日本史

わずか15年で幕を閉じたロマンあふれる大正時代

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大正時代が15年しか続かなかった理由

大正時代は1912年7月20日から1926年12月25日までのわずか15年で幕を閉じましたが、そのわずか15年の間に様々な出来事や変化が起こった時代でもありました。明治天皇の崩御の後、皇太子憙仁親王が践祚し大正天皇となります。大正天皇は生まれつき体が弱く、学習院も中退し家庭教師に勉学を教わっていたほどでした。幼い頃よりは回復していた大正天皇ですが、公務や心労が重なり病状が悪化、大正8年頃には食事をできないほどの状況でした。摂政に皇太子迪宮裕仁親王を任命し、各御用邸をまわり転地療養を繰り返していましたが、葉山御用邸で療養中に心不全で崩御されました。

第一次世界大戦で経験した絶頂とどん底

大正時代は世界も大きな変動のあった時代でした。もっとも大きな出来事は第一次世界大戦の勃発。ヨーロッパで勃発した世界大戦は、日本に好景気をもたらし、繊維業や造船・鉄鋼業などが急速に発展します。飛躍的に進む近代化の中で、一夜にして大金持ちになる人も続出しますが、大戦の終結と同時に一気に景気は冷え込み、今度は急速な景気後退を迎えます。様々な要素も絡み昭和金融恐慌と世界恐慌を目の当たりにするのもこの時代です。短い大正時代の中で、近代化を進める空前の好景気と、世界的な大恐慌の2つを体験した、まさに激動期でした。

周辺地域では辛亥革命により中華民国が誕生したり、ヨーロッパでは敗戦国のドイツ帝国やオーストリア・ハンガリー帝国、オスマン帝国などの帝政が終焉を迎え共和制が始まったり、民主政治が台頭してきた時代でもありました。ロシア革命により共産主義国家が誕生したのもこの時代です。

関東大震災で近代的な都市に発展

国内でもそれまでの藩閥体制から、政党政治が盛り上がってきました。家族でもなく薩長土肥の藩閥の出身でもない原敬内閣が誕生し、「平民宰相」と呼ばれ大きな期待を集めます。政治に対する関心も知識層を中心に高まり、大正デモクラシーと呼ばれる政治運動も盛んになってきました。ロシア革命の影響で社会主義・共産主義思想が広まったのもこの時代でした。身分や財産に関わらず、全ての成人男子に選挙権が認められた普通選挙法が成立し、初めての普通選挙が実現したのも大正時代です。

国内での大きな出来事といえば、大正時代後半に起きた関東大震災は外せないでしょう。震災で起きた倒壊や火災により、東京の街は壊滅状態になり江戸時代の街並みは姿を消してしまいますが、それによって広い道路の整備や西洋式の建築など都市計画に沿った近代的な街並みが誕生しました。

西洋の建築も数多く登場した大正時代

明治の終わりから大正時代、昭和の初めにかけては、西洋式の近代建築が数多く誕生した時代でもあります。赤いレンガの東京駅が誕生したのもこの時代。以来回収とリニューアルを繰り返し、現在も東京のランドマークとして親しまれています。使われなくなった駅舎の一部を改装したギャラリーや、当時から開業しているステーションホテルは、大正時代を感じられるスポットとして人気があります。

現在も校舎として利用されている立教大学や慶應義塾大学図書館旧館、公開されて見学できる岩崎邸や旧古河邸など、大震災を生き残り現在も現役で活躍する丈夫な建築物が多くあります。日本人建築家も活躍するようになり、煉瓦造りと鉄筋コンクリート造を併用した工法へ変遷した時期でもありました。そういった大正時代の建築物を訪ねて歩く散歩も楽しそうですね。東京だけでなく日本全国に多くの西洋建築が誕生した時代なので、建築物をめぐる旅行も企画できそうです。

モボモガとファッション

明治時代に文明開化と呼ばれ、西洋の文化が一気に入ってきた日本ですが、普段の生活様式が一度に変わったわけではありませんでした。洋装は上流階級から浸透していきますが、戦後になるまで和装は男女問わず一般的な服装でしたし、肖像写真でも一部の上流階級の人はまだ和装の人も混じっているのが見られます。

