刃が折れる。
4. 欲望が生じてもすぐに消滅。
5. 生まれる子どもの性別も自由自在。
などなど。何か「盛りすぎ」な気もしますが、これが観音様の持つお力なのです。

「観音様」のはじまり・聖観音菩薩

初期の観音様は、「聖観音菩薩」と呼ばれ一面二臂(顔がひとつで、腕が二本)のものが多かったのですが、時代と共に三十三の変化パターンが造像されるようになりました。有名な千手観音・馬頭観音などです。六観音と呼ばれる面々をはじめ、一部を抜粋してご紹介します。
まずは、東慶寺の聖観音象ついてですが、何か紆余曲折を経たようです。二本腕の観音像の場合は水瓶を持っていることも多いとのことですが、この像は持っていません。

あらゆる衆生を救います。千手観音菩薩

次にメジャーな観音様からご紹介します。「千手観音」。本名は千手千貫観世音菩薩と言い、その名の通り伝承では掌に目玉があるそうです。像では持物(じぶつ)があるため確認しづらいのがほとんどです。顔もたくさんありますが、これは「どこにいようと、誰だろうと見つけ出して救う」という覚悟や能力を表したもののようです。大概腕は42本ですが、これは仏師がサボったとかではなく「1本の腕で25の能力を持つ」ことを表しているそうです。たくさんのお顔はそれぞれに表情が違っています。この表情にもちゃんと意味があるのです。ちなみに、二十八部衆という眷属がいます。

コワモテ!だけど観音様。馬頭観音

基本的に菩薩と言ったら「穏やかな表情」を浮かべる方も多いはず。しかし、いくら説いても聞かない者は聞かず煩悩が絶えない者は絶えません。そうなると、馬頭観音の出番となります。もとは明王との説もある馬頭観音です、憤怒相を持っているのも無理はありません。しかし一方で、「煩悩や悪い心をまるで草を食む馬のように食べてしまう」とも言われています。「何で馬なの?」と思われるでしょうが、古来より馬はさまざまな信仰・神話・伝承のなどで神聖視されていました。その名残りもあって、頭上に実際に馬を頂いているとの説もあります。そして、馬と言えば乗り物としても重宝されてきました。その関係からか、「交通安全の守り神」としての側面も持っています。もと明王だったり、交通に関して守ったり。観音様の変化パワーや信仰の移り変わりというものを感じますね。

360度隙がありません!十一面観音菩薩

続いては十一面観音です。腕は基本的に二本ですが、頭部に「顔」がたくさん乗っています。これらの顔や表情には千手観音同様にちゃんと意味があります。まずは穏やかな表情をした慈悲相。善行をする人間にご利益を与える表情です。次に白牙上出相(びゃくげじょうしゅつそう)。「がんばってるね」と励ます表情。続いて瞋怒相(しんぬそう)。これはそのまま、「何悪さしてるのかな?」とたしなめる表情。怒った顔を持つのは馬頭観音と明王だけじゃないんです。そして、ある意味一番衝撃的なのが、後頭部にある暴悪大笑相(ぼうばくだいしょうそう)です。大口を開けて笑っているのですが、どうも「悪いことをしているね。ばれてますよ。みっともないですよ」ということらしいのです。こうした「面」がぐるりと360度頭部を取り巻き、見張り見守っているのが十一面観音。上に挙げた「相」全て、千手観音像の頭部にも表されています。

