日本史

竪穴式住居は意外と快適? 実は江戸時代まで使われていた楽しい縄文ライフとは

関連キーワード

古代の人々の家であった竪穴式住居。あくまでも「古代の住居」だというイメージが強くはないでしょうか。想像図の多くも、縄文時代や弥生時代のものが多いため、こういった印象が色濃いのは仕方ないこと。しかし、私たちが考えている以上に竪穴式住居は長い間使われていたようです。

そもそも竪穴式住居とは

まずは、竪穴式住居がどのようなものだったか、おさらいしておきましょう。

竪穴式住居を簡単に表現すると、地面にくぼみを作るように穴を掘り、そのくぼみの中に複数の柱を建てて骨組みを作り、骨組みの上に土や葦などの植物を葺いて屋根にした建物のことです。穴を掘るといっても深さは70-80センチメートルのものがほとんどですが、北海道標津町では深さ2.5メートルの「穴居」の跡が見つかっています。

ヨーロッパでは中石器時代に竪穴式住居が使われ始めたようで、新石器時代になると世界各地で使われる住居形態になりました。日本で竪穴式住居が使われるようになったのは、後期旧石器時代からと考えられています。その後、縄文時代に盛んに作られるようになり、その流れは弥生時代以降にも引き継がれていきました。

また、古墳時代中期になると、竪穴式住居の中には壁にかまどを設けたものが出てきます。かまどは時代が下がるにつれて発達。壁の外に向かって張り出すようになり、居住性や使い勝手が向上している様子がうかがえる遺構が発見されています。

現在では、さまざまな遺跡で竪穴住居を復元したものを見ることができます。

地域・時代によって異なる竪穴式住居の構造

一口に竪穴式住居といっても、時代や地域によって構造が異なります。
大阪府藤井寺市にあるはさみ山遺跡からは、後期旧石器時代の住居跡が見つかっています。
深さ約30センチメートルの半地下式で、そのくぼ地の周囲に1~1.7メートルおきに柱を建てた穴が7個あり、外側には浅い溝がめぐらされていました。縄文時代早期-アイヌ文化期の集落跡である北海道標津町の伊茶仁カリカリウス遺跡は、深さが2-2.5メートルもあり、天井から出入りしたと推測されています。弥生時代後期の集落と推定される静岡県登呂遺跡の竪穴式住居は、正確には竪穴系平地式住居というもの。穴を掘ると水が出てしまうため、平地に環状の土手を築き、土手の周囲を排水溝として使用しました。

また、炉が設けられているのも竪穴式住居の特徴ですが、炉は時代とともに前述したかまどへと移行していきます。竪穴式住居は、関東や中部地方では平安時代まで使用されますが、近畿地方では平安時代になるとほとんどが平地住居に移行したとみられ、それ以降の時代の遺物として竪穴式住居跡は見つかっていません。また、鎌倉時代以降になると、関東では竪穴状遺構として一部に名を残しますが、全面的に消失しました。

中世の遺跡からも竪穴式住居

教科書的な印象では、竪穴式住居が使用されていたのは、古墳時代くらいまでのように思われることも多いはず。
しかし、竪穴式住居は日本の農家や民家の元となったといわれており、竪穴式住居そのものは平安時代頃まで作られていました。東北地方では、室町時代まで竪穴住居が作られていたことがわかっています。

それを示すのが、岩手県盛岡市の柿ノ木平遺跡と堰根遺跡です。
どちらの遺跡も縄文時代から中世にかけてのものです。柿ノ木平遺跡から見つかった竪穴住居跡は、縄文時代が258、平安時代が9、中世が1。縄文時代中期の時の変遷や集落の構造を解明するうえで貴重な資料が多数発見されました。また、竪穴住居跡の床面に埋設された伏甕(ふせがめ)が発見されています。堰根遺跡は縄文時代~弥生時代が19、平安時代が82、中世が10となっています。堰根遺跡は平安時代の集落跡や12-13世紀の村落跡が発見されたことで注目されています。

江戸時代の遺構からも竪穴式住居が!

