日本史

北条時宗がいなければ日本は中国になっていた? 二度に渡る元寇の真実

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「元寇」が来るまで日本国内はどんな感じだった?

日本国民が総力を挙げて、国土に攻め込む外国と戦ったことが、はるか鎌倉時代にもありました。
今から700年前の『元寇』です。

時は8代執権の北条時宗18歳の頃でした。
その頃世の中は、貨幣経済の浸透で、民衆が少しずつ力をつけていく過渡期でした。生産者ではなく消費者にすぎなかった武士は、経済を回す貨幣を得るために、幕府より安堵された土地を売ってその場しのぎをするケースが多発しており、困窮していました。それとは対照的に金を貸す側となった市場経済の主役である商人の地位が、結果として向上する状態でした。
源氏直系が途絶えた後、摂家将軍をレンタルして幕府を運営していた北条家も、他の御家人との確執や京の公家との対立に追われ、常に負のイメージが付きまとっていたため、次第に御家人たちの心は離れがちとなり、政権としてのタガは緩みつつあったのです。
その頃、大陸を制覇していた元が高麗を配下に収め、そのラインの延長にいる日本に触手を伸ばしました。
元のやり方は、まず国書を送ることから始まります。国書を送った時点で元は相手を支配下に置いたと判断し、逆らおうものなら国ごと滅ぼす勢いで攻めてくるのが常套手段です。
そんな元の使いに対し、4度に渡って日本の朝廷と幕府がとった対応は「無視」でした。
その結果、1174年「文永の役」すなわち元寇がやってくるのです。

日本が相手した「元」の世界的な評価は?

日本で鎌倉幕府が成立した頃と同じ時期に、遊牧民族が戦闘民族として集団化し、アジアからヨーロッパを股にかけた広大な領土を持つ「元帝国」を築きました。

朝鮮半島からローマにまで及ぶ領土を収めた大帝国は、世界中の民族から有能な人材をスカウトして、その地の風土に合った民政を行わせたり、その地域ごとの文化的特色を温存する政策を取ったため、結果として東西の文化や民族を激しくミックスする偉業を成し遂げました。ローマやイスラムの美や数学、科学力と、漢民族の歴史や文化、産業だけではなく、人種そのものも元のルートを辿って東西にばらまかれたのです。

しかし、元という国家に従うことに抵抗するもの、覇業の邪魔になる存在に対しては、滅びと死を与えることを国是としていた恐怖帝国であったことは、「悪い子は元の軍隊に連れ去られてしまうよ」と子供を躾ける国もあったことからもうかがい知ることができます。

鎌倉武士、「元」の武器の違いを知って震える

東西の最先端なサイエンスをミックスした元は、科学力の粋を極める存在である武器も、当時の国家の中では抜きに出たものであり、かつ蒙古は戦闘力でのし上がってきた国家であるため、まさに鬼に金棒状態で手が出せない強さを周辺諸国に轟かせていました。

元軍の鎧兜はローマ風の鉄製、武器の弓矢はイスラム製で日本製の倍以上である約220mの飛距離を記録するもの。鎌倉武士は接近する前に弓で射落とされ、近づいても刀が通りません。メインの弓以外にも鎌倉武士を震え上がらせたのは、最先端科学の火薬を詰めた鉄球「てつはう(てっぽう)」の存在でした。硬くて重い鉄球で相手の防壁を突き抜けた先で、火薬が爆発し、鉄の細かな破片が周囲の敵をなぎ倒す武器は、それ以外にも轟音で馬を驚かせ戦闘不能に陥れます。

世界のあらゆる民族を撃破してきた元の強さの秘密は、武器の価値を最大限に高める戦術の妙にもあります。個人でばらつきのある兵士の戦闘力を、集団化することで均等にし、優れた将軍の作戦のもとで1セットとして機動させるテクニックを前に、未だ「個人戦こそ武家の華」という世界にいた鎌倉武士ではたちうちできないレベルだったのです。

元寇対策に北条時宗はどれだけ役に立った?