庶民の間にも洋装が広がりだしたのは大正時代に入ってからでした。ドラマの「ごちそうさん」や「花子とアン」に見られるように、まだまだ着物や学ランが主流でしたが、学生の服装にセーラー服が見られるようになったのもこの時代です。それまでの着物に髪を結い上げるスタイルから、ショートボブに少し長めの丈のワンピースを着てクロシェと呼ばれる帽子をかぶったスタイルが大流行します。アール・デコがブームだったこともあり、アクセサリーもそのスタイルが人気を集めます。アイシャドウが登場し、化粧の仕方にも変化が現れます。洋装に合わせて口紅も一般的なおしゃれのアイテムになり、街には「モダンガール」と呼ばれる女性たちが見られるようになりました。

男性も当時大流行した映画俳優チャップリンのような、山高帽にステッキや傘を持ち、ロイドスタイルのメガネをかけるのがおしゃれの代名詞になり、モダンガールに対して「モダンボーイ」と呼ばれるようになります。単語を短くするのは当時の日本人も好きだったらしく、「モボ・モガ」と省略して呼ぶのがおしゃれだったようです。とはいえ、おしゃれに敏感な人や革新的な考えを持つ人以外の多くの人にはまだまだ和装が身近な服装で、現在のように誰もが洋装になるのはもう少し後の時代まで待つことになります。

宝塚歌劇団に見られる芸能における女性の躍進

女性が社会へ出て活躍する姿が、多く見られるようになってきた時代でもありました。保母さんや看護婦など女性ならではの職業はもちろん、デパートの店員やウェートレス・バスガールなどのサービス業から、事務員やタイピストなどオフィスワークまで、女性の活躍出来る場が広がっていきます。政治の世界でも女性運動家が登場し、婦人参政権の獲得など女性の解放運動が盛んになっていきました。

宝塚歌劇団が登場したのも大正時代です。女性のみで構成されたミュージカルやレヴューの舞台は、老若男女を問わず誰もが楽しめるようにと考えられたものでした。歌の世界でも女性の歌手が活躍するようになり、この頃に伝わったジャズの影響でジャズシンガーも増えていきます。それまでは能や狂言といった古典芸能が主流で、その世界はほとんどが男性で占められていました。次第に西洋劇を導入した新劇が行われるようになり、女性も活躍するようになります。この流れは昭和時代に発展する大衆芸能としての芸能界の基礎を形成しています。

食文化

食の世界でも西洋の波が浸透していきます。洋食は上流階級のみのもので庶民には馴染みのないものでしたが、明治時代に登場したカレーライス・とんかつ・コロッケ・オムレツが庶民の間でも広まっていきます。当時はライスカレー・ポークカツレツ・オムレツライスと呼ばれていました。今よりも当時の呼び方の方が少しおしゃれに聞こえますね。洋風なものが人気を博したことで、カフェやレストランが発展し、飲食店にも変革が訪れたことが要因の1つです。

洋食にライス(ご飯)を添えて提供するスタイルも、この時代に登場した日本独特なスタイル。西洋の様式をそのまま真似たスタイルではなく、和食の要素をプラスしてアレンジしたスタイルが、日本人に馴染みやすかったことが、庶民に洋食の広まった理由なのかもしれません。現代では家庭の食卓に並ぶこのメニューも、当時はまだレストランや食堂でしか食べられないメニューでした。

新宿・渋谷の副都心の基盤が誕生

大きな被害をもたらした関東大震災でしたが、そのおかげで生まれたものもあります。震災で起きた火災により焼け出された人々は、当時はまだ農地の広がっていた世田谷や杉並地域へ移住します。この地域の人口が増えたことによって、渋谷・新宿の街が発展するようになったのです。現在は住宅地として有名な世田谷や杉並も、大震災がなければ今とは違った風景が広がっていたのかもしれません。住民が増えたことにより鉄道も発達したことも、新宿・渋谷エリアの発展に寄与しています。

大正時代はわずか15年と短い時代でしたが、大きな戦争や震災といった出来事がありました。その前の明治時代は国や政治といった庶民には馴染みのない部分で西洋化が進みましたが、私たち庶民の暮らしに西洋文化が広まったのは大正時代に入ってからです。それまでは江戸時代とはさほど変わらない生活を送っていました。この時代に庶民の間に広まった洋風の生活スタイルは、その後の昭和時代にそれまでの江戸時代の面影を払拭する勢いで発展します。大正時代は日本人に新たな文化が広まって定着し、昭和時代で大きく発展するための基盤を作った時期だったと言えるでしょう。古い文化から新しい文化へ、まさにバトンタッチした時代でした。
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