そのポージングの意味合いは?如意輪観音菩薩

ほかの仏像と比べると変わった印象を与えるのが如意輪観音像です。
「合掌していない」「変わった座り方をしている」のです。しかし、ちゃんとご利益のある観音様ですのでご安心を。ちなみにそのご利益とは、富と幸福。どんな願いでも叶う珠(如意宝珠と言います)と、煩悩を打ち砕いてしまう法輪を持つため「如意輪観音」の名を持つのです。よく見れば、法輪も宝珠も手にしています。仏像と言えば、坐像立像共にシャキッとまっすぐ立っているか、しっかと大地を踏みしめているイメージなのに、なぜかリラックスモードの座り方をされています。これは輪王座(りんのうざ)と言って、如意輪観音だけでなく一部の馬頭観音も行っている座り方で、れっきとした「仏様の座り方」なんです。片方の膝だけ立てて頬杖をついているように見えるため「リラックスモード」に見られがちですが、足の裏を合わせており、やってみると結構きつかったりします。頬に右手を添えるのは思惟(しゆい)というポーズ。弥勒菩薩も行っている、「衆生を救う方法を考る」手の形。たまに両腕の場合もありますが、その際は安心させる、願いを聞き入れる手の形(印という)をとります。どちらかと言うと、密教に近い仏様のようです。

女性の味方!准胝観音菩薩

六観音の最後のひとりは准胝観音。菩薩、あるいは観音に性別はないとされていますが、准胝観音は女性の観音様です。救済のために多くの仏様を生み出したため、准胝仏母観音(じゅんていぶつもかんのん)とも呼ばれています。ご利益は災いを取り除き、命を延ばし、女性を守って子宝を授けるなど。

アナタのお願い捕まえます!不空羂索観音菩薩

そして最後に、不空羂索観音をご紹介します。千手観音や馬頭観音など強烈な個性を持ったヴィジュアルの多い観音像に置いて、不空羂索観音は「地味」な印象を与えるかもしれません。しかし役割やご利益は、その名前に既に現れているほどの折り紙付きです。羂索とはもともと、仏教発祥の地たる古代インドの、網のような狩猟道具のことです。不空は「空しくない」という意味。つまり、「空しくないよ。あなたの願いは叶えるし、あなたのことを救うよ」という名前を持った観音様です。羂索、縄を持っているのが主な特徴です。

六観音とは、聖観音に始まり千手観音・馬頭観音・十一面観音・如意輪観音・准胝観音のことで、六観音の役割は、六道をぐるぐると輪廻する魂の救済です。不空羂索観音は六観音ではありませんが、「もれなく助け、願いを聞き入れる」点ではほかの観音様と同じ。観音様の「変化」を普門至現(ふもんしげん)と呼び、説によっては七観音だったり十五観音だったりもします。「パターンが三十三あるから」ということからか、三十三観音という説も。いずれの説にせよ、衆生を見守り、ときにいさめつつ救ってくださる観音様がありがたい存在であることに変わりはありませんね。

魅力も能力も盛りだくさん!観世音菩薩特集・説話と霊場編

いろいろと魅力やお姿のある観音菩薩ですが、今度は像だけでなく、説話や霊場などにもスポットを当てていきましょう。

三十三の霊場×3+1で百霊場

観音様は現世利益がお役目。
浄土宗が世に隆盛を誇るや、現世・来世共々に利益をもたらすとして、さらに信仰が盛んになりました。そしてはやりだしたのが霊場の参詣。霊場と言うのは、寺院のことです。平安末期頃になると「大きい所は俗化してきたから、ほかの所にお寺を建てよう」と高僧たちが布教や修行のため全国行脚を開始。
十三という数字にこだわったのか、西国・坂東に三十三ヵ所、秩父に三十四ヵ所の霊場を作り、日本百霊場が完成しました。

【西国三十三所】
和歌山県の青岸渡寺(如意輪観音)からはじまり、十一面観音を祀る岐阜県華厳寺まで。平安時代は修験者や貴族が、鎌倉時代以降は武士が行脚を行い、「西国」の名も武士の時代になってから付きました。

【坂東三十三所】
十一面観音を本尊とする神奈川県杉本寺から千手観音を祀る千葉県那古寺まで。初期は修行僧の行脚が多かったのですが、ある時期から庶民も巡るようになります。

【秩父三十四所】
聖観音を祀る埼玉県四万部寺から千手観音を祀る埼玉県水潜寺まで。全部埼玉県です。江戸時代には江戸からの関所を通ることなく、また女性でも気軽に霊場巡りができたようです。江戸時代にもいたのですね、歴女的な人たちが。大部分のお寺が小規模で禅宗のお寺もあるそうです。

