発句を原点に貫き通した文学魂-芥川龍之介

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「蜘蛛の糸」や「羅生門」で知られる芥川龍之介ですが、実は俳句も数多く残しています。
大学在学中には級友の誘いで夏目漱石の門下生になり、俳句の世界に惹かれていったのはどうやら師と仰ぐこの夏目漱石との出会いがきっかけだったようです。

芥川龍之介の人生を見ると先生と慕う夏目漱石の人生にとてもよく似ており、尊敬するあまり同じような人生を選んだのではないかと思わずにはいられません。 短い人生の中で多くの作品を残した芥川龍之介とはいったいどのような人物だったのでしょうか。

夏目漱石の門下生になるまで

芥川龍之介は、明治二十五年に東京で生まれました。芥川姓を名乗ったのは叔父の養子になった11歳の頃です。

成績がとてもよく東京帝国大学の英文学科に入学し、大学在学中に同人誌「新思潮」を刊行。さらに芥川龍之介の代表作となる「羅生門」を発表し、夏目漱石の門下生になっていくのです。

夏目漱石も認めた芥川龍之介の才能

夏目漱石を慕う若手文学者が次々と門下生になり、日程を決めて漱石の家を訪れ、日々文学についての議論をし合っていました。議論が過ぎると学生たちは、先生である夏目漱石に喰ってかかる場面もあったようですが、肝心の漱石はというと、軽くあしらい、最後には核心を突くような言葉で門下生を納得させていました。

この集まりは「木曜会」と呼ばれていましたがなぜでしょう。それはとても単純で、集まる日程を「木曜日」と定めていたため、木曜会という名前がついたということです。若手文学者の中でも夏目漱石は芥川龍之介の作品を激賞していたと言います。

芥川龍之介も夏目漱石のことを「先生」と呼んで慕っていました。龍之介が俳句に魅せられた過程にはこの先生の存在が大きかったことは間違いありません。

俳句の師匠は松尾芭蕉

俳句との出会いは小学生の頃、9歳とまだ幼い頃に芥川龍之介は俳句に出会っています。この頃から完成度の高い俳句を芥川龍之介は詠んでいます。

「落葉焚いて 葉守の神を 見し夜かな」(澄江堂句集)
それでも本格的に俳句を詠み始めたのはやはり夏目漱石と出会った以降のことでした。
芥川龍之介は夏目漱石と同じように英語の教師になっていますが、その後辞職して新聞社に就職しています。この辺りも夏目漱石にとてもよく似た人生を送っているのです。

大正五年ごろには漱石をよく訪ねるなかでこのような俳句を作っています。

「蝶の舌 ゼンマイに似る暑さかな」(澄江堂句集)

「木枯らしや 目刺に残る海のいろ」(澄江堂句集)

芥川龍之介の求める俳句は、正岡子規が否定した俳諧に近く、芭蕉こそが自身の求める俳句だと感じていたようです。そのため芥川龍之介は生涯「俳句」とは言わず「発句」と呼んでいました。

芭蕉の代表作を手直しした一句

芥川龍之介は、松尾芭蕉のあの代表作をも芥川流に変えてしまった人物なのです。

「古池や 蛙飛び込む 水の音」を「古池や 河童飛び込む水の音」としています。 それだけではなく、「この方がより良い句になる」とも言い放っています。

晩年の代表作「河童」の世界がこの芭蕉の句をも河童に変えてしまったのです。 松尾芭蕉の俳諧を愛したが故の一句だったのでしょう。

亡くなる前の年に俳句を整理していた

芥川龍之介は亡くなる前に遺品を整理するように、自身の俳句を整理していました。生涯1000句以上もの俳句を詠んでいましたが、その中からたったの七十七句を精査し残しています。それが「澄江堂句集」です。
いくつか紹介します。