「文永の役」「弘安の役」と、元が2度も襲来してきた理由は、冒頭に述べた「度重なる元の国使のメッセージをことごとく無視した」ことによるものでした。
北条時宗の苛烈さを示したのが、最初の元寇後にやってきた元の国使5人の首をはねた上で無視したことです。
最初の元寇では、元の武力は大陸を行き交う商人の噂話から推測したり、大陸から招いた僧のアドバイスをもとに対策を練ったりと、後手後手に回るしか対応手段はないことから、日本国内の御家人にとっても目の前の生活苦を優先して、その国防意識はとても低いものでした。しかし、実際に元の軍隊の剽悍さや洗練された武装・戦術を目の当たりにし、自分たちと同レベルの武士が悪戦苦闘していた様子をつぶさにウォッチしたことで、「このままでは間違いなく、次の元寇では征服され、虐殺される。」という背水の陣といった心持ちだったことでしょう。さらに非戦闘員である金持ち商人にとっても、この先商売どころではない世界になるという危機を前に、武家への依存度を高め、援助を惜しんでられない国勢となりました。

そうしてまとまった国の空気を敏感に察知した上で、豪腕を持って対策を打ち出したのが、北条時宗だったのです。
前線司令官として、北条時宗は機敏に動きました。博多湾一帯20kmに及び防衛用の石垣を積み上げ、反撃の拠点としました。さらに「どうせなら先手必勝で」とばかりに、高麗まで攻め入る計画を立て。九州の御家人たちの戦力リストを作成し、いつでも打って出る体制を整えました。
朝廷もまた、「神風よ起こりたまえ!」と神仏に祈祷することで、幕府とタッグマッチで国防しようと頑張りました。
北条時宗の苛烈さ、豪腕さがなければ、元帝国を相手にどこまで凌げたかわかりません。

北条時宗のような幸運を引き寄せるリーダーが必要

弱体化した政権に対して恨みすら抱く貧しい御家人たちを抱え、富を持った民衆からは嫌われ、朝廷からは度々足を引っ張られる鎌倉幕府を支える執権、それが北条時宗でした。内敵をひとつにまとめるには、強大な外敵を作るのが一番、というセオリー通り、2度にわたる元寇の恐怖を前に、北条時宗のもとで挙国一致体制となった日本でしたが…。

強敵を凌いだ武士への褒賞はすずめの涙ほどだったため、戦い損となった御家人たちの反発は決定的なものとなり、幕府維持強化には繋がりませんでした。
困難な時勢の中、一粒の幸運を次々に拾い上げ、他国の占領から国土を守った北条時宗のようなリーダー、あなたの周りにいませんか?

「元寇」に対する北条時宗の驚き方はどうだった?

「文永の役」「弘安の役」という2度に渡る蒙古襲来に対し、敢然と対抗した人物こそ、鎌倉幕府8代執権の北条時宗でした。
北条時宗の祖父は、鎌倉幕府最高の名執権として歴史に名高い、5代執権北条時頼です。
北条時頼は、幕府の政治表舞台から武力を持って反北条勢力を一層し、北条家の安定した礎を作っただけではなく、民衆の幸せを願い善政を司る強い意志を持った人物でした。
その孫として、周囲の期待を一身に受けながら育った「名執権の卵」が、北条時宗だったのです。
北条家の美徳を注ぎ込まれた北条時宗が、未曾有の国難「元寇」と対峙したのは、彼がまだ18歳の時でした。
海の向こうの高麗を下した元は、「我に従え、さもなくば攻め入る」という国書を持った国使を送りつけてきました。
その時点で、時宗はこれから起こる大事件を予感していたのかもしれません。北条の血が持つ果断さを持って、時宗政権に不服を抱く御家人たちを次々に処理し、国難に立ち向かっていくために必要なトップダウン形式を強固にしていきます。
「元寇」の可能性に対して、慌てふためくどころか、正面から対応できる幕府であろうとした北条時宗に、若き名執権の輝きを感じずにはいられません。