『日本霊異記』の説話・熱心に観音像を祀る理由

続いて、観音絡みの説話をいくつかご紹介します。
『日本霊異記』という、仏教に関するお話を集めた本にもいくつか載っています。

はじめに、行善という僧侶のお話から。この人は興福寺に住まい、それは熱心に観音様を拝んでいました。
なにゆえかと尋ねれば、それは若い頃にさかのぼります。仏教が伝来したと言っても過言ではない推古天皇の御代、行善は高麗に留学に行きました。
が、高麗は戦争で滅亡してしまい、それに巻き込まれてしまいます。勉強しに行って戦争に巻き込まれるということは、現代でも起こり得ることなので皆さん気を付けましょう。それはともかく、「何をしにここまで来たのだろう……」と、あちこちをさすらいました。やがて川にさしかかりましたが、橋も船もないのです。
疲れもあって、泳ぐ気力もない。そこで「観音様、お助けを」と願うと、船に乗った老人が現れました。

乗せてもらって向こう岸まで行くと、老人の姿は既になく船もありませんでした。「あの老人は観音様だったんだ」と、これから毎日観音様を拝むことを心に決め、唐では川辺に観音像を作って毎日毎夜参詣したそうです。

『日本霊異記』の説話・美女と逆玉の輿を狙った僧侶

時代は奈良時代、東大寺を建てさせた聖武天皇の御代。御手代東人(みてのしろ・ずまびと)という僧侶が吉野の山にこもって「南無観世音菩薩」と祈っていました。しかし、祈祷の内容がお坊さんの願うことではありませんでした。米・大金・美女ですから。
3年後、それなりの地位と富を持った人物が、病気の娘を治すべく徳の高い僧侶を探していました。
東人が呪文を唱えるや、娘さんはたちどころに治り、「ありがとうございます」と東人に恋心を抱きます。そして、婚姻のないまま結ばれてしました。当然家族は怒り、東人を監禁します。娘さんはよほど東人が好きだったらしく、牢の前で泣き暮らす日々。「そんなに好きなのでは致し方ない」と、家族に許され二人はめでたく結婚します。しかし、そこで終わりではありませんでした。この奥方が数年で死んでしまうのです。病床に呼んだのは、夫ではなく跡継ぎである兄。
最後の願いとして、「夫には恩があるので、私が死んだらお兄さまの娘とあの人を夫婦にしてやってください」と遺言を述べました。
で、この願いが本当に聞き入れられ、東人は地位も財産もある家の婿になったということです。跡継ぎの兄の義息子になったため、家屋敷から財産の相続も出来たわけですね。個人的にはいろいろと納得がいきませんが、熱心に祈った結果、いろいろなことがと叶ったという一種のプロパガンダのようです。

『日本霊異記』の説話・唐で捕まった男たち

その昔、越智直(おちの・あたえ)という人物が、「百済を救済せよ」と援軍として百済に派遣されたときのこと。
戦いのなかで唐軍に捕まってしまい、そのまま捕虜にされます。
直は、捕らえられながらもどこからか観音菩薩像を得てきて、「日本に帰れますように」と必死にご祈祷します。そして密かに船を作り、そこに観音様もお乗せして、こっそりと抜け出したのでした。風の助力もあって日本に帰り着くことができ、しかもときの天皇により土地を与えられました。
観音様のおかげで無事に帰れたと考えた直は、天皇により与えられた土地にお寺を建てて観音様を本尊に据えたというお話です。真面目だったから助けられた、のでしょうか。