松尾芭蕉を賛辞していた芥川龍之介の句はどことなく芭蕉の句に似ているものがあります。

春の発句
「雪どけの 中にしだるゝ 柳かな」

いかにも芭蕉が好みそうな「さび」、「余情」が込められた一句になっています。芥川龍之介はこの句集を最後にこの世を去っています。

新年の発句
「お降りや 竹深ぶかと 町のそら」

夏の発句
「更くる夜を 上ぬるみけり 泥鰌汁(どじょうじる)」

秋の発句
「風落ちて 曇り立ちけり 星月夜」

冬の発句
「老咳の 頬美しや 冬帽子」

繊細な自身の心を詠むかのような繊細な発句をたくさん残した人物です。芥川龍之介はその後自殺をして亡くなってしまいますが、命日は夏真っ盛りの7月24日。その日は「河童忌」、「龍之介忌」、「澄江堂忌」と言われています。俳句の季語としては夏の季語として今も残されています。

現実社会に何を感じ死んでいったのか

芥川龍之介は35歳という若さで亡くなりました。晩年は常に「死」を考えており生死に関わるような作品が多かったと言われています。自殺の原因は、先の人生に不安を感じたと語っていたようですが、本当のことは誰にもわかりません。

芥川龍之介の代表作でもある晩年の作品「河童」では突如河童の世界を体験するという奇想天外な作品になっています。この作品で同時に人間社会を否定していたのかもしれません。

文学に全てを捧げた芥川龍之介は最後まで発句を大切にしていました。芥川龍之介の発句には人との交友の中で培われた温かなぬくもりがあります。 人間が嫌いなのではと思わせる作品もありますが、実は人とのぬくもりを誰よりも必要としていたのかもしれません。

なぜなら亡くなる直前に室生犀星に会いに行ったり、昔からの親友や妻に遺書を遺していたり。きっと人との交わりを誰よりも必要としていたのです。先の見えない不安を誰かに解消して欲しかったのかもしれません。

「さび」や「余情」、詩的な美をも感じさせる芥川龍之介の発句は、とても人間嫌いの人が詠めるような発句ではないのです。
漱石に見出され生涯尊敬し続けた、俳句よりも俳諧にこだわり続けた芥川龍之介。その発句に幽玄すら感じます。俳句を文学の拠り所として小説を書いていたとも言われているからそのせいでしょう。

文学者の原点が俳句にあるように、芥川龍之介の原点も発句にあったのです。

芥川龍之介の妻・芥川文(ふみ)

芥川龍之介の妻を文といいます。

明治33年(1900年)7月8日生まれで、龍之介より8歳年下です。

旧姓は塚本といい、父親は塚本善五郎という海軍軍人で、海軍大学校を首席で卒業するほどの英才でしたが日露戦争に出兵して戦死してしまいました。

善五郎の同期には日露戦争終盤の戦いである日本海大海戦にて東郷平八郎の下、バルチック艦隊を殲滅するための作戦を立案した秋山真之や、後に「海軍航空の生みの親」と呼ばれた山路一善などがいます。

早くに父親を亡くした文でしたが、大正8年(1919年)、文18歳の時に龍之介と結婚し夫婦となりました。

龍之介が母親の末弟である山本喜誉司(きよし)と中学生時代からの親友だったことから、父・善五郎亡き後に母親の実家で世話になっていた文と龍之介が知り合い、交際に発展していったようです。

実際に龍之介と文は知り合って間もない大正5年(1916年)には縁談契約を交わしていたり3年の交際期間を経て結婚した後は龍之介が海軍機関学校に赴任することになった際に同行し鎌倉で新婚生活を送りました。

それから時が経って昭和2年(1927年)7月24日、龍之介が35歳の若さで服毒自殺を遂げた後の消息はよく分かっておらず、昭和43年(1968年)9月11日に龍之介と文の三男である芥川也寸志(やすし)邸にて心筋梗塞のため、68歳の生涯を終えました。

芥川龍之介の長男・芥川比呂志(ひろし)