1637年-1638年に起きた日本史上最大規模の一揆である島原の乱。
島原半島と天草諸島の領民が、農民の酷使や重い年貢の負担に窮したことに、キリシタンの迫害などが加わったことで、一揆の規模をはるかに超えることになりました。幕府軍として12万5800人が投入され、8000人以上の損害を出しました。一方の反乱軍は幕府側の記録では3万7000人。損害は全滅という壮絶な戦いでした。幕末以前において「最後の本格的な内戦」と言われる理由はこのあたりにあります。

この乱の舞台となったのが、現在の長崎県南島原市にある原城でした。平成13年の発掘調査では、本丸西側に破壊されて埋め込まれていた石垣前の広場から、竪穴建物跡群が発見されました。床面は焼け、中からは陶磁器や瓦、人骨などが出土しています。この竪穴建物跡群は、一辺が約2-3メートルの方形の竪穴建物跡で、石垣に沿って南北方向に9区画ほど連なっていました。これらの竪穴建物は、島原の乱で原城に籠城した一揆軍が使用した半地下の小屋です。それまで文献や絵画などの資料で断片的に知られていた一揆軍の籠城の実態の一端を知る貴重な資料として、検出は画期的な成果と評価されています。

古代の住居というイメージのある竪穴住居は、時代を大きく下って江戸時代になっても使用されていたのです。

竪穴式住居から見えてくる、古代日本の文化と性

古代日本には、家族という形態はありませんでした。
それは古代日本の住居、竪穴式住居からも読み取ることができます。
私たちのご先祖様でもある、古代日本人の生活を覗いてみましょう。

竪穴式住居とは

竪穴式住居というのは、竪穴に屋根を被せた形状の住居を示します。
ヨーロッパでは中石器時代(紀元前20000年頃-前12150年頃)から出現している住居で、中国やアメリカでも発見されています。
日本でも同じような時期から作られるようになり、縄文時代(前14000年頃-前数世紀頃)には盛んに造られました。
竪穴式住居はその後も弥生時代(前数世紀頃-3世紀頃)を経て平安時代(794年-1185年)ぐらいまで造られています。
その後、建築技術の発展などにより、竪穴式住居は造られなくなりましたが、地方によっては江戸時代(1603年-1868年)まで造られていたことが判っています。

竪穴式住居は意外にも快適

竪穴(50-60cm)を掘っただけの住居なので、雨が入れば水が溜まるなど、あまり快適ではなかったと考えてしまうでしょう。
しかし、そこには快適に暮らすための創意工夫が施されています。

屋根が竪穴(居住スペース)より外側に延びており、雨水が直接流れ込まないようにしています。
また、竪穴を掘った時の土を利用して、竪穴の周囲に低い土手を作って竪穴を囲い水が入らないようにしていたり、土手の外側に水が流れるように溝を掘っていたりする造りの竪穴式住居も存在します。

竪穴式住居が作製された年代にもよりますが、古墳時代(3世紀頃-7世紀頃)には炉やカマドが備え付けられているもの登場し、より快適に暮らすために進化していきました。

竪穴式住居の屋根にも草ぶきから土ぶき(草ぶきの屋根の間に土を挟む方式)へ変えるなどの工夫が見られます。

石棒と信仰

縄文時代には竪穴式住居とともに、石棒と呼ばれる磨製石器(石材を石や獣骨などで作製した石器)が出土しています。
石棒は一端または両端が亀頭状に形成されており、男根信仰の始まりではないかとされています。
縄文時代後期には、石棒は石刀や石剣への分化が見られ、さらに祀る場所も、炉などの側から野外祭祀へと変化していきました。
石棒の信仰についてはどのような神様に捧げられたかははっきり判っていません。
男根を模した祭器というのは、女神信仰に使われていることが多く、とくに民間信仰では多くみられる事例ですので、女神信仰説を唱える学者も多いです。
逆に石棒を男神が宿る依り代としての意味があったのではないかという説もあります。