清水寺の発祥

「清水の舞台から飛び降りる」で有名な清水寺。
この建立にも観音が関わっていました。平安時代にもなっていない779年のこと、沙弥延鎮は夢を見ました。夢にあおられ、「北に行かなくちゃ」ということで、着いた場所が音羽山。金色の川を見付け、それを辿って行くと行叡という白い衣を来た居士(出家しないで仏道修行をする人)に出会います。「や、観音様を心に念じながら君のこと待っていたよ。もう200年になるかな」と言いながら、木の切り株を示して曰く「これで観音様を作りさい」と言い残して去っていきました。延鎮は、言われた通りに切り株で千手観音像を彫り上げます。
そして、この観音像を誰か保護してくれる人に預けようと、今度は自分が人待ちをはじめます。そのことを耳にしたのが、征夷大将軍坂上田村麻呂でした。田村麻呂が「わたしがお堂を建てましょう」として、出来上がったのが、清水寺というわけです。
ちなみに清水寺と言えば、毎年年末にその年を象徴する漢字を書くことでも知られていますね。ちなみに、明治5年まで本当に飛び降りる人がいたそうです。

まとめ

『日本霊異記』説話を楽しく読みながら。観音様が願いを叶えてくださると信じ、真心を込めて拝んでみるのもよいでしょう。

個性派菩薩、観音菩薩はここがすごい!

文明が発達し、今に至った裏には「これは絶対必要になる」「こうすれば、もっと便利になるだろう」との思いがありました。仏教も同じ事です。特に人気の高い観音菩薩ですが、同じ理由で今のお姿となりました。その人気の理由や功徳などをご紹介します。

観音菩薩基礎知識

観音菩薩は、仏像・仏様のなかでも高い人気を誇ります。理由のひとつは現世利益です。今生きているこの世界での利益をもたらしてくれること。また、見た目にもユニークな姿をした観音様も多く存在していることも親しまれている理由のひとつのようです。
阿弥陀如来の眷属、脇侍のなかでもトップクラスの菩薩として知られており、阿弥陀如来の智慧を表す勢至菩薩に対し、慈悲を表すとも言われます。サンスクリット名は、「自在に見下ろすことができる者」という意味のアバロキテシュヴァラ。

『観音経』のご利益の実情は?

「刃物で刺されそうになっても、溺れそうになっても、火事のなかに取り残されても、龍やら鬼に出くわしても、『観音様!お助けください!』と唱えるだけでたちどころに人は救われる」という、驚くようなご利益を解くのが『観音経』。
しかしこの本質は、「観音様を信じて信じて信じ抜けば、何も苦しまなくなる」ということのようです。意味を考えるだけでも面白く、仏様が身近に思えてくるかも知れませんね。

少年に慈悲を説く

「善知識を持っていそうだ、と思った相手の話を聞きなさい」。智慧の仏、文殊菩薩からこんなことを言われた少年がいました。
その名は善財童子。「僧侶でなくてもよい」と言われたこともあり、第六感を信じていろいろな人を訪ね歩き話を聞きます。なかには遊女もいました。外道(他宗教信者のこと)もいました。ひたすら話を聞いて回りました。やがて、観音菩薩のもとへとやってきました。
ここで観音菩薩が説いたのは、慈悲について。このときのお姿は、病気を治すと言われる楊柳観音だったとされます。

実はみんな同一人物。変化数が三十三のそのわけは?

「観音」と名がつく仏は数あれど、実はみんな同一人物なのです。
こんがらがりそうなほど多くの腕を持った千手観音も、怖い顔の馬頭観音も、腕は二本だけど顔が沢山ある十一面観音も、元は同じ仏が変化した姿。観音菩薩は三十三応現身と言い、あらゆる姿に変化。さとす相手にとって最適と思われる姿となり、救いへと導きます。
必要ならば、子どもや天部の姿もとるのです。三十三間堂、観音を本尊とする寺を巡る三十三霊場の巡礼など、この三十三という数字ですが、仏教の発祥地インドの信仰では重要な数字なのです。
インド神話の経典のなかでは天界・地上・地下と三つの世界があり、十一人ずつ神様がいるとされています。インドの神話からの神々である天部が須弥山に住むのは、インド神話の設定を下敷きにしているのです。変化観音に腕や顔が無数にあるのもインド神話の影響で、三十三という数が取り入れられ、三十三応現身から三十三観音へと信仰も変化しました。