芥川比呂志は大正9年(1920年)に龍之介と文の長男として誕生しました。

比呂志という名前の由来は、龍之介の親友である「菊池寛(かん)」の実名がひろしであることから名前をもらい、ひろしの漢字に万葉仮名を当ててこの名前になったそうです。

菊池寛は小説家であると同時に大映の社長を務めたり、東京の市会議員を務めるなど多彩な才能を発揮した人物で、「恩讐の彼方に」や「真珠夫人」などの作品が有名です。

比呂志は東京高等師範学校付属小学校(筑波大学付属小学校)に入学したのですが、小学校時代の同級生には後に第78代総理大臣になった宮澤喜一もいました。

比呂志は役者の道に進みました。

今や日本で最も有名な劇団である「劇団四季」の名付け親はこの芥川比呂志だったのです。

昭和30年(1955年)、比呂志が30歳の時に演じた「ハムレット」での主演は今も伝説として演劇史に記されるほどのハマり役であったといいます。

比呂志は役者として舞台やラジオドラマのナレーションに映画、テレビなどにも数多く出演しただけでなく、演出家としての才能も発揮し、芸術選奨文部大臣賞や文化庁芸術祭優秀賞を受賞しました。

主な出演作には、昭和33年(1958年)の東宝映画である無法松の一生や、昭和41年の大河ドラマ「源義経」があり、このドラマでは主人公・源義経の兄である源頼朝を演じました。

また、岸田今日子や神山繁とも親交があり、共に新しい劇団を創設したりもしましたが若い頃からの持病である肺結核が悪化したこともあり昭和56年(1981年)に61歳で亡くなりました。

比呂志の妻は、父・芥川龍之介の姉の娘である瑠璃子で、比呂志が亡くなった後に、龍之介や比呂志など芥川一家を描いた回想記を著して平成19年(2007年)に90歳の生涯を閉じました。

芥川龍之介の次男・芥川多加志(たかし)

芥川多加志は比呂志誕生から2年後の大正11年(1922年)11月8日に誕生しました。

多加志の名前も父・龍之介の親友である画家・小穴隆一(おあなりゅういち)の隆の字を訓読みにして万葉仮名を当てた名前です。

小穴隆一は龍之介の著書の装丁や、宮沢賢治の作品に挿絵を書くなど活躍をしていました。

また、龍之介が自殺した際には、小穴隆一を父と思えと後事を託すほどに信頼されていた人物でした。

龍之介の文学センスを最も濃く受け継ぎ、龍之介に最も信頼された人物の名前を与えられた多加志でしたが、他の兄弟たちとは異なる最期を遂げることとなります。

第二次世界大戦で徴兵された多加志はビルマ戦線に投入され、昭和20年(1945年)4月13日に22歳の若さで戦死したそうです。

芥川龍之介の三男・芥川也寸志(やすし)

芥川也寸志は大正14年(1925年)7月12日に誕生しました。

也寸志の名前も龍之介の親友であった法哲学者の恒藤恭(つねとうきょう)の名前を訓読みにして万葉仮名を当てました。

学校の成績では音楽の成績が最も劣っていたにも関わらず也寸志は音楽の道で大成します。

それには母・文が也寸志のために自らのダイヤの指輪を売ったお金でピアノを買ってあげたことも少なからず影響しているのかも知れません。

音楽を猛勉強したためか、第二次世界大戦で学徒動員令された際には軍楽隊に徴兵され、テナーサックスを担当しました。

音楽の猛勉強のおかげか敗戦後の昭和22年(1947年)には東京音楽学校本科を首席で卒業するまでになりました。

也寸志は管弦楽のようなオーケストラで使われる曲だけではなく、合唱曲や校歌、または映画やテレビなどのBGMなど数々の曲を世に送り出しています。

第一回目の日本アカデミー賞最優秀音楽賞を受賞したのは也寸志の作曲した「八つ墓村」と「八甲田山」でした。

また、也寸志の門下生には、アニメの作曲で一躍注目を浴び、東日本大震災で被災した人たちの応援歌である「花は咲く」の作曲者である菅野よう子もいます。

也寸志は作曲家としてだけではなく、著作権保護のために日本音楽著作権協会(JASRAC)の理事長に就任し、音楽使用料規定の改定及び、徴収料金倍増など、音楽に携わるものたちの生活を守るための活動を精力的に行いました。

そこには龍之介の印税が途絶えて苦しい思いをした芥川家の経験から来ているといい、作品を作ったものにはそれ相応の報酬を受け取れる筋道を作らなければならないという也寸志の思いが汲み取れます。

そんな也寸志も肺ガンには勝てず、平成元年(1989年)1月31日に63歳で亡くなりました。
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