埋ガメと信仰

縄文時代の住居(竪穴式住居も含めた)の入口には埋ガメが地中に埋められている事例がよくあります。
埋めガメというのは、幼児や死産児を埋葬するための土器のことで、亡くなった子供が再び家に戻ってくる、女性のお腹に宿って欲しいという願いを込めた、一種の信仰ではないかと推測されています。
また、竪穴式住居のような造りの家を、母体として意識していたのではないか(女神信仰)と指摘する専門家もいます。

家族体系と結婚制度

竪穴式住居の居住スペースは、一般的に10人前後の男女が暮らしていたと考えられています。
現代のように祖父母、両親、子供というような家族体系ではなく、氏族による一族体系でした。
つまり、結婚した男女を中心に家族が形成される形ではなく、氏族の長を中心とした一族です。

結婚も妻問婚と呼ばれる形式であり、男女の恋愛は自由に行われ、女性が男性を気に入れば結婚は成立しました。それを族長が承認することで正式な婚姻関係となります。
正式な婚姻関係といっても、財産は父親の氏族、母親の氏族で管理されていますし、夫婦が一緒に暮らして生活するということもありませんでした。
結婚しても夫婦は別々に暮らし、子供は母親の一族の子供として育てられたのです。

夫婦のセックスを営む場所については、諸説ありますが、古墳時代に入る頃には、専用の住居が用意されていたことが判っています。それ以前に関しては、妻の一族が寝ている居住スペースで行われていたのではないかと推測されています。

ちなみに夫が妻のもとへ来なくなれば、離婚が成立し、それによって氏族間でなにか問題が起きるということもありませんでした。
また、族外婚でなければならないという習慣はなく、近親婚も比較的多かったという指摘もあります。

妻問婚の制度は律令制度が整う奈良・平安時代まで続き、竪穴式住居が衰退する時期と一致しています。

文化を支えた竪穴式住居

竪穴式住居は寒暖に強く、古代日本人が持っていた文化に適していた家であったことが伺えます。

確かに律令制度が庶民にも浸透し、中国や朝鮮半島から持ち込まれた建築技術によって、竪穴式住居は消えていきましたが、炉やかまどの配置、部屋に仕切りを作らず、大きな部屋で家族が生活するなど、竪穴式住居の間取りの部分は引き継がれました。

なによりも、石器時代から平安時代まで造られてきたという歴史が、いかに古代の日本人にとって快適かつ重要な住居であったかを、証明しているのではないでしょうか。

竪穴式住居ライフは楽しい!縄文人の一日はどんな感じだった?

旅する狩猟民族が定住したマイホーム。竪穴式住居と縄文人

「毎日ゆったりした、ナチュラルな生活が送りたい。」
手元の有能すぎる電子機器に向かって言葉を発すれば、必要な情報を瞬時に手に入れられるご時世なのに、なぜ私たちは時代を重ねるにつれ、余暇を楽しむどころか忙しさが加速した生活を送っているのか不思議に思う今日この頃です。

ここ10年ほどのファッションシーンにもその傾向は顕著で、体を締め付けてより美しいラインを作るデザインよりも、プレーンなシャツにデニムをラフに着こなしたり、ジェンダーレスなカラーをグラデーション気味に身につけたり、民族の壁を超えたフォークロアファッションがトレンドだったりと、文明が進むにつれて細分化された人間同士の「こうであらねばならない」という壁をなくし、「自分らしく生きる」ことに注目が集まっています。

人間本来の生きる力をたどる上で、現代日本でちょっとしたブームとなっているのが、竪穴式住居で生活していた縄文人の暮らし方です。

生きるために家族を引き連れ、食料にする獲物を追って旅をする狩猟民族だった古代人が、地球の温暖化で海水面が上昇し、豊かな自然の恵みの中で旅をしなくても十分暮らしていけるようになった縄文時代に定住生活を選ぶようになった彼らの夢のマイホームが、竪穴式住居です。

近年の研究によりきめ細やかなところまで明らかになった、自然に忠実で自由かつ慈愛ある竪穴式住居生活をチェックしましょう。

縄文人の竪穴式住居生活はどんなもの?