六つの姿で六道の衆生を救う六観音

分身の術まで使うようです。通称六観音の内情は、天道・人道・畜生道・餓鬼道・修羅道・地獄の六道から抜け出せない衆生を救うことにあります。このときに、聖観音や千手観音、十一面観音や如意輪観音といった有名な観音様のお姿で現れるのです。この六観音信仰は、密教で発生しました。

観音の土地、補陀洛山の広まり

阿弥陀如来の部下として極楽浄土にいるかと思いきや、観音には観音の浄土(仏の土地)がありました。その名は補陀洛山。先の善財童子に説法した場所です。インドに名前のモデルとなるポータラカという山が実在し、霊場として親しまれています。信仰の普及によって、ポータラカをもととする霊場が増えていきました。
中国の仏教四大聖山である普陀山や、チベットのポタラ宮殿(力を意味するポータラが語源)などです。
ポタラ宮殿にはダライ・ラマがお住まいですが、それは観音様が現世に現れた姿だから。日本では神奈川県の補陀洛寺・和歌山県の補陀洛山寺が知られています。
「補陀洛山」の名を山号としていただく寺院も数多く、大部分が霊場の札所となっています。山号とは、寺の前に付ける称号のこと。比叡山延暦寺の「比叡山」に当たる部分です。

遊びを知る仏

ときには僧侶、ときには天部の姿に変化する臨機応変な観音菩薩ですが、その臨機応変ぶりは仏には無縁であろう行為にも及びます。それ即ち、遊び。ゲームをするとかではありません。
説法や救済をするだけでなく、何者にも心とらわれずに遊ぶのです。ちなみにこの遊びは遊戯三昧と呼ばれます。

観音菩薩ラリーこと三十三観音巡礼って何?

聖地巡礼は信仰宗教においてよくあることです。仏教も霊場とされる聖地です。寺院が存在します。
有名なのが、四国八十八ヵ所を巡る、通称「お遍路さん」ですね。
こちらは空海が修行のため訪れた場所を辿る旅とされています。
今回ご紹介するのは、観音菩薩を祀る霊場が舞台の三十三観音巡礼についてです。

三十三観音霊場とは

三十三の姿に変化する観音菩薩に合わせて、霊場と指定された寺院を巡る三十三観音霊場巡礼が始まりました。これらの寺院は、九世紀頃に台頭してきた、観音菩薩を本尊とするものです。またの名を札所。納札(のうさつ)と呼ばれるお札を納めるのが決まりなので、こう呼ばれます。

閻魔様から直々に下った指名

この巡礼のはじまりは、閻魔様こと閻魔大王でした。718年(養老2年)、長谷寺を開いた徳道上人が亡くなります。
その名の通り徳の高い僧侶なのでまっすぐに極楽へと思ったら、着いた場所は地獄でした。閻魔様は、徳道上人を地獄へ呼び寄せた事情を語ります。「最近の人間は簡単に悪いことする者ばかり。地獄に来る者が増えてしまった」と。徳道上人はここで閻魔様からお役目を授かりました。閻魔様は、「現世に観音の霊場がある。
三十三ヵ所の観音霊場を回った者は罪業が減って地獄行きも免れる。これを持って霊場を決め、現世の人間にもよく説いてきかせなさい」と、徳道上人に三十三個の宝印を授け蘇生させました。実はこのとき徳道上人は病気であの世とこの世を行きつ戻りつしていたのでした。

蘇生した徳道上人はさっそく宝印を持って寺院を設定し、人々に説きますが、聞く耳を持つ者も信じる者もそうそういませんでした。しかし徳道上人は「まだ時期ではないのだ」と前向きに捉えます。

そして、「ときが来るまで」と、摂津の国(大阪北部と兵庫南部辺り)の中山寺にある石造りの櫃に宝印を隠しました。それから十数年ののち、徳道上人は帰らぬ人となり、観音霊場のことも忘れ去られていきました。しかし、陽の目を見る機会はやって来ました。

