漱石らしい俳句の世界

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夏目漱石が俳句の世界に心惹かれたきっかけは正岡子規との出会いにありました。大学時代に正岡子規と出会い俳句に惹かれていったのです。正岡子規と住居を共にして学んだ俳句をご紹介します。

漱石という人

慶応三年、日本が太陽暦になる前の年に夏目漱石は生まれています。幼少の頃は夏目家の家の事情から里子に出されています。年を経てまた生家に戻り生活をしていますが、とても複雑な家庭環境だったことが分かります。
漱石の小説にはその頃の様子を描いたものも執筆されています。

夏目漱石は、英語に興味を持ち大学予備門に入学し正岡子規に出会います。
ここでは子規が書いた漢詩文集の「七草集(しちそうしゅう)」を漱石が読み、批判したことにより仲良くなっていったようです。

正岡子規も漱石も漢詩から文学を始めた人物で、これ以降互いが互いを認め合い、日本の文学に影響を与え続けていくのです。

二人が違っていたことは正岡子規の周りにはいつも人がいて人気者、夏目漱石は変わり者だったため、その逆だったという逸話も残っています。小説で読む漱石の変わり者ぶりは本物だったのでしょう。

正岡子規との出会い

正岡子規と出会い、漱石はどのような俳句を吸収し、詠んでいったのでしょうか。
子規に教えてもらいながら触れた俳句の世界で、夏目漱石は俳句を詠む時に使用する名前、すなわち「号」を「漱石」にしています。夏目金太郎はここから「夏目漱石」と呼ばれるようになったのです。
この「漱石」にはいったいどのような意味があるのか。
それは、中国の唐の時代の故事「漱石枕流(そうせきちんりゅう)」にちなんだ名前だといいます。

「石に漱ぎ(くちすすぎ)流れに枕す。」
つまり、変わり者の例えです。

この号は、実は正岡子規のいくつかある中の号の一つでしたが、のちに子規からこの「漱石」という名前を譲り受け、俳句のみならず小説の世界でもこの「漱石」という号を使い続けていくのです。

漱石が正岡子規に影響を受けたことはこの「号」を譲り受けたことからもはっきりと分かります。

二人にとってホトトギスは特別な存在

ホトトギスとは正岡子規の号であり、生涯ホトトギスは子規にとって特別なものでしたが、漱石にとっても特別だったのです。

夏目漱石が俳句を詠み始めたのは明治22年ごろからです。
初めの句として残されている一句はあの時鳥(ホトトギス)の句でした。

「帰ろふと 泣かずに笑へ 時鳥」(夏目漱石/漱石句集)

「聞かふとて 誰も待たぬに 時鳥」(夏目漱石/漱石句集)

病院に入院中の子規を見舞い、泣くな!笑え!と励ました俳句です。

明治22年は正岡子規の結核が発覚した年です。結核に倒れ、子規も自身の命が長くないことを知り、自身をホトトギスになぞらえてこんな俳句を詠んでいます。

「卯の花の 散るまで啼くか 子規(ホトトギス)」(正岡子規/子規全集第九巻)

子規にとってホトトギスはいわば自分自身、そして漱石にとってもホトトギスは親友以外の何者でもない特別な存在。ホトトギスにはそうした悲しいけれど、苦楽を分かち合った友の特別な季語だったのです。

その後、正岡子規は松山へ養生のため帰郷し、漱石は英語教師として松山の中学校に赴任します。この時、子規と漱石は共同生活を始め、そこを「愚陀仏庵」と呼んでいました。

正岡子規の周りには人が集まり、ここでも友人に囲まれ句会を開いています。漱石は人の集まりがうるさいが仕方なく俳句をやると言っていましたが、共同生活をした明治28年、夏目漱石が生涯で一番俳句を詠んだ年とも言われているのです。

夏目漱石は明治28年から正岡子規が亡くなる直前まで膨大な数の俳句を子規に送り、添削を求めていました。

(正岡子規へ送りたる句稿 その一より)

「崖下に 紫苑咲きけり 石の間」

「汽車去って 稲の波うつ 畑かな」

(正岡子規へ送りたる句稿 そのニより)

「紅葉散る ちりゝちりゝとちゞくれて」

「時鳥 あれに見ゆるが 知恩院」

「猫も聞け 杓子も是ヘ 時鳥」

「五月雨ぞ 何処まで行ても 時鳥」

夏目漱石が正岡子規ヘ送った俳句の一部です。夏目漱石は子規の俳句の影響を色濃く受けていました。

正岡子規の、俳句をより写実的に詠むという手法が漱石の俳句からも見てとれます。子規の俳句によく登場した「五月雨」の季語を漱石の俳句にも見ることができます。そして「時鳥」。漱石が子規を尊敬し、俳句を心から愛した証がこの句稿を見れば一目瞭然なのです。

最後に、漱石が亡くなった子規に送った俳句です。

「永き日や 欠伸(あくび)うつして 別れ行く」(夏目漱石/漱石句集)

寂しさや悲しみを匂わせるのではなく、最後まで漱石らしい愛嬌のある俳句に子規も笑いながらこの世を旅立ったのかもしれません。

イギリス留学を終えて

夏目漱石がイギリスに留学していたことは有名ですが、帰国後はどのような生活を送っていたのでしょうか。

明治36年イギリスから帰国した夏目漱石は東京帝国大学の講師になっています。それまでは外国人が教鞭を振っていましたが、賃金が高いという理由で外国人教師に代わって留学を終えた日本人が英語の教師になるという時代に変わっていったのです。

夏目漱石が来たことにより小泉八雲(ラフカディオ・ハーン)は解雇されています。

この時、漱石が詠んだ面白い俳句があります。

「能もなき 教師とならん あら涼し」(夏目漱石/漱石全集)

漱石の教師としてのやる気のなさや自分には向いていないという後ろ向きな態度が、最後の「あら涼し」でさらに伝わってくる一句になっています。

ラフカディオ・ハーンは生徒たちにとても人気があり、八雲留任運動まで起こったほどです。夏目漱石にとっては大ピンチです。生徒に講義を聞いてもらえないという日々でしたが、ある時からイギリスで研究し、陶酔したというシェイクスピアの講義が当たり、大教室でさえ入りきらないほどの生徒たちが押し寄せるという盛況ぶりに、東京帝国大学は漱石だけでもっているようなものだと言われていました。

教師という職業に就くことに違和感を感じていた漱石でしたが、才能の前には何ものもかなわないということを思い知らされる出来事でした。

漱石がシェイクスピアの一節を引用して作った独創的な句があります。

「罪もうれし 二人にかゝる 朧月」(ロミオとジュリエット)

「小夜時雨 眠るなかれと 鐘をつく」(マクベス)

イギリスで出会ったシェイクスピアに陶酔し、このような句を作り、さらにその才能は小説「坊ちゃん」や「吾輩は猫である」で開花していくのです。

小説家で知られていた夏目漱石ですが、正岡子規と出会い俳句を詠むようになり、海を渡り様々な文学に出会い日本の文学界の巨匠になっていったのです。

小説を書き、売れても俳句を詠むことはやめなかったという夏目漱石。友に教えられた俳句が漱石の原点になっていると言っても過言ではないでしょう。
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