ほんの十数年前までは、竪穴式住居=弥生人という印象だったものの、近年の研究では今から1500年~2400年前まで続いていた縄文時代まで遡ることがわかりました。

そのいずれかの時期、浜辺に近く、川も森もあり、安全で見晴らしのいい高台を見つけた縄文人が定住を始めました。

竪穴式住居ひとつにつき、一家族4~6人が収まるワンルームが設置され、家族が増えるにつれ、周囲に新しい竪穴式住居が作られ、基本的な竪穴式住居の集落は10軒に満たない数だったようです。

これは、周囲の海・川・森から採集する食料で賄える人数によって増減があるので、中には何十戸もの竪穴式住居の遺跡が残っている、食料採集に恵まれた場所もありました。

最近の研究によると、縄文土器などに残っていた食料の痕跡の一粒の大きさを時代ごとに比較してみたら、クリやマメの一粒がある時期から明らかにサイズアップしたことが分かったそうです。どうやら縄文人は、森から採集してきたクリやマメから大きなサイズの物を取っておいて、集落の近くなどで栽培することを発明したのではないか、と考えられています。

食料調達センスのある縄文人がすでにいたところに、大陸から稲作文化とともに弥生人が渡来してきて、文化を上書きする形で稲作が広がり、竪穴式住居の大集落が十分維持できる収穫を得られるようになったのではないでしょうか。

天気のいい日は食料採集へ出かけよう

ワンルームの竪穴式住居の真ん中には炉があり、朝日とともにその火種を起こすことから始まる縄文人生活は、一日の多くを食料採集に使います。

果実や木の実採集チーム、大型動物狩りチーム、魚獲りチーム、貝拾いチームetc…縄文人それぞれのポテンシャルによって組み分けられて、各担当箇所に向かう集団がある一方、集落に残った体の弱い女性や幼い子供、病人や負傷者、老人たちも仕事があります。

燻製などの保存食、縄文クッキーと言われる常備食、集落の周りのドングリ拾いや粉末加工といったクッキングはもちろん、竪穴式住居のメンテナンスも重要な仕事です。服や道具の修繕など、日が暮れて食料調達チームが集落に戻ってくる日暮れまで、やることはたくさんありました。

とはいえ、目標を早く達成してしまえば余暇はたっぷりありますから、土器に美しい細工を施したり、動物の骨や輝石を細工してアクセサリーを作ったり、長い髪の毛をオシャレに編み上げたり、動物の毛皮をアレンジしたり草の繊維で軽い生地を開発したり、それぞれの趣味に沿った楽しみを見つけることができました。

冒険心ある者は山を越えて旅に出て商人となったり、グルメハンターとして新しい食料を探しに行ったり、それぞれが生まれながらに持つ個性をいかんなく発揮した生活の活力の源は、やはり竪穴式住居集落という、血縁関係を中心にした大家族が暮らす竪穴式住居集落というホームポイントのおかげだったのではないでしょうか。
稲作文化到来前の食料は、旬の果実や魚、動物、木の根など、広範囲のビタミンが取れるバランスが良い高タンパクなものだったので、栄養バツグンに生き生きと暮らしていた縄文人に、憧れに近い思いを抱く現代人もきっと多いはずです。

竪穴式住居で変化する、古代人の縄張り意識

マイホームに対する特別な想いは、現代人も縄文人も変わりません。
なぜなら、定住生活をすることで、住まいの周囲に愛着ある景色が生まれ、「ここは自分の縄張りだ」という防衛意識が生まれるからです。旅する狩猟民族なら、周囲の環境が自分のライフスタイルと合わなくなったり、食べていくに不十分な状態になったとたんに、次の場所をめざし旅立つことができますが、竪穴式住居だからこそ蓄えられたたくさんの土器や家具、周りに作った植栽や畑、幼い子供たちや友人関係や先祖の墓、それらがありながら引っ越すことは、現代でさえ一苦労です。

この意識は、稲作文化を迎えたことでさらに強固なものになり、大集落を維持していくために合議が行われ、集落をコントロールする権力者が生まれるもとのひとつになりました。
  • Facebook
  • Twitter
  • hatena

    ▲ページトップ