法皇による宝印採掘

機が熟したのは、徳道上人が帰らぬ人となってから270年後のことです。
今度の布教者は、花山法皇でした。法皇とは、天皇が位を後継者に譲り、かつ出家した人物のことです。
この花山法皇がお篭もりでご祈祷をしていると、熊野権現が現れて「三十三観音霊場を復活させなさい」とお告げがありました。天皇だった人物が率先して中山寺から宝印を見つけ出し、三十三の霊場を発見したのです。
そして御自ら高僧と共に巡礼を始め一般にも広まった。というのが通説ですが、これはお話です。三十三霊場のなかには花山法皇の時代にはなかったお寺もありました。実際には覚忠という僧侶がはじめたものだそうです。初期(鎌倉時代辺り)こそ仏僧が行っていましたが、室町時代近くには武士が、江戸時代には庶民も行うようになります。宝印は現在、御朱印と呼ばれています。

必要な物

現代でもツアーが組まれる巡礼ですが、「何か必要な物は?お数珠?小さい仏像?お遍路さんの時は白装束が基本?」とちょっと気にはなりますね。
確かに菅笠に白装束、白の地下足袋が基本スタイルですが、普通の歩きやすく、足に負担のかからない服装や靴でも問題はないようです。ただ持ち物としては、金剛杖や納経帳、納札が挙げられます。
金剛杖とは、木でできた杖のこと。昔は途中で力尽き倒れたときに墓標の代わりにしていたそうです。本当は恐ろしい聖地巡礼物語です。今ほど道も整備されていなかった時代なら仕方のないことかも知れませんが、「途中で倒れたとしても、やり遂げる」という覚悟の表れでもあったのでしょうね。

巡礼の順番

一番から順に、というのがもっとも望ましいとされますが、現代では服装同様に大分砕けて、最初と最後だけきちっとしていれば、あとは参りやすい順番でよいとされています。柔軟性があるのが嬉しいところですね。ちなみに一番目は和歌山県の青岸渡寺、三十三番目は岐阜県の華厳寺です。これは西国三十三所の場合で、観音霊場は日本中に存在します。

お作法

神社でのお参りにもお作法があるように、巡礼にも当然お作法があります。正しい作法を覚えて行きましょう。誠心誠意を持って臨むのが聖地巡礼というものです。
  順番については先に述べた通りですが、ここで肝心の寺院に着いてからのお作法を説明します。
まずはお寺の門、通称山門前で合掌をし、一礼します。
山門は神社で言えば鳥居のようなものなので、キチンと礼拝させていただきます。という意思を形にするのです。笠をかぶっている場合は、一旦脱いでから一礼します。

はじめに、手水鉢、もしくは手水舎というところで身を清めますが、手を洗う順番は左手、右手の順です。最後に口をすすぎます。ひしゃくに汲んだ水を左手に受け、それで口をすすぐようにするのが肝心。
ひしゃくに直接口を付けるのはエチケットに反します。最後はひしゃくを縦にして、柄を洗ってお清め完了です。これは神社も同じ作法ですので、覚えておくと初詣のときなどに役立つことでしょう。
身を清めたら本堂に入り、蝋燭、線香、お賽銭などをお供えします。
納札も本堂で納めます。蝋燭と線香、お賽銭を供えたら般若心境や観音経などを唱え、御朱印及び、御影(おみえ)をいただきます。御影というのは、ご本尊のお姿を描いたもの。場所によっては掛け軸などをもらうこともあるようです。
次のお寺に向かうのは、ちゃんと本堂や山門にもう一度合掌、一礼してからにしましょう。西国・鎌倉・秩父の合計百観音霊場を全て巡礼し終えたら、最後に長野県の善光寺に行くこともオススメです。「無事に巡礼が終わりました」というお礼参りですね。

まとめ

西国三十三観音霊場を始まりとする三十三観音霊場について、簡単に記しました。実は、百観音以外にも観音の霊場はあります。具体的なことは別の記事にてお話いたします。

仏教界の聖地巡礼である、三十三観音霊場、通称札所。日本中にあるこの聖地について、簡単にまとめてみました。冗長と表記ゆれを避けるため、見出し以外は「三十三箇所」と記します。