「とにかく神仏に祈れ!」元を追い払う祈祷フィーバーに沸く日本

建国以来初めて、外国軍に侵略されそうになっている日本、そして他国の軍隊と本土で戦う日本の軍隊を史上初めて指揮することになった北条時宗。
先例のない事態にも関わらず、適切に手を打つのですが、迎え撃つ武士にとっても初めて尽くしで、迫り来る元軍と初めて対した「文永の役」では、日本の武器も戦術もほとんど役に立ちません。
ところが、元の乗ってきた軍船というのが、疲弊した高麗民に権力を振りかざして、無理矢理に大量注文を請け負わせたチープな造りの船だったため、博多湾の荒波にたちまち調子が悪くなった結果、強風に見舞われ船団が壊滅し、元軍は本気を出す前にほぼ溺死してしまいました。
国難を救った奇跡の事態に、盛り上がったのは公家たちでした。
「朝廷による熱心な祈祷が、神風を呼び起こし、外敵を打ち滅ぼしたのだ」
そう言いたくなるのも頷けるほど、朝廷に元の国使が来て以降、神社仏閣に熱心に参詣し、「敵国降伏」と祈る祈祷ブームに沸く公家たちは、最初の元寇で効果てき面だったことでさらに信心深さに拍車がかかり、2度目の元寇「弘安の役」でも暴風雨が元軍に直撃し、船団を沈めたことで、信心が確信に変わりました。
「神国日本」という伝説は、こうしてはるか20世紀にまで受け継がれることになるのです。

「元を困らせろ!」西の守りを固めた方法

北条時宗は、神に祈ってばかりはいられません。
苛烈な決断で政敵を打ち滅ぼし、挙国一致体制を築いた後は、物理的に国防を整える必要がありました。
「文永の役」では、九州地方の御家人たちに命令し、元軍を迎撃させるために博多湾に集合させたのですが、当時世界最先端の鉄製防具や火薬武器、長距離弓を使い、システマティックな集団戦法を操る元軍に対し、一対一で手柄を立てることで頭がいっぱいの旧来の鎌倉武士では歯が立ちません。すぐさま敗色濃厚となりました、元軍がチープなな船に乗ってなければ、その日で日本は元帝国の傘下となっていたことでしょう。
元軍が撤退したのち、北条時宗は慢心することなく、すぐに手を打ちました。
博多湾に沿って20kmに及ぶ石垣を築き、元軍に対する防塁としました。
そしてそこに御家人たちを警備に立たせ(異国警護番役)、九州地方の御家人たちに常に戦闘配置中のメンタルを保たせました。
その国防費は九州御家人だけではなく、公家や寺からも集めることで、九州・西国一体が臨戦態勢となりました。
御家人ではないものや民衆にも、国難に対する心構えをさせ、権力闘争を避ける世論を醸成したことも、北条時宗が名執権と呼ばれる所以ではないでしょうか。

「私を褒めてくださいよ」竹崎季長、必死の手柄アピール

西国に住んでいたがため、とても耐えられない任務を負った御家人はあまたに存在しました。鎌倉武士のルールなどはなから無視した外国人との戦いは、御家人の業績に対する査定を難しくし、ただでさえ困窮を極めている鎌倉幕府に、いかにして業績評価させるかに頭を悩ませる事態となりました。
外国人相手の国防戦争の戦後処理においてやっかいなのが、そもそも戦利品が存在しないことにあります。
新しく領土が増えるわけでもなく、財宝が手に入るわけでもない戦後処理は、各人の持ち出しを泣き寝入りすることになりかねません。
肥後の御家人・竹崎季長は、領地を持たない御家人だったので、元寇で頑張れば領地がもらえるに違いないと奮戦したのですが、案の定認めてもらうことができませんでした。物言う御家人・竹崎季長は、鎌倉まで押しかけ、武功の直接交渉を行いました。そのガッツが実り戦功が認められ、なんとか領地をもらうことができました。
そんな世情で認められた武勲と領地、歓喜した竹崎季長は「神様ありがとう」とばかりに絵師に絵巻物を書かせ、神社に奉納したのが、後の世に元の軍備と鎌倉武士の戦い方を伝えることになる『蒙古襲来絵詞』だったのです。
元軍相手に頑張り、最後は馬をもらってニコニコしている竹崎季長に癒される『蒙古襲来絵詞』、ぜひ機会があればチェックしてみてください。

世界帝国「元」をしのいだけれど…

産まれながらの名執権・北条時宗でしたが、その命は長くありませんでした。34歳で病死した後、彼の才覚なくして挙国一致体制など不可能なことが明らかになったかのごとく、鎌倉幕府の力は急激に衰えていきます。

元と対抗することで国費はかさみ、領地が増えたわけでもないため御家人への充分な恩賞は与えられず、任務ばかりが増えて不満が解消する気配のない武士たちが貧困に喘ぎながら、「御恩と奉公」という基本理念を裏切り身内ばかりを優遇する幕府への忠誠心を失い始めます。

「元寇」は確かに、鎌倉幕府に大きなヒビを入れた国難でした。
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