番外がある

物語にもよく聞く番外。つまり例外というものが聖地巡礼の霊場にも存在します。
何が違うかと言えば、観音ではなく、如来などが祀られていること。「なぜそのお寺を入れたの?」と問われれば、開拓者やときの権力者と関連あるお寺だったりするからです。

はじまりの西国三十三観音霊場

近畿方面の有名寺院一番目の那智山青岸渡寺は如意輪観音像がご本尊となっています。三十三番目の谷汲山華厳寺のご本尊は十一面観音です。西国三十三箇所の番外は七番目と八番目の間にある豊山法起院の徳道上人・十四番目と五番目の間にある華頂山元慶寺の薬師如来・二十四番と五番の間の花山院菩提寺の薬師瑠璃光如来です。
徳道上人は言うに及ばず、「観音霊場を決めろ」と閻魔様から直々にご指名を受けたので、ご本尊となるのも頷けます。高僧が仏像のように崇められるのはよくあります。
元慶寺は、「時が来るまで」と300年近く隠されていた宝印を見つけたとされる花山法皇が出家僧となったお寺。花山院菩提寺は、花山法皇が修行に励んだ土地と言われています。

頼朝公も関係あり 坂東三十三観音霊場

鎌倉幕府を開いた源頼朝公も観音を深く信仰していたらしく、鎌倉時代初期に現在の関東の地院全体が霊場に決められました。
始めたのは頼朝公ですが、完成に至ったのは息子の実朝公の時代のことです。こちらには番外はありません。一番目は大蔵山杉本寺(神奈川県)、三十三番目は補陀洛山那古寺(千葉県)です。ご本尊は、前者が十一面観音、後者が千手観音です。

ひとつ多いのは、百にするため。秩父三十四観音霊場

鎌倉時代に制定された当初は三十三ヵ所だったのですが、江戸時代になり、一般庶民も巡礼を行うようになると「西国・坂東と合わせて、更にもう一ヵ所増やして百ヵ所にしよう」ということになり、三十四番目として水潜寺が選ばれました。
秩父の盆地にある観音霊場で、多く聖観音が祀られていますが、これは制定時地方では、あまり大きな寺院がなかったことと密教系統の地院でないことから、異形ではない聖観音が多いのではないかとされています。
百観音を全て回るとなると、「青岸渡寺にはじまって、西国三十三ヵ所全てを回り、坂東三十三ヵ所経由で、水潜寺で終わり」と言う道順になります。秩父三十三ヵ所はすべて埼玉県内です。

熊野権現と関わりある奥州三十三観音霊場

その他の観音霊場

その昔から聖地巡礼は徒歩が基本でした。修行僧も高僧も、「倒れたときのお墓替わりの杖」を覚悟と共に持って歩いていたわけですが、時代がくだり庶民も聖地巡礼をたしなむようになると、遠すぎるということや現代ほど舗装されていなかったということもあって、北海道・津軽・金沢・信濃・中国・筑後・越後・水戸・奥州・坂東・尾張・西国・九州と、まさに日本全国津々浦々に観音霊場ができていきました。

お遍路さんについて

正式名称四国八十八ヵ所。ここは観音ではなく空海が修行した祖の足跡を辿るのが目的。
基本的には一番目から順に回りますが、「逆打ち」と言って、八十八番目から回ることもあります。「逆に回って大丈夫なの?」と心配になる方もいると思いますが、大丈夫どころか、普通に回るよりも3倍ご利益があるとされています。
また、一度に回りきる「通し打ち」や「今回はここまで。残りは別の機会にしよう」と区間を定める「区間打ち」など、巡り方はいろいろあります。

まとめ

場所によっては「三十三ヵ所」と銘打ちながら三十七の霊場(中国)を持っていたりもしますが、時代時代の必要に応じて生まれた聖地を巡ってみるのも面白そうですね。いつもと違う徒歩での旅行、巡礼はご利益の他にも何かをもたらしてくれそうです。
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